第105話 順応するもの
水門ダンジョンの外に張られた自衛隊の仮設テントは、夜になっても明かりが落ちなかった。
発電機の低い音が、薄い布越しに続いている。外では警備の隊員が交代し、フェンス沿いの投光器が濡れたコンクリートを白く照らしていた。
テントの中では、三宅一等陸尉がノートPCの画面を見ていた。
映っているのは、水門ダンジョン内部で記録された映像だった。画質はよくない。湿気で白く曇り、照明の角度も悪い。それでも、見るべきところは見える。
戸張が、通路の端へ半歩ずれる。
直後、カエル型の個体が舌のようなものを伸ばした。
映像を止める。
三宅は画面の下に表示された時刻を確認した。
「もう一度」
横に立っていた真壁一等陸曹が、無言で再生位置を戻した。
戸張が動く。カエル型が動く。その順番が、何度見ても逆に見えた。
攻撃を見てから避けたのではない。避けた先に、攻撃が来ている。
「反射で片づけるには早すぎますね」
真壁が言った。
「ああ」
三宅は短く答えた。
映像だけなら、偶然と言えなくもない。一度だけなら、たまたま足を置いた場所に攻撃が外れたと言える。だが、同じような場面が何度も出てくる。
戸張は、敵の動きを見てから対応しているだけではなかった。
通路の幅、足場の濡れ方、敵の向き、同行者の位置、後退可能な距離。そうしたものを、戦闘が始まる前からまとめて掴んでいるように見える。
「深町の報告と、かなり近い」
三宅は手元の紙資料をめくった。
深町浩一。
元陸上自衛官。普通科出身。退職後も身体記録を取り続けていた登録者。
異常空間内では、身体の動き方が変わる。
外に出ても、その感覚が一部残る。
本人の申告だけなら主観で済む。だが深町には、現役時代からの持久走、懸垂、腕立て、荷重を背負った歩行、射撃姿勢の保持時間、心拍、睡眠、体重の記録があった。
数字が、本人の感覚を後押ししていた。
「ダンジョン内での順応、ですか」
真壁はその言葉を、少し確かめるように口にした。
「今のところは、そう呼ぶしかない」
三宅は画面を止めたまま、資料へ視線を落とした。
「筋力が急に何倍にもなった、という話ではない。戸張も深町も、外に出た瞬間に別人になっているわけではない。ただ、異常空間の中で、身体の使い方が変わっている」
「環境に慣れる」
「慣れるだけなら、まだいい」
三宅はそこで言葉を切った。
テントの外を、車両が一台通った。タイヤが水を踏む音が、短く響く。
「問題は、慣れた結果が外に残ることだ」
真壁の表情がわずかに硬くなった。
現場の人間ほど、その意味を軽く見られない。
ダンジョンの中では、銃火器だけで対処できない場面がある。水門で、それはすでに見えていた。隊列、盾、近接戦闘、記録、衛生、退避誘導。通常の山岳救助とも市街地警備とも違う編成が必要になる。
そこまでは、まだ現場対応の延長だった。
だが、人間の側が変わるとなると話が違う。
訓練で強くなる。
経験で動けるようになる。
その言い方自体は、何もおかしくない。
自衛隊も警察も消防も、ずっとそれを前提にしてきた。
だが、ダンジョンで起きている変化は、通常の訓練効果だけでは説明しきれない部分を含んでいる。
「戸張氏は協力的です」
真壁は資料の別紙を見ながら言った。
「通報、位置情報、証拠の提出、管理窓口との連絡。逃げるより共有を優先している。村瀬さんの整理でも、その点は一貫しています」
「そこは評価していい」
三宅はうなずいた。
「だが、協力的な個人を前提に制度を組むわけにはいかない」
画面の中で、戸張は半身の姿勢で止まっている。濡れた通路の中に立つその姿は、民間登録者というより、すでに現場の戦闘員に近かった。
本人にそのつもりがあるかどうかとは関係ない。
