第124話 そういう意味じゃない
拉致未遂の後、戸張が自宅へ戻れたのは日付が変わってからだった。現場での事情聴取に加え、警察署でも同じ内容を何度か確認された。亀山を囲んでいた男たちの動き、スタンガンを出された順番、逃げた白いハイエースの特徴。戸張が三人を短時間で取り押さえたことについても、かなり細かく聞かれた。
登録調査員として訓練へ参加した帰りだったことと、周囲の映像が残っていたことが幸いした。戸張から手を出したわけではなく、亀山を車へ連れ込もうとした男が先に武器を使っている。過剰な暴力を加えた形跡もない。それでも、三人を相手に無傷だったことについては、担当者も気になったらしい。訓練で教わった動きと、異常空間内で身についた身体能力のおかげだと説明した。完全な嘘ではない。
亀山は警察側が手配した車で帰ることになった。今後の警護や住居についても話があるらしく、別れる前に短いメールだけが届いた。
『今日は本当にありがとうございました。落ち着いたら改めて連絡します』
戸張は返信を送り、着替えだけ済ませて布団へ入った。疲れていたはずなのに、すぐには眠れなかった。
三千万円。生きたまま引き渡す。
あの男たちは、誰に亀山を渡すつもりだったのか。逮捕された三人がどこまで知っているかも、逃げた車が見つかるかも分からない。自分がもう少し早く異変へ気づかなければ、亀山は連れ去られていた。
水門に残した白い群体の行動から始まり、能力者だという噂が広まり、ついには生きた人間へ三千万円が掛けられた。寄生体から生じたものが原因である以上、自分は無関係ではない。
考え続けるうちに、意識が途切れた。
夢の中で、戸張は低い場所から暗渠を見ていた。視界が揺れている。二本の脚で歩いているはずなのに、自分の身体ではない。湿った床を踏む感覚が、足の裏ではなく、遠いところから伝わってくる。
前方を、一体のゴブリンが走っていた。見覚えのない個体だった。腕に粗末な布を巻き、錆びた刃物を握っている。何度も後ろを振り返り、喉の奥から甲高い声を上げている。
それを追う影が三つ。戸張が寄生させたゴブリンたちだった。
追われていたゴブリンが振り向き、刃物を振る。寄生ゴブリンの一体が腕で受け、別の一体が横から体当たりした。倒れたところへ、最後の一体が石を振り下ろす。一度。二度。動かなくなるまで続いた。
そこで視界が切り替わる。別の通路。別の低い視点。
二体の敵ゴブリンが、寄生ゴブリンを挟もうとしていた。壁際の陰から、小さな影が飛び出す。ネズミだった。
敵ゴブリンが足元へ注意を向けた瞬間、背後から寄生ゴブリンが襲いかかる。首へ腕を回し、もう一体が膝の裏を蹴る。倒れた二体は抵抗したが、周囲からさらに小さな影が集まってきた。ネズミ。虫。床の隙間を這う、名前も分からない小さな生き物。
夢はさらに続く。
倒したゴブリンの死体が、通路の脇へ運ばれていた。一か所ではない。別々の場所で狩られたゴブリンが、少しずつ奥へ集められている。寄生ゴブリンたちは、その周囲を警戒しながら、近づいてくるネズミや虫を追い払わない。
白い糸のようなものが、死体の傷口から伸びていた。ネズミが肉へ噛みつく。白いものが、その口元へ触れる。虫が集まる。白いものが、その小さな身体へ移っていく。
一匹。二匹。十匹。
視界が増える。床を走る感覚が増える。壁の隙間、天井近くの割れ目、水の流れる浅い溝。暗渠の一層を、小さな感覚が次々と埋めていく。
寄生ゴブリンは増えていなかった。戸張が寄生させた五体のままだ。その代わり、白い群体が増えていた。敵ゴブリンを狩り、その死体を餌と材料にして、ネズミや虫へ広がっている。
ゴブリンを増やすな。入口付近を守れ。他のゴブリンを近づけるな。
戸張が残した意図は、確かに守られていた。守られたうえで、最悪の方向に拡大されていた。
「いや、ゴブリン増やさなきゃいいってことじゃないんだよ!」
自分の声で目が覚めた。
戸張は布団を跳ね上げ、上半身を起こした。薄暗い部屋の中で、荒い呼吸だけが響いている。窓の外はまだ明るくなりきっていない。
夢の内容を思い返す。ただの悪夢ではない。複数の視界。湿った床の感覚。獲物を追い詰めた時の高揚と、群れが拡大していく満足感。体内の寄生体からも、それに近い感情が返ってくる。
順調。問題なし。与えられた役割を、予想以上にうまく果たしている。
