第126話 逃げ切れないと思って
「・・・う~わ、どうすんだよこれ」
戸張は床に倒れた二人を見下ろした。男たちは目を開いている。呼吸もしているが、指一本動かせないらしい。視線だけが戸張と、その周囲に集まった小さな影の間を激しく行き来していた。
近くで見ると、顔に覚えがあった。一人は白いハイエースを運転していた男。もう一人は、開いた後部ドアから仲間へ声をかけていた男だ。
「昨日、逃げた二人ですよね」
二人の目が揺れた。答えられないのだから、反応を見るしかない。亀山を連れ去ろうとした現場から逃走し、今度は戸張を尾行して暗渠へ入った。偶然でも、別件でもない。
戸張は周囲にいる白い群体へ意識を向けた。二人を殺さない。逃がさない。まず、話せるようにする。伝わったという確信はなかったが、倒れていた男の喉が動いた。次いで大きく咳き込み、何度も息を吸う。
「た、助け……助けてくれ」
もう一人も声を取り戻した。
「俺たちは言われただけだ! あんたを殺すつもりはなかった!」
「捕まえて、抵抗したら多少壊してもいい、でしたっけ」
二人が黙った。
彼らがどんな依頼文句を受けたか、戸張は直接は知らない。ただ、寄生体経由で伝わった断片的な感覚や、襲いかかる直前の会話から、おおよその意図は分かっていた。
「誰に頼まれたんですか」
「名前は知らない。連絡も直接じゃない」
「亀山さんを連れ去ろうとした時と同じ相手ですか」
「たぶん……仲介してる奴は同じだ」
「俺をどうするつもりでした?」
「捕まえて、連絡しろって。それだけだ。本当だ」
「捕まえた後は?」
「知らねえよ。引き渡し場所も、後から知らせるって話だった」
末端なのだろう。嘘をついている可能性はあるが、二人の知っている情報が少ないこと自体は不自然ではない。使っていた連絡先や端末は警察へ持っていかせればいい。昨日捕まった三人の供述と照合すれば、少なくとも戸張がここで尋問するより多くのことが分かる。
問題は、二人をどうやって警察へ渡すかだった。このまま暗渠へ置いておくことはできない。人間を長期間ここで飼うなど、考えたくもなかった。自由にして帰せば、暗渠の場所も、白い群体の存在も、その日のうちに仲介者へ伝わる。
遠くへ行かせ、二度と戻らないようにする方法もある。だが、それは逃がすのではない。残りの人生を奪い、自分の都合で行方不明者を二人作るだけだ。
殺す。
一番簡単な選択肢として、その言葉が頭に浮かんだ。二人は亀山を拉致しようとし、戸張まで襲った。放置すれば、また誰かを狙うかもしれない。それでも、まだ殺す理由にはしたくなかった。
戸張は小さく息を吐いた。
「警察へ行ってください」
二人が戸張を見た。
「……何?」
「昨日はその場で怖くなって逃げた。でも、車の写真も撮られている。顔も見られていて、仲間も三人捕まった。逃げ切れないと思って自首した。そういうことでどうですか」
運転手だった男が、意味を理解した途端に顔を歪めた。
「ふざけんな。自首しろっていうのか」
「はい」
「俺たちが捕まったら、何年入ると思ってんだ!」
「亀山さんを生きたまま連れ去って、三千万円で引き渡そうとしたんですよね」
「俺らが三千万もらえるわけじゃねえ!」
「そこは今、関係ありますか?」
男が言葉に詰まる。
「亀山さんの拉致を計画したこと。現場から逃げたこと。依頼を受けた経路。使った車と端末。それから、俺を捕まえるよう追加で指示されたこと。警察で全部話してください」
「ここへ来たこともか?」
「ここについては話さないでください。俺を尾行したけど、途中で見失った。それから逃げ切れないと思って自首した。そういう説明にしてください」
「そんな都合のいい話が通るかよ」
「車も乗り捨てたんでしょう。警察に追われて怖くなったと話せば、それほど不自然ではないと思います」
「俺たちが言われたとおりにすると思ってるのか?」
戸張は少し考えた。
「思ってはいません」
二人の表情が強張る。
「だから、これはお願いではありません」
戸張は体内の寄生体へ意図を伝えた。二人を殺さない。必要以上に傷つけない。警察へ向かわせる。途中で逃げない。仲介者へ連絡しない。暗渠と白い群体について話さない。それ以外は、できるだけ本人たちに任せる。
自分でも、ずいぶん勝手な条件だと思う。警察へ渡すから正しい、という話ではない。二人の意思を無視し、自分に都合の悪い供述だけを封じるのだから、やっていることは明確な強制だった。それでも、死体を二つ作るよりはましだと思うことにした。
二人の身体が小さく震えた。腕が動き、床へ手をつく。恐る恐る上半身を起こし、次いで立ち上がった。
「動ける……」
片方が自分の手を何度も握る。
「警察へ着くまで、余計なことはしない方がいいと思います」
