第122話 連絡先
訓練自体は、特に問題なく終了した。
参加者は何度か隊列を組み替え、負傷者役を担架へ乗せ、職員の合図に従って撤退経路を確認した。途中で敵性生物を模した標的が配置されたが、戦闘訓練というより、接触した際に誰が前へ出て、誰が周囲を確認し、どの段階で引き返すかを確かめる内容だった。
戸張も他の参加者と同じ指示を受けた。
自分だけ先へ進みすぎないように歩幅を合わせ、持ち上げられる重量よりも、周囲と同じ力で担架を支える。標的への対応でも、倒せるかではなく、隊列を崩さず後退できるかを優先した。
項目が終わるたび、協力枠の担当職員から短い聞き取りを受けた。
「負傷者役を中央へ入れるまで、少し時間がかかったように見えました」
「後ろの人まで指示が届いていなかったと思います。前の二人は動いていましたけど、後ろはどちらへ寄ればいいのか分かっていませんでした」
「合図の問題ですか」
「合図だけではなく、誰の指示を優先するかを最初に決めた方がいいかもしれません。全員が声を出すと、余計に止まります」
戸張が答えると、職員は手元の用紙へ書き込んだ。
期待されていたのは、戦い方を教えることではないらしい。
自分には簡単でも、他の参加者が同じように動けるとは限らない。逆に、戸張が意識せず処理していることを、順序として分けなければならない場合もある。
亀山も記録担当として最後まで参加していた。
撮影機材を構えながら隊列の後方を歩き、職員の指示に従って位置を変える。開始前より顔色がよくなったわけではないが、途中で抜けることも、動けなくなることもなかった。
白い群体が現れることもなかった。
訓練終了が告げられると、張り詰めていた空気が緩んだ。
貸与品を返却し、最後の確認を終えた参加者から順に帰り始める。戸張は追加の聞き取りを済ませ、集合場所の外へ出た。
少し先で、亀山が一人で荷物をまとめていた。
開始前に交わしたやり取りについて、訓練中は一度も触れていない。視線が合うことはあったが、互いに何も知らない参加者として振る舞った。
このまま別れてもよかった。
必要になれば、亀山の方から声をかけるだろう。
そう考えたが、朝から見ていた顔色を思い出す。まだ大丈夫だと言った人間を、何も食べさせずに帰すのも落ち着かなかった。
「亀山さん」
呼びかけると、亀山が振り返った。
一瞬だけ緊張した顔になり、すぐに周囲を確認する。その反応を見て、戸張は声を少し落とした。
「この後、時間ありますか」
「ああ、はい。特には」
「何か食べて帰りませんか」
亀山は目を瞬かせた。
「食事、ですか」
「嫌なら無理にとは言いませんけど」
「いえ、嫌ではないです。ちょっと、もっと別の話をされるのかと思って」
「別の話は、ここではしません」
「ですよね」
亀山は小さく息を吐き、ようやく少し笑った。
「じゃあ、お願いします」
駅へ向かう途中にあったファミリーレストランへ入り、二人は通路から少し離れた席へ座った。
亀山はメニューを開いたまま、しばらく同じページを見ていた。
「食欲ありませんか」
「いや、あります。あると思います。ただ、最近は食べる時間がかなりずれてて」
「今日は何か食べました?」
「朝に、ゼリー飲料を一本」
「それだけですか」
「訓練中に倒れなかったので、結果的には足りてました」
「足りてないと思います」
戸張が言うと、亀山は反論せず、定食のページへ視線を移した。
二人とも注文を終えると、最初に話し始めたのは亀山だった。
「さっきは、ありがとうございました」
「何もしてませんよ」
「それでもです」
亀山はテーブルの端へ視線を落とした。
「あの時の人が本当にいたんだって分かっただけで、かなり違いました。最近、自分でもどこまでが事実で、どこからが周りに言われ続けてそう思ってるだけなのか、分からなくなる時があったので」
あの日、水門で救助されたことを、亀山は誰にも話していない。
政府にも、警察にも、配信の視聴者にもだ。
一人で入り、一人で戻り、その後に通報した。それが亀山自身の説明であり、現在残っている記録でもある。
戸張は声を抑えた。
「俺のことを話さなかった理由を聞いてもいいですか」
「言わないと約束したので」
「直接、約束はしてません」
「俺が勝手に言っただけでしたね」
亀山は苦笑した。
「でも、あの場で黙ってたじゃないですか。否定もしなかった。顔も隠してたし、記録も壊した。知られたくないことくらいは分かりました」
「それで、ずっと?」
「一度話したら、たぶん止まらなかったと思います。助けてくれた人がいたと言えば、どんな人だった、何をした、どこへ行ったって聞かれる。分からないと答えても、似た人を探そうとする人は出ます」
そのとおりだった。
「それに、助けてもらったのに、後から人を連れて探しに行くのも違うでしょう」
亀山はそれ以上を当然のことのように言った。
自分が能力者だと疑われ、白い群体との関係を否定しても信じてもらえず、追い詰められている今でさえ、その秘密を利用しなかった。
「ありがとうございます」
戸張が言うと、亀山は少し戸惑った。
「そちらからお礼を言われると、変な感じですね」
「言われて当然のことをしてもらっています」
「俺は言わなかっただけです」
「それができる人ばかりではないので」
料理が運ばれてきた。
亀山は最初こそ箸の進みが遅かったが、何口か食べるうちに速度が戻っていった。
「最近は、ずっとあんな感じなんですか」
「顔ですか」
「はい」
「もっとひどい日もあります」
亀山は冗談にしようとして、うまく笑えなかった。
「配信はかなり減らしました。取材も、ほとんど断ってます。否定しても隠してると言われるし、何も言わないと肯定したことにされるので」
