第113話 何段飛ばし
紫色の光が消えた広間で、俺はしばらく仰向けになっていた。空中に浮かんでいた水球はすべて崩れ、床のあちこちに水溜まりを作っている。焦げた石と濡れた埃の臭いが混じり、倒れた寄生ゴブリンの身体からは、逃げ遅れた白い糸が細い煙を上げていた。
身体中が痛い。左肩は火傷し、脇腹には杖で打たれた痕がある。右脚にも電撃の痺れが残っていた。それなのに、身体の奥では何かが増している。心臓が一度強く脈打つと、その拍動に合わせて熱が胸から四肢へ広がった。疲労が消えたわけではない。傷も残っている。それでも、力を入れようとした場所には、入れた以上の力が返ってくる。
床へ手をつき、上体を起こす。少し前まで立ち上がることすら難しいと思っていたのに、身体が軽い。傷を庇いながらではあるが、膝を立て、そのまま立ち上がれた。握った右手には力が余っている。耳を澄ませば、広間の端から滴る水の音まで妙にはっきり聞こえた。視界も明るくなったように感じる。明かりが増えたのではなく、暗がりから拾える形が増えていた。
「これは……明らかにレベルアップした感じあるな」
異常空間へ入ってから、身体能力が上がる感覚は何度も経験している。けれど、今回の変化は比べものにならない。
何段飛ばしのジャイアントキリングだったんだ。
本来なら、もっと前段階があったはずだ。杖を持った小さな敵が、火花か小さな火の玉でも撃ってくる。それを見て、魔法まであるのかと驚く。たぶん、そういう順番だった。
実際に出てきたのは、火球を連射し、水を空中へばら撒き、左右から雷を定期的に落とし、近づけば杖で殴り殺しにくるリッチだった。そのうえ、本来のボスと取り巻きを一瞬で消した紫炎は、最後まで俺たちには使っていない。
「……何段飛ばしたんだよ」
口にしてみても、それ以上の言葉は出なかった。
右手には、リッチの胸から引き抜いた黒い塊が残っている。表面の亀裂の奥で紫色の光が明滅し、心臓より遅い周期で強弱を繰り返していた。魔石に似ているが、これまで見たものとは明らかに違う。あのリッチを動かしていた核と考えるのが自然だった。
詳しく見るために顔へ近づけた瞬間、掌から白い糸が伸びた。
「待て」
糸は黒い塊の亀裂へ潜り込んだ。止めようと指を閉じても、隙間からさらに何本も伸びていく。
「待てって。これはさすがに、もう少し調べてから――」
遅かった。
黒い塊が内側から崩れ始める。砕けた破片まで白い糸に包まれ、紫色の光と一緒に掌へ吸い込まれていった。熱くも冷たくもない。それでも、腕から肩、胸を通り、頭の奥へ何かが入り込んでくる感覚があった。
赤い光を一点に集め、形を保ったまま熱を与え、前へ押し出す。周囲の水分を集め、表面へ力を巡らせて空中に留める。電気を球状にまとめ、高い位置へ固定し、狙った場所との間に道を作る。
言葉や知識ではなかった。手を握る方法を説明できなくても握れるのと同じように、何をどう組み立てれば術になるのか、その感覚だけが頭の中へ流れ込んでくる。
同時に、体内の寄生体にも変化が起きていた。これまで雑然としていた何かが急速に並べ替えられていく。身体の感覚、俺の思考、記憶、感情。寄生体が脳を通して受け取っていたものが、それぞれ異なる種類の情報として整理され始めている。
何が起きたのか、正確には分からない。ただ、俺の内側にいるものが、以前よりこちらへ近づいたような感覚があった。
黒い塊は完全に消えていた。
「勝手に食うなよ」
胸の奥から、強い満足感が返ってきた。返事ではない。謝る気配でもない。ただ、欲しかったものを手に入れたという充足だけは、今までよりもはっきりと分かった。
「反省はしてないみたいだな」
寄生体がその言葉を理解した様子はない。それでも、満たされた感覚は残ったままだった。