「何をした」
「俺にも、どこまでできるのかは分かりません」
嘘ではない。
「逆らったらどうなる」
「分かりません」
「ふざけるな!」
「俺も試したことがないので」
男は怒鳴り返そうとしたが、周囲に集まるネズミや虫へ気づき、声を止めた。
戸張は暗渠の出口を指した。
「行ってください」
二人は動かなかった。
「今すぐです」
その言葉で、二人の足が勝手に一歩前へ出た。本人たちの意思と関係なく動いたのだろう。二人とも、自分の脚を見下ろした。
「待て。分かった、行く。自分で歩くから」
次の一歩は、自分で踏み出したようだった。
二人は何度も戸張を振り返りながら、暗渠の入口へ向かっていく。周囲の小さな影も途中まではついていったが、戸張が止まるよう意識すると、その場で散った。男たちの姿が見えなくなり、足音も遠ざかる。
これで本当に自首するかは分からない。戸張は、寄生体がどこまで意図を理解し、どこまで二人の行動を止めるのかも把握していなかった。ただ、警察へ行くよう説得した。少なくとも表向きは、そういうことにしたかった。
二人は橋の下から出ると、しばらく無言で歩いた。背後を振り返っても、戸張の姿はない。ネズミや虫がついてきている様子もなかった。大通りへ出たところで、運転手だった男が足を止める。
「……いるか?」
「何が」
「あいつだよ。追ってきてないよな」
もう一人が周囲を見回す。
「いねえ。馬鹿が、言われたとおりに動くわけねえだろ」
吐き捨てた声には、まだ震えが残っていた。
「先に上へ連絡する。あいつの場所も、見たものも全部報告するぞ」
「ああ。亀山どころじゃねえ。あいつ、絶対まともじゃない」
運転手だった男がポケットへ手を入れた。指先がスマートフォンへ触れる。そこで腕が止まった。
「……何だ、これ」
肩までは動く。肘も僅かに曲がる。だが、端末を取り出そうとすると、腕の筋肉が固まったように動かなくなる。
「どうした」
「手が動かねえ。取れ」
もう一人が代わりにポケットへ手を伸ばす。その腕も、途中で止まった。二人は顔を見合わせた。
「まだ、麻痺が残ってるだけだ」
「じゃあ、俺の腕まで同じところで止まるのかよ」
男は無理に腕を動かそうとした。筋肉が震え、息が荒くなる。それでも指先は端末へ届かない。
「電話はいい。直接行くぞ」
警察署とは反対方向へ足を向ける。一歩目は出た。二歩目で膝が抜けた。男は歩道へ手をつき、転倒を避ける。脚に力を入れても立ち上がれない。
「おい!」
「足が……」
「こっちだ。警察じゃない方へ行こうとしたから……」
「そんなわけあるか!」
もう一人も反対方向へ進もうとした。同じように、足が止まる。身体は倒れなかった。ただ、その方向へだけ進めない。警察署のある方角へ向き直ると、何事もなかったように脚が動いた。
二人の顔から血の気が引いていく。
「まだ、中にいる」
「何がだよ」
「さっき入ってきたやつだ。まだ俺たちの中にいる」
「やめろ」
「あの男の言うことに逆らったら、動けなくなる」
「やめろって言ってんだろ!」
叫んだ男が、周囲の視線に気づいて声を落とす。通行人から見れば、路上で揉めている二人組にしか見えない。
「なら、場所だけでも誰かに伝える。あの暗渠に――」
言葉が途中で切れた。息はできている。口も動く。だが、暗渠について続けようとすると、喉の奥が固まり、声にならなかった。
「どうした」
「言えない」
「何を」
「場所を……あいつがいた場所を言おうとしたら、声が出ない」
もう一人も試そうとした。
「あの男は、橋の――」
同じところで声が途切れる。
二人の間に沈黙が落ちた。戸張は近くにいない。姿も見えず、声も届かない。それでも、自分たちが何をしようとしているのかを、体内に残った何かが判断している。警察へ向かうことだけはできる。それ以外を選ぼうとすれば、身体が止まる。
「警察に行ったら、どうなる」
「知らねえよ」
「言うことを聞かなかったら?」
「もっと知らねえよ」
暗渠で見た無数の影を思い出す。身体の中を這った冷たい感触。指先すら動かせず、目だけで戸張を見上げていた時間。あれがもう一度起こるだけで済む保証はない。次は身体を返してもらえないかもしれない。
「……行くぞ」
「警察に?」
「他にどこへ行けるんだよ」
二人は警察署の方向へ歩き始めた。足は問題なく動いた。それが、かえって恐ろしかった。
その日の朝、亀山拉致未遂事件で逃走していた男二人が、警察署へ出頭した。二人は、逃走した理由を聞かれると、戸張に示されたとおりの説明をした。
「その場では怖くなって逃げました。でも、車も顔も撮られて、仲間も捕まった。もう逃げ切れないと思って……自首しました」
声は震えていた。警察官には、罪を認める恐怖に見えた。




