第109話 残ったもの
次に意識がはっきりした時、俺は暗渠の入口を見ていた。
橋の下を流れる水の音と、湿ったコンクリートの匂い。記憶にない横道は、以前と変わらず暗闇の中に口を開けている。
スマートフォンを取り出すと、時刻は日付が変わる少し前だった。ここまで来る間の記憶はある。家を出て、車を停め、周囲に人がいないことを確認して橋の下まで歩いた。装備を用意したのも俺だ。体の奥にいるものに運ばれたわけではない。
肩を回すと、水門で打った場所に鈍い痛みが残っていた。手首にも軽い違和感がある。動かせないほどではないが、万全とは言えない。そんな状態で、制度側に隠している異常空間へ一人で来た。
「何やってんだろうな」
返事はない。胸の奥で何かがわずかに動いた気はしたが、それが俺の呼吸なのか、別のものなのかは分からなかった。
帰るなら今だった。ここへ来たことはまだ誰にも知られていない。中に入らず帰れば、夜中に車を走らせただけで終わる。誰にも説明する必要はないし、注意記録に新しい一行が増えることもない。
俺はスマートフォンをしまい、ライトを点けた。
横道へ入ると、外の水音が急速に遠ざかった。湿った暗渠から乾いた石の通路へ空気が切り替わり、靴の裏が硬い床を叩く音だけが残る。
最初の分岐を越える前に、暗がりの奥から小さな足音が聞こえた。一つではない。石を引きずる音と、喉の奥で鳴らすような声が重なる。
ライトを下げ、壁際へ身を寄せる。視界の端で影が動き、体が自然に距離を測り始めた。
現れたのはゴブリンが二体だった。片方は石刃を持ち、もう片方は短いこん棒を握っている。以前倒した個体が戻ったのか、新しく生まれたのかは分からない。俺を見るなり声を上げ、狭い通路を並んで駆けてきた。
拳大の石を一つ取り出し、こん棒持ちの膝へ投げる。石が当たり、前へ傾いたところに石刃持ちがぶつかった。
足が絡んだ二体の横から、暗がりに潜んでいた別の影が飛び出した。寄生ゴブリンだった。
俺が何かを命じたわけではない。それでもそいつは倒れかけた一体の腕を取り、壁へ押しつけた。遅れて二体目も現れ、こん棒持ちの首へ腕を回す。
骨が鳴る。
石刃持ちが暴れて刃を振ったが、俺が手首を蹴る方が早かった。床に落ちた石刃を踏み、短棒を振り下ろす。頭部への一撃で動きが止まり、もう一体も寄生ゴブリンに首を捻られて崩れた。
静かになるまで、さほど時間はかからなかった。
倒れた二体のそばに立つ寄生ゴブリンを確認する。入口側に残した三体のうちの二体だ。少し遅れて、大柄な一体も通路の奥から姿を現した。三体とも残っていることを確かめると、肩から余計な力が抜けた。
白い糸が倒れたゴブリンへ伸びかける。
「増やさなくていい」
言葉が伝わったとは思わない。体の奥で疼いたものへ、自分の考えを向けただけだ。
白い糸は止まらなかったが、宿主の形を残すことはせず、二体の体内へ細く潜り込んだ。やがて肉が萎み、骨の輪郭が浮き、最後には灰色がかった残滓だけが床に残った。
食べた?
