3-26話 静寂の月光、深淵の頁
――痛い。
翼竜が切り裂く夜の冷気が、研ぎ澄まされた刃のようにレオの頬や首筋を刺していた。
仲間たちは戦いで火照った身体を冷ます風として受け止めているようだったが、自分の力不足を痛感していたレオには、その冷たさがまるで拒絶のように感じられた。
レオを背に乗せた翼竜は、夜空を滑るように飛び続ける。
やがて眼下に、暗闇の中で煌々と光を放つクレスヴァーデン城の街並みが見えてきた。その外郭を囲む広大な草原の上空へ差しかかった、そのときだった。
「ここで降りて!」
それまで城をじっと見つめていたライラが、不意に切迫した声を上げた。
「えっ……? まだクレスヴァーデンには着いていないぞ?」
翼竜を操っていたイグニスが、訝しげに振り返る。
眼下に広がっているのは、夜の帳に包まれた草原だ。城は目視できるものの、歩けばまだ相当な距離がある。
「いいから降りて。お願い!」
ライラの強い語気に押され、イグニスは翼竜の首筋を二度叩き、両脚でその巨体を挟んで降下の合図を送った。
翼竜は低く喉を鳴らすと、大きな翼をしならせながら旋回する。羽ばたきが生んだ風圧で草原の草を大きくなびかせ、やがて地上へと舞い降りた。
ズシン――。
重い着地音とともに、レオたちは次々とその背から降りる。
足の裏に伝わってきた確かな大地の感触に安堵しかけたイグニスだったが、やはり納得できない様子で首を傾げた。
「なあ、ライラ。どうしてこんな中途半端な場所で降りるんだ? 城の敷地まで飛んだ方が早いだろ?」
「……私たちは竜に慣れているけれど、城下町の人たちは違うわ」
ライラは風に乱された髪を指先で整えながら、夜の中に佇む城を見つめた。
「こんな夜中にワイバーンが城へ降りてきたら、魔物が襲ってきたと思われるかもしれないでしょう? 警鐘が鳴って、兵士だけじゃなく町のみんなまで起こしてしまうわ」
その視線の先では、城下町の家々が静かに眠っている。
「あの戦いを終えて、みんなもようやく安心して眠っているのよ。その大切な時間を壊したくないの」
王女として、そしてこの国を背負う者として、民の穏やかな夜を守りたい。
その想いが、ライラの横顔から伝わってきた。
「なるほど……そうだよね」
レオは静かな城下町を見つめ、深くうなずいた。
今頃、町の人々は家族とともに眠り、明日に備えて身体を休めているのだろう。そんな人々の生活を守るために、自分たちは戦ったのだ。
「そういうことなら仕方ねえな!」
ジークが豪快に笑う。
ライラは仲間たちを見回し、申し訳なさそうに両手を合わせた。
「みんな、悪いけれど、ここからは徒歩でお願いできるかしら?」
「城だって目と鼻の先じゃねえか。なあ、レオ!」
ジークはそう言うなり、隣にいたレオの背中を豪快に叩いた。
バチンッ!
「ひゃいっ!?」
不意に走った衝撃に、レオは妙な声を上げてしまった。
「は、はいっ!」
反射的に背筋を伸ばして答える。
勢いだけの返事ではあったが、ジークの言葉に込められた「早く帰って横になりたい」という切実な気持ちは、痛いほど伝わってきた。
ジークだけではない。
誰もがもう、疲労の限界を迎えている。
そのことに気づいたレオは、腰のホルダーから二丁の錬金銃――《ツインレゾナンス》を抜き放った。
「皆さん、あと少しです! 城まで一気に行きましょう!」
レオは銃口を仲間たちへ向ける。
「――《アクセル・バレット》!」
パンッ、パンッ――!