「眠れていないように見えました」
「寝ようとすると、通知を見てなくても鳴った気がするんですよ。電源を切っても、今度は何か大事な連絡を見落としてるんじゃないかって気になる」
戸張には、その感覚を完全には想像できなかった。
自分にも隠していることは多い。だが戸張の場合、世間はまだ、その秘密が存在することすら知らない。
亀山は何も持っていないのに、持っていると決めつけられていた。
「活動をやめるつもりはないんですか」
「考えました」
亀山は味噌汁へ口をつけてから答えた。
「でも、完全に引っ込んだら、それも逃げたとか、何か準備してるとか言われそうで。それ以前に、虫とか生き物を撮ることまでやめたら、本当に今の騒ぎしか残らない気がするんです」
「今後は、どうするつもりです?」
「生配信は減らします。撮ったものを確認してから出す形に戻します。異常空間に関わる仕事も、断るものは断る。自分で中止を決められない仕事は受けません」
訓練へ来たのも、その一つらしい。
完全に離れるのではなく、自分で関わり方を決め直すために参加した。
「何もしないでいれば収まると思ってたんですけどね」
亀山は箸を置き、疲れた笑いを浮かべた。
「何もしない間に、俺の設定だけ増えていって」
戸張も少し笑った。
「笑い事じゃないんですけど」
「すみません。言い方が上手かったので」
「最近、掲示板を見ると、俺が群体に命令を出す方法まで考察されてますよ。指の動きだとか、声の高さだとか」
「実際には?」
「何もしてません。できません。できるなら、まず二度と人前に出るなって命令します」
戸張は知っている。
亀山の言葉が事実であることを。
「俺は、亀山さんが操っていないことを信じます」
亀山の動きが止まった。
「そこまで言い切れるんですか」
「少なくとも、今まで嘘をついていた人には見えないので」
本当の理由は話せない。
水門に残った白い寄生体が、自分の中の寄生体と接触し、情報を共有した。その存在が亀山の命令に従っていたわけではないことも、戸張には分かっている。
亀山はしばらく戸張を見た後、小さく頭を下げた。
「ありがとうございます」
その声は、開始前より少しだけ楽そうだった。
「そういえば、俺が参加している互助会があるんですが」
「互助会?」
「正式登録者や仮登録者が、情報交換をしている集まりです。装備や制度の話もしますし、困ったことがあれば相談もできます」
「探索者の集まりですよね。俺、記録担当ですけど」
「そこは確認が必要です。ただ、今日みたいな訓練に参加する立場なら、話を聞ける場くらいは用意してもらえるかもしれません」
亀山は少し考え込んだ。
「俺みたいなのが入ると、迷惑になりませんか」
「迷惑かどうかを決めるのは、亀山さんではなく向こうです」
「それもそうですけど」
「少なくとも、事情を知らない人から勝手な能力を設定されるよりは、現場に入っている人と話す方がましだと思います」
「それは、かなりそうですね」
すぐに加入を勧めるつもりはなかった。
戸張自身も、槙野たちへ確認せず話を進めるわけにはいかない。ただ、亀山が一人で抱え込まずに済む場所の候補にはなる。
「一度、相談してみます」
「お願いします。無理なら無理で構いません」
「それだけでも助かります」
食事を終える頃には、亀山の皿はきれいに空になっていた。
会計を済ませ、店の外へ出る。
日が落ち、道路沿いの看板や店の明かりが目立ち始めていた。
「詳しい話は、また別の方法にしましょう」
戸張が言うと、亀山も頷いた。
「ここだと、誰が聞いてるか分かりませんからね」
「文章に残していいことと、残さない方がいいことも分けた方がいいと思います」
「メールなら、考えてから送れます。俺もその方が助かります、それにまだ伝えないといけない事もあるので」
二人はスマートフォンを取り出し、連絡先を交換した。
亀山の画面へ戸張の名前が表示される。
「戸張さん、だったんですね」
「そういえば、名乗ってませんでした」
「ようやく呼び方が分かりました」
「今まで何て呼んでたんですか」
「心の中では、顔の見えない人です」
「そのままですね」
「情報がなかったので」
亀山が、今日初めて自然に笑った。
駅まではそれほど遠くない。
亀山は電車で帰ると言い、戸張とは途中で方向が分かれることになった。
「今日はありがとうございました」
「こちらこそ。互助会の件は、確認したら連絡します」
「お願いします」
亀山が背を向け、駅の方へ歩き始める。
戸張も反対方向へ足を向けた。
数歩進んだところで、足を止める。
理由を言葉にするより先に、違和感を拾っていた。
ファミリーレストランの駐車場脇に、一人の男が立っている。
服装は普通だった。片手にスマートフォンを持ち、画面を見ているように見える。待ち合わせをしていても不思議ではない。
だが、亀山が店から出た直後に顔を上げた。
亀山が歩き始めると、少し遅れて男も動く。
同じ方向。
偶然なら、それだけではおかしくない。
戸張は男から視線を外し、道路沿いへ目を向けた。
少し先に、白いハイエースが停まっている。
店の駐車区画ではない。短時間の停車には向かない位置で、エンジンをかけたまま動かない。
運転席に一人。
後部にも、人影がある。
男が亀山との距離を保ちながら、同じ角を曲がった。
直後、白いハイエースのライトが点いた。
車体がゆっくりと道路へ出る。
偶然ではない。
戸張は帰る方向へ向けていた足を止めた。
交換したばかりの連絡先を開き、亀山の名前を表示する。
だが、メッセージは送らなかった。
今ここで亀山が振り返れば、男にも気づいたことが伝わる。
戸張はスマートフォンをポケットへ戻した。
男とハイエースの後を追った。