そう表現するのが一番近かった。その感覚を考えないようにして、俺は三体と一緒に奥へ進んだ。
一層にはゴブリンが戻っていた。最初の二体だけではなく、曲がり角の先に三体、板切れの盾を持った個体が一体、その後ろに声を上げて仲間を呼ぼうとする個体が一体。
以前なら、一つの集団として正面から相手をしていた。今は大柄な寄生ゴブリンが盾持ちの進路を塞ぎ、残りの二体が左右へ散った。俺は声を出そうとした個体の顔へ石を投げ、怯んだところを短棒で処理する。盾持ちが大柄な個体へ意識を向けた隙に、横から腕を打って盾を落とさせた。
俺が一歩下がると、寄生ゴブリンも追いすぎずに止まる。前へ出れば、互いの邪魔にならない位置へ広がった。声で細かく指示したことはない。それでも、俺が何を警戒し、どこへ動こうとしているのかを、体の奥にいるものを通して拾っているらしい。
最後の一体が床に倒れるまで、ほとんど時間はかからなかった。
体の違和感は残っていたが、動きを妨げるほどではない。ゴブリンの数も配置も以前の経験から予想でき、寄生ゴブリンが先に危険へ反応するため、不意を突かれることもなかった。
一層のボス部屋へ入る。
以前、大柄な個体と取り巻きがいた広い空間には、赤黒い布の切れ端も骨の盾も残っていなかった。壁や床の傷も薄れ、戦った痕跡はほとんど消えている。敵の姿はなく、完全に戻っていないだけなのか、ボス部屋だけは再出現の条件が違うのかは分からなかった。
俺たちは足を止めず、部屋の奥にある下層への通路へ向かった。
空気が変わる。石と埃の乾いた匂いへ、湿った土と腐りかけた植物の臭いが混じり、床の隙間から黒ずんだ根が伸びていた。壁際では灰色の傘が密集している。
植物と菌類のエリアは、以前踏み荒らした跡がほとんど消えていた。切り落とした根も、踏み潰したキノコも見当たらない。俺たちが通った場所を覆い隠すように、黒い根が床を這い直している。
最初に動いたのは、通路の端にいた歩くキノコだった。傘がわずかに傾き、根の束が床を擦る。続けて奥からもう一体が姿を現した。
大柄な寄生ゴブリンが一体目を正面から押さえ、別の一体が傘の下へ潜り込む。俺は二体目の進路へ石を投げ、向きが変わったところで根の集まる部分へ短棒を叩き込んだ。
柔らかい感触の後に、芯へ当たる硬さが返ってくる。二打目で中心が潰れ、キノコの体が横へ崩れた。大柄な個体が押さえていた方も、腹側から根の束を裂かれて動きを止める。
白い糸が伸び、倒れた二体を包み始めた。今度は止めず、そのまま先へ進んだ。
菌の粉が漂う場所では、口元を袖で覆った。以前は気づかなかった程度の薄い刺激が鼻の奥に触れるが、咳き込むほどではない。寄生体の保護が働いているのかもしれないが、確かめる方法はなかった。
床を覆う根が足首へ絡みつこうとした時は、先を歩く寄生ゴブリンが踏みつけて引き千切った。肉厚な蕾が壁際から開き、棘の並んだ花弁が飛び出した時も、噛みつく前に大柄な個体が腕を差し入れて受け止める。
俺が茎を叩き、別の個体が根元を引き剥がした。
腕に食いついた棘が肉を裂いたが、寄生ゴブリンは声も上げず、傷ついた腕を引き抜いた。白い糸が皮膚の下で動き、開いた傷の縁を寄せていく。完全には治っていないものの血は止まり、腕も動いている。
「無茶するなよ」
口にしてから、何を言っているのかと思った。命じてもいないのに前へ出て、壊れかけても止まらない。それを使って先へ進んでいるのは俺だ。
寄生ゴブリンは何も返さず、再び前方へ顔を向けた。
さらに奥では、二メートルほどある大型のキノコが通路を巡回していた。以前なら動きを観察し、硬質化した傘と腕を避けながら弱点を探す必要があったが、今はどこを崩せば止まるか分かっている。
俺が石を投げて傘へ当てると、大型キノコがこちらへ向きを変えた。腕を振り上げたところで、大柄な寄生ゴブリンが横から体当たりし、壁へ押しつける。黒い根が床を掻き、別の二体が左右から根の束へ掴みかかって動きを止めた。
俺は硬い傘の下へ入り、柄の付け根へ短棒を振り下ろした。一撃では足りず、二度、三度と同じ場所を打つ。根の中心が裂け、大型キノコの体が傾いた。最後は大柄な個体が上から押し倒し、残りの二体が中心部を引き裂いた。
大きく崩されることもなく、以前より短い時間で処理できた。倒れた大型キノコを白い糸が包み、徐々に形を失わせていく。傷ついた寄生ゴブリンの腕も、歩いている間に表面だけは塞がっていた。