周囲がそう見る。
敵も、味方も、制度も。
善意があるから安全。
登録しているから管理できる。
通報しているから問題ない。
その程度の言葉で片づけるには、映像の中の動きは速すぎた。
真壁は、停止した画面から目を離さなかった。
「もし同じような登録者が増えれば、警察だけでは抱えきれませんね」
「自衛隊だけでも抱えきれない」
三宅は即座に返した。
「災害派遣、対ダンジョン対応、治安維持、国防。その全部に少しずつ関わってくる。どこか一つの名前を貼れば済む話ではなくなる」
「国防ですか」
真壁の声は、少し低くなった。
三宅は資料の端を指で押さえた。
「日本だけの現象ではない。各国にダンジョンがある。民間人が入る国もあれば、軍が直接管理する国もある。民間軍事会社や犯罪組織が食い込む国も出るだろう」
「他国が、ダンジョン内で変化した人間を戦力として使う可能性」
「使わない理由を探す方が難しい」
テントの中に、しばらく沈黙が落ちた。
真壁は元の映像に戻し、戸張が通路を進む場面を再生した。
戸張の動きは派手ではない。大きく跳ぶわけでも、力任せに押し切るわけでもない。足を置く場所を選び、敵の正面に長く立たず、同行者の退路を塞がない位置へ移る。
水門の件で自衛隊が苦労したのは、個々の敵の強さだけではなかった。
湿った床。狭い通路。複数方向からの接触。非戦闘員を含む隊列。退避の遅れ。
そのすべてが、現場の判断を鈍らせた。
戸張は、その中で動いている。
最初からそういう場所に合わせて作られたように。
「順応というより、現場の形に身体が寄っている」
真壁が言った。
三宅はその表現を否定しなかった。
「昔は」
真壁は少し言いづらそうに続けた。
「農民も、戦に立っていましたよね」
三宅は画面から目を離し、真壁を見た。
「急にどうした」
「いえ。民間人と戦う人間の境界が、今より曖昧だった時代があったと思っただけです。近代になって、軍人、警察官、消防、民間人と役割を分けてきた。ですが、ダンジョンに入る登録者は、その境目に立つことになる」
三宅は答えなかった。
真壁の言葉は、乱暴ではあるが外れてもいなかった。
登録者は民間人だ。
だが、異常空間の中では戦う。
状況によっては救助もする。
犯罪に巻き込まれれば被害者になり、力を使えば加害者にもなり得る。
その人間が、外の社会へ戻ってくる。
「戻る、のかもしれませんね」
真壁は小さく言った。
「一部だけ。形を変えて」
三宅はしばらく黙ってから、資料を閉じた。
「言葉にするのは早い。だが、現場はそのつもりで見ておく必要がある」
「戸張氏をですか」
「戸張氏だけではない。深町のような人間も含めてだ」
テントの外から、警備交代を告げる声が聞こえた。
規則通りの声。規則通りの返答。水門の前にいる限り、その規則はまだ形を保っている。
だが、その内側に入った瞬間、身体の使い方も、隊列の意味も、民間人という言葉の扱いも少しずつ変わっていく。
三宅は閉じた資料の表紙を見た。
事前に整理された内部資料には、対象者Aという記号が使われていた。戸張透の名前を直接出さず、映像と行動だけを抽出するための記号だった。
その処理自体は正しい。
正しいが、記号にしたところで、画面の中の動きが消えるわけではない。
「次の報告では、深町の記録と水門映像を分けずに扱う」
三宅は言った。
「戸張氏個人の特異性と、登録者全体に起こり得る変化を混ぜるな。ただし、別物として切り捨てるな。その線で出す」
「了解しました」
真壁がうなずき、手元のメモに短く書き込んだ。
発電機の音が続いている。
三宅はノートPCを閉じず、再生位置を水門の入口まで戻した。
画面の中で、暗渠の口が黒く開いていた。