乾いた銃声が、夜の草原に立て続けに響いた。
放たれた蒼い魔力弾が仲間たちの身体へ吸い込まれ、眩い光の粒子となって全身を包み込む。
鉛のように重かった脚へ力が戻り、身体が一気に軽くなる。
「ふふ、助かるわ、レオ!」
ライラは身体の調子を確かめるように、その場で軽く跳ねた。
「じゃあ、さっさと城まで行きましょう! 私、早くあのふかふかのベッドで休みたいの!」
そう叫ぶや否や、ライラは弾けるような勢いで駆け出した。
「あっ、ずるいぞ、ライラ! 一番乗りは俺だ!」
ジークが地面を蹴り、その後を追う。
「ちょっと、ジーク! 急に走らないでよ!」
セレスの声が飛び、アリーシャたちも一斉に走り始めた。
早く休みたい。
一秒でも早く、あの城へ辿り着きたい。
その切実な願いが、疲れ切った身体を突き動かしていた。
「み、皆さん、待ってください!」
レオも《ツインレゾナンス》をホルダーへ戻し、仲間たちの背中を追って走り出す。
草原を切り裂きながら、城門へ急速に迫る蒼い光の一団。
クレスヴァーデン城の正門を守っていた二人の門番は、闇の中から凄まじい速度で接近してくる光を目にし、即座に槍を構えた。
「な、なんだ、あれは!?」
「止まれ! 何者だ!」
しかし、蒼い光は止まらない。
「私よ! 門を開けなさい!」
一団の先頭から、ライラが飛び出した。
松明の光に照らされ、その顔が露わになる。
「ラ、ライラ様!?」
門番たちは驚愕し、慌てて槍を下ろした。
「ライラ様がご無事でご帰還されたということは……!」
「ええ。なんとか勝てたわ。アイゼンガルドの防衛戦は成功よ」
ライラは肩で息をしながらも、はっきりと告げた。
「その報告を一刻も早く父上へ届けたいの。通してもらえるかしら?」
二人の門番は顔を見合わせ、その表情を喜びに変えた。
「はっ! 大変失礼いたしました! ただいまお開けいたします!」
ギギギ……と重厚な城門が押し開かれる。
レオたちは門が完全に開くのを待つことさえ惜しむように、その隙間から城下町へ駆け込んだ。
しかし、眠りについた住民たちを起こさないよう、門を抜けたところで足を緩める。そこからは声を抑え、月明かりに照らされた静かな通りを抜けて王城へと急いだ。
城内へ足を踏み入れた瞬間から、時間の流れが変わった。
草原を駆け抜けていたときの疾走感が嘘だったかのように、城内は重厚な静寂に包まれている。
廊下の壁に掲げられた松明が、パチパチと小さな音を立てて燃えていた。
ライラの先導のもと、レオたちは静まり返った回廊を進む。
もう走る必要はない。
しかし、王への帰還報告を済ませるまでは休めない。
早く休みたいという気持ちに急かされながらも、レオたちは疲れ切った脚を動かし続けた。
やがて、城の深部にある玉座の間へ辿り着く。
衛兵の手によって、重厚な扉がゆっくりと開かれた。
広大な玉座の間の奥では、王が疲れた面持ちで玉座に腰掛けていた。
扉の開く音を聞いた王が顔を上げる。
そして、一行の先頭に立つ娘の姿を認めた瞬間、思わず立ち上がりかけた。
「おお……ライラ……!」
その声は、王としてのものではなかった。
危険な戦地へ向かった娘の帰りを待ち続けていた、一人の父親の声だった。
王の目が、わずかに潤む。
しかしライラは、王女としての務めを果たすように玉座の前まで進んだ。
彼女を先頭に、レオたちも一斉に片膝をつき、深く頭を垂れる。
「ただいま戻りました、父上。無事、事を成してまいりました」
ライラは顔を上げ、誇らしく、そして簡潔に帰還を告げた。
その短い言葉に込められた重みを受け止め、王は何度も大きくうなずいた。
「おお……そうか、そうか……! よくぞ無事に帰ってきてくれた。皆も、大義であった!」
王は玉座から立ち上がると、レオたちを一人ずつ見回した。
疲れ切った顔。
泥と血に汚れた装備。
今にも崩れ落ちそうなほど重く上下する肩。
それを見た王は、詳しい事情を尋ねようとはしなかった。
「皆、限界まで戦い抜いてくれたのだな。詳しい報告は明日でよい。今夜は余計なことを考えず、ゆっくり身体を休めるがよい」
その言葉は、今のレオにとって、どんな褒美よりもありがたかった。
「誰か、この者たちを客室へ案内せよ。何不自由なく休めるよう、くれぐれも頼んだぞ」
「かしこまりました」
控えていた侍従が恭しく一礼する。
「皆様、こちらへどうぞ」
