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寄生虫と行く現代ダンジョン  作者: 脳タリン


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第106話 俺自身の時間

 家に帰ると、部屋の中は思っていたより静かだった。

 玄関の鍵を閉め、靴を脱ぐ。いつも通りの動きのはずなのに、指先に少しだけ力が入りすぎていた。

 水門ダンジョンの湿った空気は、もうここにはない。

 床も濡れていない。壁に苔もない。暗がりから何かが跳び出してくることもない。

 それなのに、背中の奥だけが、まだあの通路に残っているような気がした。

 荷物を床に置き、上着を脱ぐ。スマホを確認すると、管理窓口からの連絡がいくつか入っていた。内容は事務的だった。次回の確認事項、提出済み資料の受領、今後の連絡について。

 普通に読めば、ただの連絡だ。

 けれど、今の俺には別のものに見えた。

 線が引かれている。

 俺の周りに、少しずつ。

 まだ縄ではない。まだ檻でもない。ただ、どこにいるのか、何をしたのか、誰と連絡を取ったのかを確認するための線だ。

 それが必要なことは分かっている。

 俺はあの事件で、目立ちすぎた。

 人が死ななかったことはよかった。あそこで動かなければ、もっと悪いことになっていたかもしれない。そこに後悔はない。

 でも、後悔がないことと、危険がなくなった事は違う。

 俺は洗面所に向かい、顔を洗った。

 水が流れる音が、妙に大きく聞こえる。

 鏡に映った顔は、ひどく疲れていた。目の下に薄い影がある。頬も少しこけて見えた。

 普通の会社員だった頃から、そこまで日数が経っているわけではない。

 それなのに、鏡の中の自分は、もうその頃の顔をしていなかった。

「もう俺自身の時間がない……」

 声に出してから、自分でその言葉の重さに気づいた。

 死ぬという意味ではない。

 むしろ、死ぬより面倒な話だった。

 これから先、俺が何をするにも、誰かの確認が入るかもしれない。どこへ行ったかを見られ、誰と会ったかを聞かれ、何を持って帰ったかを調べられるかもしれない。

 俺自身の意思で動ける時間が、少しずつ減っていく。

 水門の件で、俺の戦闘能力は見られた。

 あれを見た人間が、普通の登録者だと思うか。

 思うはずがない。

 なら、次に考えることは決まっている。

 なぜ、そこまで動けるのか。

 どこで、何をして、何を得たのか。

 登録制度に出していない場所があるのではないか。

 暗渠ダンジョンの存在に辿り着かれるのは、時間の問題かもしれなかった。

 もちろん、すぐに家宅捜索されるような話ではないだろう。俺は犯罪者ではない。少なくとも、今のところは。

 けれど、制度は俺を見始めた。

 そして制度は、見始めたものから目を逸らさない。

 俺はタオルで顔を拭きながら、しばらく洗面台の前に立っていた。

 何がゴールになるんだ。

 登録者として協力することか。

 強くなって、ダンジョンで役に立つことか。

 国や窓口に評価されることか。

 それとも、暗渠を隠し続けることか。

 考えれば考えるほど、答えは細かく割れていった。

 ただ、一つだけ分かっていることがある。

 このままでは足りない。

 今の俺の力では、制度が本気で手を伸ばしてきた時に、自分の行き先を自分で決められない。

 だったら、制度に縛られないほどの力が必要になる。

 そう考えた瞬間、腹の底が少し冷えた。

 強くなればいい。

 捕まえられない存在になればいい。

 あるいは、捕まえるより生かしておいた方が得だと、相手に思わせればいい。

 そこまで考えて、俺はタオルを握ったまま動きを止めた。

 俺は今、自分を人間として守る方法ではなく、相手にとっての損得で量られる方法を考えていた。

 捕まえると損をする。

 殺すと損をする。

 自由にさせておいた方が得をする。

 そんな値段の付け方で、自分の安全を確保しようとしていた。

 それは交渉というより、脅しに近い。

 少なくとも、普通に生きていた頃の俺なら、そんな考え方をした人間をまともだとは思わなかった。

 俺は深く息を吐いた。

 もっとやりようはあるかもしれない。

 全部を隠すのではなく、出せるものだけを出して信用を積む方法もある。村瀬さんや管理窓口との関係を利用する方法もある。暗渠のことだって、いつかは出すべき時が来るのかもしれない。

 ただ、その「いつか」を他人に決められるのだけは、嫌だった。

 俺の中で何かが動いた。

 言葉ではない。

 怒りとも違う。

 焦りに近いが、それだけでもない。

 俺はリビングに戻り、座るつもりで椅子に手をかけた。けれど、そのまま座れなかった。

 スマホを見る。

 時刻を見る。

 窓の外を見る。

 近所の明かりは、いつも通りだった。誰かが帰宅し、誰かが風呂に入り、誰かが明日の仕事の準備をしている。

 その普通の夜が、遠く見えた。

 俺は何をしたいんだ。

 制度から逃げたいのか。

 暗渠を守りたいのか。

 強くなりたいのか。

 誰にも命令されたくないのか。

 どれも間違いではない気がした。

 でも、どれも中心ではない気もした。

 俺が最初に暗渠へ行った理由は、そんな立派なものではなかった。

 会社を辞めて、何かを変えたかった。

 子供の頃のトンネルを思い出して、馬鹿みたいに探しに行った。

 怖かった。

 痛かった。

 死ぬかもしれなかった。

 それでも、あの場所で俺は初めて、自分の足で変な方向へ進んだ。

 誰かに用意された仕事でも、制度に渡された役割でも、親切な誰かに整えてもらった道でもない。

 俺が勝手に見つけて、勝手に踏み込んだ場所だった。

 だから、失いたくないのか。

 暗渠を。

 それとも、暗渠に行くと決められる自分を。

 胸の奥が、少しだけ痛んだ。

 寄生体が何かを言うわけではない。言葉が返ってくるわけでもない。

 ただ、身体の奥にある白いものが、じっとこちらを見ているような感覚だけがあった。

 俺はその感覚を振り払うように、椅子に座った。

 座ったはずだった。

 そこから先の記憶は、ひどく曖昧だった。

 考え続けていたのは覚えている。

 暗渠の位置。

 持っていく荷物。

 予備のライト。

 水。

 手袋。

 着替え。

 もし途中で誰かに見られた場合の言い訳。

 戻ってきた後、管理窓口に何を返すか。

 考えることはいくらでもあった。

 けれど、どこかで考えることと動くことの境目がなくなった。

 気づけば、床に置いた荷物の中身を入れ替えていた。

 気づけば、充電器からライトを外していた。

 気づけば、服を替え、靴を履き、玄関の鍵を閉めていた。

 自分で決めたというより、決める前から身体が手順を知っていた。

 次に意識がはっきりした時、俺は暗渠ダンジョンの入口に立っていた。

 夜の水路は暗く、橋の下には湿った匂いが溜まっている。

 子供の頃に通ったはずの場所。

 今は、俺だけが知っているはずの場所。

 肩には荷物があった。

 手にはライトがあった。

 足元の水音だけが、ゆっくりと暗がりへ吸い込まれていった。


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