第121話 まだ大丈夫です
戸張は予定どおり、指定された日の集合場所へ来ていた。
訓練に使われるのは、管理済み異常空間の近くに設けられた仮設施設だった。受付には正式五級と仮登録者が列を作り、少し離れた場所では職員が貸与装備と名簿を確認している。
参加者として受付を済ませると、戸張だけ別の職員に呼び止められた。
「開始前に、協力枠について簡単にご説明します」
案内されたのは、全体集合場所の端に置かれた長机だった。職員は周囲へ聞こえない程度に声を落とし、紙の資料を開く。
「戸張さんにも、基本的には他の参加者と同じ内容を受けていただきます。訓練中に指導役をお願いすることはありません」
「分かりました」
「各項目の終了後、動作に無理がなかったか、指示が分かりにくくなかったかなど、短い聞き取りを行います。気づいた点があれば、その都度職員へ伝えていただいても構いません」
有識者という言葉から想像していたより、立場は普通の参加者に近い。
下手に前へ立たされるより、その方がありがたかった。
「こちらとしても、戸張さんの動きを基準に訓練内容を決めるつもりはありません。他の参加者が同じように実行できるかは、別に確認します」
「俺だけできても意味がない、ということですよね」
「はい。少し率直に申し上げれば」
職員は気まずそうに笑った。
「その方が分かりやすいです」
説明を聞きながら、戸張は集合場所へ目を向けた。
知っている顔が何人かいる。互助会で見かけた登録者や、以前の訓練で一緒になった者もいた。実地参加者とは別に、記録担当や見学者らしい人間も集まっている。
その中に、亀山がいた。
映像やニュースでは何度も見ている。水門で一度、直接助けた相手でもある。
だが、戸張の記憶にある姿とは随分違っていた。
顔色が悪い。目の下には濃い影があり、頬も以前より痩せて見える。立っているだけで精いっぱいというほどではないが、身体から疲労が抜けていないことは遠目にも分かった。
それでも、亀山は職員の説明を聞き逃さないように顔を上げている。手にした資料へ目を通し、何度も小さく頷いていた。
胸の奥に、重いものが落ちる。
あの白い群体へ、亀山を守れと命じた覚えはない。水門に残した寄生体が何を感じ、なぜあのような行動を取ったのかも、戸張には分からなかった。
それでも、無関係とは言えない。
あれは自分の体内にいるものと同じ系統で、自分との接触によって再び同期した。群体が亀山の前で見せた行動が、彼を能力者として扱う騒ぎの始まりになった。
寄生体が勝手にやった。
そう切り離すことは、もうできなかった。
「説明は以上です。何か質問はありますか」
「いえ、大丈夫です」
戸張は資料を受け取り、集合場所へ戻った。
亀山の周囲には誰もいなかった。避けられているわけではない。本人が少し離れた位置を選んでいるように見えた。
近づくにつれ、疲れた様子がさらに目につく。
「大丈夫ですか。顔色がよくありませんが」
声をかけると、亀山は一瞬だけ肩を揺らした。
「あ、はい。大丈夫です」
反射的な返事の後で、少し困ったように笑う。
「ただ、ここで逃げるわけにはいかないなあと」
冗談めかした言い方だったが、声には力がなかった。
逃げるという言葉が、異常空間からの撤退だけを指していないことくらいは分かる。
何も発信しなくても、能力者だと決めつけられる。否定すれば隠していると言われ、姿を見せなければ逃げたと扱われる。
それでも、この男はここへ来た。
そこで戸張は、今まで意識していなかったことに気づいた。
政府側から、あの日の救助者を探すような動きは一度も見えていない。
水門から亀山が戻った後も、正体不明の同行者や協力者について確認されたことはなかった。救助者らしき人物を探しているという報道も、公式の情報提供要請もない。
表向きの記録では、亀山は一人で水門へ入り、一人で戻り、その後に通報したことになっている。
つまり亀山は、救助者がいたこと自体を話していない。
顔も声も知らなかったから説明できなかった、というだけではない。誰かに助けられたと言えば、その人物を探す動きは必ず起きたはずだ。
亀山は最初から、何も言わないことを選んだ。
記録カードを壊されたことも、顔を隠した人間が中にいたことも、その相手が普通ではない動きをしたことも、すべて自分の中へしまった。
今、自分がここまで追い詰められていても、その話を持ち出していない。
正体不明の救助者へ関心を向けさせれば、少しは自分から視線を逸らせたかもしれない。それでも、亀山は約束を守り続けた。
戸張は亀山を見た。
疲れ切った顔で、それでも逃げないと言った男を。
尊敬に近い感情が浮かび、そのすぐ後に信用が続いた。
この人なら、知らせてもいい。
そう思った後で、理性が止めるより先に身体が動いた。
大きく息を吐く。
一度肺の中を空にしてから、ゆっくり吸い込んだ。
亀山が不思議そうにこちらを見る。
戸張は右手を、亀山からはっきり見える位置へ上げた。
親指と人差し指で、小さな何かを摘む。
そのまま、指先へ力を込めるように二本の指を合わせた。
「助けが必要ですか」
「あっ」
亀山が短く声を上げた。
視線が戸張の指先へ固定される。
水門の奥。二枚の記録カード。親指と人差し指に挟まれ、目の前で砕かれた黒い破片。
亀山の表情だけで、記憶が繋がったことが分かった。
戸張の顔を見る。指先を見る。もう一度、顔へ戻る。
周囲に聞かれないように声を抑えながらも、呼吸だけが僅かに乱れていた。
亀山は慌てて辺りを見回した。誰も二人へ注意を向けていないことを確かめ、口を開こうとして一度閉じる。
目に涙が浮かんでいた。
泣くつもりはなかったのだろう。本人も困ったように瞬きを繰り返している。鼻が詰まったのか、一度小さく息を吸い直した。
「大丈夫です」
最初の一言は、少し掠れていた。
「ええ、まだ……まだ大丈夫です」
助けを拒んでいるようには聞こえなかった。
今はまだ、自分で立つ。
そう答えているように思えた。
戸張は上げていた手を下ろした。
「分かりました」
それ以上は聞かなかった。
亀山も、戸張が何者なのかを問い詰めなかった。白い群体との関係を知っているわけでもない。ただ、あの日の救助者が目の前にいて、必要なら手を差し出すと言った。
今は、それだけで十分だった。
「実地参加者の方は、こちらへ集まってください」
職員の声が響く。
周囲の参加者が移動を始めた。
亀山は目元を拭う代わりに、何度か強く瞬きをした。顔色が急によくなったわけではない。それでも、先ほどより少しだけ背筋を伸ばしている。
「行きましょうか」
「はい」
二人は並んで歩き出し、すぐにそれぞれの指定された位置へ分かれた。
秘密を言葉にしたわけではない。
名前を名乗ったわけでも、約束を交わしたわけでもない。
それでも亀山はもう、自分一人だけで立っているわけではなかった。




