第117話 俺がやる
小人たちの騒ぎは、俺が集落を離れようとしても収まらなかった。
青い仮面の個体だけは最後まで深く頭を下げていたが、その後ろでは器を叩く音と甲高い歓声が続いている。俺が歩き出すと、何体もの小人が集落の端までついてきて、両手や武器ではない何かを振っていた。
罠だらけの道も、帰りにはすべて止められていた。石畳を沈ませても槍は飛ばず、屋根の上から網や壺が落ちてくることもない。代わりに路地の両側から小人たちが顔を出し、俺が通るたびに頭を下げる。
来た時との差が激しすぎて、同じ場所とは思えなかった。
「これ、次に来た時も続くのか?」
当然、返事はない。
祭りの音が聞こえなくなったところで一度振り返ったが、追ってくる個体はいなかった。俺は抱えていた灰色の胸当てを持ち直し、三層へ続く道へ戻った。
帰路で新しい敵に遭遇することはなかった。
四層の小人たちは俺を襲わなくなり、三層はリッチに焼き払われた後のままだった。二層の菌や植物も、近づけば動くものはあったが、こちらから触れなければ追ってはこない。
戦闘が続かなかったおかげで、考える余裕ができた。
大蛇を取り込んだ寄生体には、今のところ目立った変化がない。満足していることだけは伝わるが、何を得たのか、そもそも何かを得たのかも分からなかった。赤いポーションは一本増え、用途不明の胸当ても手に入った。リッチの杖もまだ持ったままだ。
成果だけを数えれば、十分すぎる探索だった。
問題は、帰るまでが探索だということだった。
一層へ戻り、しばらく歩いたところで足を止める。
床に、小さな足跡が残っていた。
裸足に近い形で、指が長い。見覚えがある。ゴブリンのものだ。
一つや二つではない。通路を横切るもの、壁際を往復したもの、同じ場所で重なっているもの。古い跡に新しい跡が重なり、向きも揃っていない。
「増えてるな」
しゃがみ込み、床へ触れる。
薄く積もった砂や土が乱れていた。寄生体から危険を知らせる反応はない。今すぐ近くに敵がいるわけではなさそうだが、以前に比べて明らかに数が多い。
二層にいるのは菌や植物に近いものだ。こうした足跡を残す生物ではない。三層や四層から、わざわざここまで上がってきたとも考えにくい。
一層にいたゴブリンが動き始めている。
さらに入口へ向かう。
進むほど、足跡は減るどころか増えていった。以前なら寄生ゴブリンが巡回していた範囲にも新しい跡があり、入口からそれほど離れていない通路にまで続いている。
足を止め、しばらくそれを見下ろした。
五体がいた時は、ここまで近づいていなかった。
寄生ゴブリンが他の個体を倒していたのか、近寄らせなかったのか、それとも単に縄張りとして避けられていたのかは分からない。だが、あいつらがいなくなった後で足跡が増えた。それだけは確かだった。
このまま放置すれば、入口付近までゴブリンの行動範囲になる。
外へ出られるかどうかは分からない。今まで出ていない以上、何らかの制限がある可能性は高い。それでも、入口を見つけた人間が中へ入る危険は残る。
子供の頃に入ったことがある場所だ。
俺が見つけられた以上、誰にも見つからないとは言い切れない。
入口を塞ぐ方法も考えた。だが、外側だけを塞いでも、時間が経てばダンジョン側がどう変化するか分からない。完全に埋めれば俺も入れなくなるし、目立つ工事をすれば、それはそれで人目を引く。
定期的に俺が掃除する方法もある。
ただ、毎日ここへ来られるわけではない。数日空けた間に何体増えるのか、どこまで進むのかも分からない。
白い群体を残すことも考えたが、巡回や迎撃には宿主の身体があった方がいい。少なくとも、以前の五体は一層を守る役目を果たしていた。
考えるほど、答えは一つに寄っていく。
寄生ゴブリンを、もう一度作る。
頭に浮かんだ瞬間、胸の奥に重いものが沈んだ。
必要だから仕方がない。
そう考えれば、少しは楽だった。
ゴブリンは最初から俺を襲う敵で、放っておけば人間を殺すかもしれない。倒す代わりに利用するだけだ。ここを守らせれば、少なくとも無意味に殺すわけではない。
理由はいくらでも並べられる。
だが、それで俺が何をするのかは変わらない。
生きている相手を捕らえ、その身体へ寄生体を入れる。元の意思がどこまで残るのかは分からないが、以前の寄生ゴブリンが俺の命令に逆らわなかったことは知っている。
身体を奪う。
行動を縛る。
俺の都合で、相手の存在を作り替える。
前は、寄生体が勝手に始めた。止める余裕がなかった。生き残るために必要だった。そう言えた。
今回は違う。
考える時間がある。
やらない選択もある。
その上で、俺が必要だと判断して、俺が選ぶ。
入口へ向かいながら、何度も足跡を確認する。どれも同じ方向ではない。すでに複数の群れが、この辺りまで来ている可能性もある。
「俺も、もう割り切らないといけないな」
声は通路へ小さく響き、すぐに消えた。
割り切るという言葉は、少し違う気もした。
何も感じなくなるつもりはない。正しいことだと思い込むつもりも、仕方がなかったことにするつもりもない。
やった後で気分が悪くなったとしても、それを寄生体のせいにはできない。
俺が選んだ結果だ。
寄生体から、僅かな反応が返ってきた。
肯定か、期待か、それとも単に俺の感情へ反応しただけなのかは分からない。以前より伝わるものは明瞭になったが、都合よく言葉へ置き換える気にはなれなかった。
足跡の一つを選び、入口とは反対方向へ辿る。
小さな足跡は、脇道へ続いていた。途中で二つに分かれ、さらに別の跡と合流している。寄生体の感覚を探ると、進行方向の奥から生き物の気配が返ってきた。
数は多くない。
俺は胸当てを壁際へ置き、山刀を抜いた。
殺すためではない。
その考えに、自分で嫌なものを感じる。
殺さずに捕らえる方が、これからすることを考えれば慈悲深いとは言えなかった。
脇道の先に、三体のゴブリンがいた。
一体が床へ屈み込み、何かを拾っている。残る二体は壁際に立ち、短い刃物を持っていた。俺に気づいたのは、かなり近づいてからだった。
甲高い声を上げ、二体が同時に走ってくる。
山刀の腹で一体の刃物を弾き、空いた左手で胸元を押す。ゴブリンの身体が床を滑り、壁へぶつかった。もう一体の腕を掴み、勢いを利用して地面へ倒す。
最後の一体は逃げようとした。
回り込み、足を払う。転倒した身体を踏みつけ、起き上がれない程度に押さえ込む。
三体とも生きている。
一体は壁際で呻き、もう一体は腕を押さえて転がっている。足元の個体だけが、必死に床を掻いて逃げようとしていた。
以前なら、ここから先は寄生体に任せていた。
俺は体内の白いものへ意識を向ける。
止めるためではない。
欲求を許すだけでもない。
自分から、はっきりと望む。
こいつらを使う。
俺の意思を受け取ったのか、寄生体が大きく動いた。
腕の内側から白い糸が伸びる。
足元のゴブリンがそれを見て、さらに激しく暴れた。逃げようとする指が床を掻き、爪の先から血が滲む。
白い糸が首筋へ触れる直前、一瞬だけ手を止めた。
今なら、まだやめられる。
殺して終わらせることも、見逃すこともできる。
それでも、止めなかった。
「俺がやる」
白い糸が、ゴブリンの身体へ潜り込んだ。