俺は右手を開き、掌を上へ向けた。頭の中に残った手順をなぞり、身体の奥にある何かを集めて掌の少し上へ押し出す。最初は何も起こらなかったが、意識を向ける場所を少し変えると、赤い光が一点に集まった。
小さな炎が灯る。
蝋燭より少し大きい程度だった。風もないのに揺れ、掌へ確かな熱を伝えてくる。指を閉じると、炎は細くなって消えた。
「会社を辞めた先が、魔法使いとはな」
胸の奥に残っていた満足感が、わずかに強くなった。皮肉を理解したとは思えない。黒い核を取り込んだことへの満足なのか、俺が術を形にできたことへの反応なのかも分からない。ただ、以前なら自分の感情との区別すら難しかったものが、今は明らかに自分以外から来たものだと判別できた。
懐に硬い感触がある。
服の内側へ手を入れると、二本の赤い小瓶が出てきた。火球や雷撃を受けたにもかかわらず、どちらにも傷はない。瓶の周囲には白い糸が何重にも巻きつき、半白鎧化が解けたあとも薄い膜を残していた。
戦闘中から守っていたらしい。
一本を光へ透かす。赤みを帯びた液体が、瓶の中で重く揺れた。透明なポーションとは色が違う。効果も分からない。
身体の力は増しているが、火傷も痺れも残っている。このまま先へ進めば、どこかで動きに影響が出る。
栓を抜き、瓶を指先で支えた。
「これ、使えると思うか?」
指から白い糸が伸び、液面へ触れた。糸の先がわずかに広がる。寄生体が何を調べているのかは分からなかったが、しばらくすると糸が瓶から戻った。
胸の奥へ感覚が返ってくる。警戒ではない。拒絶もない。使用して問題ないという方向へ、はっきりと傾いていた。
薬を飲めと言葉で伝えられたわけではない。それでも、そう解釈して間違いないと思えた。
「信じるぞ」
覚悟を決め、瓶の中身を飲み干した。
少しとろみがあり、味はほとんどない。液体が喉を通り、胃へ落ちた直後、身体の中心から熱が弾けた。
左肩の火傷が急速に薄くなる。赤く爛れていた皮膚が内側から押し上げられ、新しい皮膚へ置き換わった。脇腹の痛みが消え、右脚に残っていた痺れも途切れる。打撲、裂傷、筋肉疲労。身体のどこを探しても、戦闘の損傷が見つからなくなっていった。
失った血まで戻っているのか、頭の重さも消えた。呼吸は深くなり、心拍も落ち着く。服の焦げや破れは残っていた。床へ落ちた白い殻も戻らない。倒れた寄生ゴブリンの身体も、そのままだった。
治ったのは俺だけだ。
それでも肉体は完全に回復していた。リッチを倒したことで増した力まで含めれば、今までで一番調子がいい。
体内から、また感覚が返ってくる。先ほどの充足とは少し違う。張りつめていたものが緩み、落ち着いたような感覚だった。俺の身体が正常へ戻ったことに安堵しているようにも思える。
「やっぱり気のせいじゃないな。なんか判るわ」
何を感じているか、細かいところまでは分からない。満足なのか、安堵なのか、別の感情なのか。こちらが都合よく意味を当てはめている可能性もある。
それでも、以前とは違った。俺の中にいるものが感じた何かを、俺は自分のものとは別に受け取っている。
残った赤いポーションに栓をして懐へ戻すと、白い糸が伸び、瓶の周囲を薄く包んだ。
「それは守るんだな」
返事はなかった。
俺は広間を見回した。黒い長衣と骨の山のそばに、リッチの杖が落ちている。黒い木にも骨にも見える材質で、長さは俺の身長より少し短い。拾い上げても、火や雷が出る気配はなかった。
山刀は崩れた骨の間に挟まっていた。刃こぼれは増えていたが、まだ使える。山刀持ちが身につけていた黒い脚絆も回収し、短棒は石柱の根元で見つけた。
五体の身体は、すでに輪郭が薄くなり始めている。そこから離れられた寄生体は、もう俺の内側へ戻っていた。戻れなかったものもある。その損失まで無かったことにはできない。
消えていく宿主の身体へ、今さら呼びかける言葉はなかった。
少しの間だけ見届け、俺は顔を上げた。
石の椅子の後ろで、低い音が鳴った。床の一部が沈み、椅子ごと壁際へ移動していく。その下から、さらに下へ続く階段が現れた。