植物エリアを抜ける頃には、再出現した個体を十体近く処理していた。それでも前回のような消耗はない。どこに何が出るのかを知っていること、敵の弱点が分かっていること、そして一緒に動く個体がいること。その全部が、移動を探索ではなく作業に近づけていた。
便利になったと思うたび、それを便利と呼んでいる自分への引っかかりが増えた。
最奥のボス部屋へたどり着く。三メートル近い複合型の植物怪物がいた場所には、根も、赤黒い実も、脈動する芯も残っていなかった。黒い石の宝箱も消え、広い空間だけが元の形へ戻りつつある。
部屋の奥では、さらに下へ続く黒い階段が口を開けていた。その手前に、下層側へ残した二体がいる。
一体は赤い小瓶を二本とも持ったまま壁際に立っていた。容器に割れはなく、中の赤みを帯びた液体がライトを受けて揺れている。もう一体は黒い脚絆を着け、赤錆の山刀を握っていた。
山刀を持つ個体は俺が近づくと切っ先を下げ、階段の脇へ寄った。赤い小瓶も、黒い脚絆も、赤錆の山刀も残っている。入口側の三体と合わせ、寄生ゴブリンは五体いた。
数を確認した瞬間、足元の黒い階段が余計に暗く見えた。
ノートに書いた一行が浮かぶ。
黒い階段には一人で入らない。
俺の後ろには三体いる。目の前には二体いる。数だけを見れば、一人ではないが、そんな意味で書いた条件ではなかった。
「分かってるよ」
誰に言ったのか分からないまま、山刀を持つ個体へ目を向ける。
そいつが階段へ向き直った。入口側から来た一体も、その後ろへ続く。
以前は、勝手についてきた一体を止めなかった。その結果、三層の入口にある前室で槍に腹を貫かれた。今回は、ついてくることを分かったうえで止めなかった。
前より悪い。
俺は黒い階段へ足をかけた。
階段の空気は乾いていた。湿った植物の臭いが薄れ、古い布、石灰、錆びた鉄の匂いが少しずつ濃くなる。段を下りきると、低い天井と細長いくぼみの並ぶ壁がライトの中へ現れた。
三層の入口にある小さな前室。
そこに動くものはいなかった。
以前倒した乾いた人型の死体は消えている。首を落とした場所にも、黒ずんだ染み一つ残っていない。寄生ゴブリンが短槍に貫かれた場所も同じで、槍も、破れた服も、骨も残っていなかった。
倒したモンスターの死体や血が時間とともに消えることは、これまでにも確認している。
「……そうだよな」
分かっていたはずなのに、何もない床を見ると胸の奥が重くなった。
俺は前室の中央まで進み、前回の位置を確かめるようにライトを動かした。
石畳の隙間に、白いものが見えた。
最初は骨粉か石灰の塊だと思った。この部屋には以前から白っぽい粉が溜まっていた。それより少し形が整って見えたため、腰を落として光を近づける。
小さな傘があった。
指先ほどの白いキノコが、石畳の隙間から生えている。一つではない。ライトの範囲を広げると、同じものが周囲に点々と群生していた。
白い傘は薄く、光がわずかに透けている。柄の下には根や菌糸の代わりに、細い糸が何本も束になって石の隙間へ入り込んでいた。
風はない。それなのに、傘の向きが少しずつ変わっていた。
俺の方へ。
水門の映像が頭に浮かぶ。水路を埋め、敵性生物の目や口、傷口から入り込んでいった白い群れ。
「ホワイトスウォーム……?」
同じものなのかは分からない。水門にいたのは虫に近い姿だった。目の前にあるのはキノコにしか見えない。だが、色も、動き方も、体の奥が反応する感覚も似ていた。
右手を近づける。
爪の間から白い糸が一本伸びた。俺が出そうとしたわけではない。止めようと思った時には、キノコの根元から伸びた糸と触れていた。
腹に硬いものが突き刺さった。
息が抜け、足元が消える。石の床が近づき、体の内側が冷えていく。
俺の記憶ではない。
視界も音もなかった。ただ、槍に貫かれた衝撃と、動かなくなる体の重さだけが流れ込んでくる。何かが遠ざかり、細くなり、ほどけ、ばらばらになる。
それでも最後まで、体の向きだけは変わらなかった。
俺と、乾いた人型の間。
そこで感覚が途切れた。
右手を引くと、白い糸が切れた。呼吸が乱れ、腹を押さえる。傷などないのに、槍の穂先がまだ体内に残っているような感覚がした。
これは、あの一体だったものだ。
生きていたわけではない。寄生ゴブリンの姿も、骨も、肉も残っていない。壊れたものが分解され、別の形になっただけだ。あいつが戻ってきたわけではない。
そう考えたのに、胸の奥の重さは消えなかった。
白いキノコの傘が一斉に揺れた。
一つが石畳の隙間から根元を引き抜く。白い糸の束が細い脚のように広がり、小さな体を持ち上げた。
続いて、隣の一つも動き出す。
白いキノコは、一つずつ石畳から足を抜き始めた。




