第107話 どうしてこうなった
亀山は、通知欄を見てしばらく固まっていた。数字が増えている。登録者数、再生数、コメント数、切り抜き動画の数、知らないアカウントからのメンション、仕事用の連絡先へ届く問い合わせ。どれも、少し前なら喜んでいたはずの数字だった。増えたら嬉しい。伸びたらありがたい。見てもらえるなら、次も頑張ろうと思える。そういうものだったはずなのに、今は画面を見るだけで胃の奥が重くなる。
「……どうしてこうなったんだ」
声に出すと、部屋の中に妙に乾いた響きで落ちた。誰かに責められているわけではない。いや、責めてくる人間はいる。コメント欄にも、SNSにも、匿名掲示板にも、いくらでもいる。ただ、それだけならまだ分かる。配信をしていれば、褒める声も、笑う声も、叩く声も来る。今きついのは、全部が変わったことだった。
動画活動の担当者からは、今後の発信方針について相談したいと言われた。管理窓口からは、異常空間関連の発信に関する注意事項が送られてきた。配信サイト側からは、特定映像の扱いについて確認が入った。知り合いの配信者からは、コラボを控えたいという連絡と、逆に「今なら一緒に話題を取れる」という誘いが同じ日に届いた。家族からも連絡が来た。大丈夫なのか。本当に危ないことはしていないのか。もうやめた方がいいんじゃないのか。いつからそんな場所へ行くようになったのか。どれも心配なのは分かる。分かるから、うまく返せない。
亀山はスマホを伏せた。伏せても、何も終わらない。部屋の中は普通だった。机、PC、カメラ、照明、マイク、防音用の簡易パネル。配信を始めた頃に少しずつ買い足してきたものばかりだ。画面の向こうにいる人間へ、少しでも見やすく、聞きやすく、面白く届けるための道具。その全部が、今は取り調べの道具みたいに見える。
カメラをつければ、また誰かに見られる。マイクに向かえば、また何かを言わなければならない。言えば切り取られる。黙れば隠していると言われる。笑えば反省していないと言われる。沈んだ顔をすれば、被害者ぶっていると言われる。
「詰んでないか、これ」
冗談のつもりで言った。冗談に聞こえなかった。
亀山は椅子から立ち上がり、冷蔵庫を開けた。飲み物を取り出す。キャップを開け、ひと口飲む。味が薄く感じた。冷蔵庫の扉を閉めると、そこに貼ってある小さなメモが目に入った。次回企画候補。近場の廃道。古い用水路。視聴者投稿の噂検証。安全確認済みの範囲で。少し前の自分が書いた文字だった。
安全確認済み。その言葉が、今はものすごく軽く見えた。自分の中では気をつけていたつもりだった。危険な場所には近づきすぎない。無理はしない。通報すべきものは通報する。現地でふざけすぎない。その程度の注意で足りると思っていた。足りるわけがなかった。世間がダンジョンに慣れていく速度と、現場が危なくなっていく速度と、自分が配信者として扱われる速度が全部違う。どれか一つならまだ追いつけたかもしれない。全部が同時に来た。
亀山はPCの前に戻った。未編集の動画フォルダを開く。サムネイルが並ぶ。昔撮った動画は、どれも楽しそうだった。怖がっている顔もある。息を切らしている場面もある。だが、そこにはまだ、帰ってから笑える余裕があった。今は違う。帰ってからも終わらない。現場が終わっても、連絡が来る。通知が来る。確認が来る。誰かが自分の名前を使って話す。知らない人間が、亀山という配信者の立ち位置を勝手に決めていく。
勇敢だと言う者もいれば、迷惑系だと切り捨てる者もいる。政府に消されかけた男だの、自衛隊の足を引っ張った男だの、現場を伝える貴重な民間人だの、言葉だけが勝手に増えていった。中には、ダンジョン利権に食い込もうとしていると決めつけるものまであった。どれも違う。どれも、少しだけ合っているようにも見える。それが一番嫌だった。
完全な嘘なら否定できる。だが、視点を変えればそう見える、という言葉は否定しにくい。自分の活動が誰かにとって迷惑だったのかもしれない。自分の映像が誰かを煽ったのかもしれない。自分が怖がって逃げた場面を見て、笑った人間もいるかもしれない。動画を出すということは、自分だけの出来事ではなくなるということだった。そんなことは知っていた。知っていたつもりだった。
亀山は、配信ソフトを起動した。画面に自分の顔が映る。疲れた顔だった。髪も整っていない。いつもの挨拶をする気分にはなれない。手元のメモには、話すべき内容が箇条書きにされている。無事の報告、関係者への謝罪、今後の活動方針、憶測を煽らないお願い、管理窓口から確認済みの範囲。どれも必要な内容だ。必要な内容なのに、口に出すと全部が薄くなりそうだった。
「皆さん、こんばんは。亀山です」
試しに言ってみる。いつもの声ではなかった。
「皆さん、こんばんは。亀山です」
もう一度言っても、やはり違う。明るくすれば嘘になる。暗くすれば重くなりすぎる。普通に話せば、普通でいられる状況ではないと言われる気がする。どう話せば正解なのか分からない。正解がないのかもしれない。それでも、何かを話さないといけない。
亀山は録画ボタンにカーソルを合わせた。押せなかった。手が止まる。そこへ、スマホが震えた。今度は家族からだった。亀山は通話には出ず、メッセージだけを開いた。
『無理しないで』
たったそれだけだった。それだけなのに、胸の奥が詰まった。
無理しないで。無理をしないなら、何をすればいい。配信を止めるべきなのか、続けるべきなのか。発信すれば余計な憶測を呼び、黙れば隠していると言われる。管理窓口の注意に従いながら、視聴者にも説明し、家族にも心配をかけず、誰にも怒られない形を探す。そんな都合のいい形が、本当にあるのか。
亀山はスマホを置いた。PCの画面には、まだ自分の顔が映っている。その顔を見ていると、急に笑えてきた。面白いからではない。あまりにも何も決められていない顔だったからだ。
「どうしてこうなったんだよ」
今度は、さっきより小さな声だった。
配信を始めた時、こんな場所に来るとは思っていなかった。最初は、少し怖い場所へ行って、視聴者と一緒に騒いで、帰ってから笑えればよかった。自分の知らない場所へ行くのが好きだった。誰かが怖がる場所を、カメラ越しに一緒に覗くのが楽しかった。それがいつの間にか、制度や管理や安全や炎上や責任と結びついていた。
亀山は録画ボタンからカーソルを外した。今日、撮るのは無理だ。そう決めた瞬間、少しだけ息ができた。逃げたわけではない。いや、逃げたのかもしれない。どちらでもよかった。今この顔でカメラの前に出ても、何かを間違える気がした。
亀山は配信ソフトを閉じた。部屋の照明を少し落とす。PCのファンの音だけが残る。通知を切ったスマホは、それでも机の上に置かれている。画面は暗い。暗いのに、そこに人の声が詰まっているように感じた。
亀山は椅子に座ったまま、しばらく動かなかった。周りの全部が変わっていく。自分だけが、その真ん中で置いていかれている。その夜、亀山は結局、何も録らなかった。