階段の奥には、三層までとは違う色の光がある。
普通なら、一度帰るべきなのだろう。寄生ゴブリンはすべて失い、白い群れも大きく減っている。得た魔術も、まだ小さな火を出しただけだ。
だが、身体には傷一つない。リッチを倒したことで力は上がり、残った赤いポーションも一本ある。少なくとも、入口を確認するだけなら引き返す理由はなかった。
「少しだけな」
自分へ言い聞かせ、階段へ足をかけた。
下へ進むにつれて空気が変わる。三層の乾いた埃臭さが薄れ、代わりに焼いた土と金属、わずかな煙の臭いが混じった。階段の壁には、淡い橙色の鉱石が等間隔で埋め込まれている。
人の手が入っている。
階段を下りきると、自然の洞窟を削って作った広い空間へ出た。地面は緩やかな下り坂になっており、その先に背の低い石造りの建物が並んでいる。屋根は俺の胸ほどの高さしかなく、扉も人間なら屈まなければ通れそうにない。
壁に埋め込まれた鉱石灯が、橙色と淡い青の光を放っていた。石の棚、積み上げられた壺、細い煙突。洞窟の壁沿いには小さな炉があり、消えかけた火が赤く残っている。通路の上には縄が渡され、粗い陶器で作られた仮面がいくつも吊るされていた。
集落だ。
廃墟には見えない。
遠くから金属を叩く音が聞こえ、建物の間を小さな影が横切った。
入口近くの石柱の陰から、四体が姿を現した。三体はゴブリンより少し小柄で、灰色の皮膚をしている。二体が小盾と短槍を持ち、後ろの一体は布の外套をまとい、粗い陶器の仮面で顔を覆っていた。
その足元には、膝ほどの高さの陶器人形がいる。四本脚で立ち、仮面と同じ形の顔をこちらへ向けていた。
前衛二体が盾を並べ、外套の個体が短い杖を掲げる。杖の先に、小さな火が灯った。
たぶん、これが最初に見る魔法だった。
火は杖の先から離れ、拳より小さな火弾になって飛んでくる。
俺は掌を前へ出した。
水を集める感覚をなぞると、目の前に透明な球が生まれた。火弾が触れ、蒸気を上げながら消える。
仮面の奥で、小柄な術士が動きを止めた。
俺自身も、少し驚いた。
「本当に使えるのか」
前衛が短槍を構え、二体同時に駆けてくる。
遅い。
そう思った時には、俺は二体の間へ入っていた。
左の盾を杖で外へ払い、右の個体の胸へ掌を当てる。軽く押したつもりだったが、小さな身体は地面から浮き、背後の石壁へ叩きつけられた。
もう一体が短槍を突き出す。穂先を手首で逸らし、柄を掴んで引く。相手の身体が前へ流れ、膝を打ち込むと、陶器の仮面が割れて床へ転がった。
四つ脚の人形が足元へ飛びつく。白い糸が反射的に伸びたが、人形の身体へ触れたところで止まった。
中に肉がない。
陶器と細い金属線、それを動かす微かな力だけだった。
人形を蹴り上げ、空中で杖を振る。陶器の胴が砕け、破片が通路へ散った。
外套の術士が後退しながら、二つ目の火を作ろうとしている。右手を向けると、掌の上に赤い光が集まった。
加減が分からない。
だから、リッチの火球を思い出すより前に手放した。
拳ほどの火球が術士の足元へ飛び、石を弾いて炎を広げる。直撃はしていない。それでも術士は杖を取り落とし、転がるように逃げようとした。
追いつくのは簡単だった。
一歩で背後へ回り、杖の石突きで肩を打つ。小さな身体が床へ崩れ、動かなくなる。
戦闘が始まってから、ほとんど時間は経っていなかった。三層で死にかけた直後とは思えない。
入口の四体は、相手にならなかった。
石造りの建物の奥で、扉が次々に開く。仮面をつけた小柄な影が通路へ現れ、杖や槍を手にこちらを見ている。遠くの炉へ火が入り、洞窟内の鉱石灯が一つずつ明るくなっていった。
集落全体が、侵入者に気づき始めている。
俺はリッチの杖を握り直した。
本来なら、ここから魔法に驚くはずだった。
どうやら、順番を飛ばしすぎたらしい。