「順調じゃない。絶対に順調じゃない」
寄生体から返る感覚は変わらなかった。戸張は顔を覆った。
確かに、寄生ゴブリンを増やすなとは考えた。必要以上にゴブリンの意思を奪いたくなかったからだ。だが、狩ったゴブリンを利用して白い群体を量産しろとは言っていない。
一層の生態系がどうなっているのか分からない。夢で見えた数がすべてとも限らない。このまま放置すれば、入口付近だけでなく一層全体が白い群体の巣になる可能性がある。いや、すでになり始めている。
戸張は時計を見た。眠った時間は短い。それでも、二度寝している場合ではなかった。
洗面所で顔を洗い、必要な物を揃える。ライト、外套、手袋、予備の袋、山刀。暗渠へ入る際に使っている装備を、確認しながらリュックへ入れていく。急いではいるが、装備を抜くわけにはいかない。白い群体を止めるにしても、何体まで増えているのか分からない。寄生ゴブリン側と直接同期し、指示を修正する必要もある。
「狩るな、じゃ通じないかもしれないな」
他のゴブリンを近づけるなという役割と矛盾する。倒した相手を利用するな。新しい宿主を増やすな。ただし、既に寄生した個体はどうする。命令を短くしようとすると、必ず穴ができる。
戸張はリュックを背負った。
「行ってから考えるしかないか」
玄関を出て、鍵をかける。普段より早足で歩き始めた戸張を、道路の向こう側から見ている者がいた。
停車した乗用車の中に、男が二人いる。一人は、白いハイエースを運転して逃げた男。もう一人は、後部座席から仲間を呼び戻そうとしていた男だった。
拉致に失敗してから、二人は車を乗り捨て、別の車へ乗り換えていた。捕まった仲間が何を話したのかは分からない。使っていた端末も警察へ渡った。仲介役からの連絡は途絶え、亀山の確保に成功した場合に支払われるはずだった金も消えた。
すべて、あの男が出てきたせいだった。
「出てきたぞ」
助手席の男が、身を低くしたまま戸張を見る。現場で亀山が呼んだ名前と、周囲に出回った動画から、身元を調べるのは難しくなかった。
戸張透。正式五級の調査員。国の訓練へ参加していたらしいが、それ以上の目立った情報はない。戦闘の専門家でも、警察や自衛隊の出身でもない。
現場では三人が取り押さえられた。だが、人数が多かったせいで互いに動きを邪魔し、スタンガンを見せてから一人ずつ向かった。相手へ警戒する時間を与えたのが失敗だった。
二人はそう考えていた。
「一人だな」
「ああ」
「随分慌ててる」
戸張は背後を気にする様子もなく、先へ進んでいく。実際には周囲の音も気配も拾っていたが、戸張の意識は暗渠の状態に向いていた。朝の住宅地を走る車や、離れた場所を歩く人間の一人ひとりを敵として疑う理由もない。
男たちは車をゆっくり発進させた。
「今度は近くに誰もいないところまで待つ」
「二人で同時に後ろから行く。騒がれる前に落とす」
「殺すなって話だったな」
「抵抗したら多少壊してもいい。あいつのせいで金を逃したんだ。少しくらいはいいだろ」
仲介役から最後に届いた指示は、亀山の近くにいた探索者の確保だった。亀山本人を狙えば、今度は警察が待っている可能性が高い。先に周囲の障害を取り除き、何を知っているのか吐かせる。使い道がなければ、その後は好きにしていい。
二人は、その言葉を都合よく解釈していた。
戸張は電車と徒歩を使い、人通りの少ない場所へ向かった。住宅が減り、古い道と水路が増えていく。男たちは車を置き、距離を空けて後を追った。
「こんなところに何がある」
「見ろ、装備まで持ってる。どこかに潜る気だ」
管理区域の異常空間へ向かっているようには見えなかった。受付も、封鎖線も、職員の姿もない。
戸張は橋の下へ下り、暗渠の奥へ進んでいく。迷いのない足取りだった。
二人は物陰から、その姿を見送った。
「隠してた場所か」
「未申告の異常空間ってやつじゃねえのか」
男の背負っていた装備を思い出す。ライト、外套、靴、腰回りの道具。どれも安物には見えなかった。
人目のない場所。警察もいない。亀山も、他の探索者もいない。中で何をしても、すぐに助けが来ることはない。
「どうする」
「決まってるだろ」
運転手だった男が、暗渠の入口を見る。
「人数を増やしたから、前は失敗した。今度は二人で十分だ」
二人は戸張が見えなくなるまで待ち、それから暗渠の中へ足を踏み入れた。