謁見は、わずかな時間で終わった。
レオたちはもう一度王へ深く頭を下げ、侍従に導かれて玉座の間を後にする。
背後で重厚な扉がゆっくりと閉じていく。
そして、扉が完全に閉ざされた瞬間――。
「はぁぁぁぁ……」
レオの口から、抑え切れなかった深いため息が漏れた。
張り詰めていた緊張の糸が切れ、肩から一気に力が抜ける。
「ようやく……休める……」
「ああ……本当にな……」
隣を歩くジークも、普段の豪快さが嘘のように、力のない声で同意した。
もう急ぐ必要はない。
戦いも、帰還も、王への報告も終わった。
先ほどまで一秒でも惜しいと感じていた時間が、ここからようやく、ゆっくりと流れ始めた。
「皆様、お部屋はこちらになります」
侍従が足を止め、豪華な意匠が施された客室の扉を示した。
「どうぞ、ごゆっくりお休みくださいませ。何かご入用のものがございましたら、深夜であってもご遠慮なくお申し付けください」
「ありがとうございます……」
レオは眠気に霞む目を擦りながら、仲間たちを見回した。
「それじゃあ、みんな……おやすみ~」
「ああ」
ジークが短く答え、片手を上げて手前の部屋へ入っていく。
すると、その後ろを歩いていたセレスも、至極当然といった様子で同じ部屋へ入っていった。
(え……同じ部屋に入るんだ。しかも、みんなが見ている前で普通に……)
一瞬だけ妙に意識してしまったレオだったが、今はそれを口にする気力すら残っていなかった。
「おやすみなさい、マスター」
「また明日ね、レオ」
アリーシャとミレイユ、ライラたちも短く挨拶を交わし、それぞれの部屋へ入っていった。
静まり返った廊下に残されたレオも、自分に用意された客室の扉を開ける。
部屋の中には豪華な調度品が並び、床には柔らかな絨毯が敷かれていた。
そして中央には、大きな天蓋付きのベッドが置かれている。
それを見た瞬間、レオの思考からほかのすべてが消えた。
吸い寄せられるように歩み寄り、装備と靴だけをどうにか外すと、そのままベッドへ倒れ込む。
――バタンッ!
「疲れたぁ……」
顔を寝具に埋めたまま、全身の力を抜く。
鉛のように重くなった四肢が、柔らかな羽毛の中へ沈んでいく。もう指一本動かすことさえ億劫だった。
静寂が、波のように部屋を満たしていく。
耳に届くのは、トクン、トクンと鳴る自分の鼓動だけ。
窓から差し込む銀色の月光が、ベッドの端を淡い青色に染めていた。
(休める……。本当に、生きて帰ってこられたんだ……)
深い安堵が、身体を包み込んでいく。
レオは目を閉じ、そのまま眠りへ落ちようとした。
しかし――。
まどろみかけたレオの脳裏に、先ほどまでの戦いが鮮明に蘇った。
泥にまみれ、地面へ倒れ込んだアリーシャ。
前線を切り拓いていくジークとイグニスの背中。
そして、天を焦がすミレイユの爆炎。
(……駄目だ)
レオはうつ伏せになっていた身体を、重い動作で仰向けにした。
天井に施された細やかな装飾を見つめる。
先ほどまで身体を満たしていた安堵は、いつしか冷たい焦りへと変わっていた。
(みんなは、戦うたびに強くなっている。それなのに僕は、まだみんなの背中を追いかけているだけだ)
レオにも、自分が何もしていなかったわけではないと分かっている。
アクセル・バレットで仲間を支え、自分にできることを必死に探して戦った。
それでも――足りない。
(このままじゃ、いつか本当に足手まといになる。次の戦いで、誰かが僕の目の前で死んでしまうかもしれない。そんなのは……絶対に嫌だ)
「何かないかな……」
掠れた声が、静かな部屋へ溶けていく。
「僕にしかできない、僕だけの……何か……」
レオは決意するように目を開き、虚空へ手を伸ばした。
「――《ディメンション・ドロウ》」
空間がわずかに揺らぎ、レオの手の中へ一冊の古びた本が現れる。
亡き母が、何よりも大切にしていた錬金術書。
古びた頁には、膨大な錬金術の知識が記されている。その随所には、元から記されていた文章とは異なる筆跡で、母セレナが重ねた研究や考察が細かく書き加えられていた。
そして巻末には、いまだ何も記されていない頁が残されている。
レオにとってそれは、何物にも代え難い母の形見だった。
レオは鉛のように重い身体を気力だけで起こすと、ベッドから下り、窓際に置かれた机へ向かった。
椅子へ腰を下ろし、錬金術書を机の上に置く。
窓から降り注ぐ銀色の月光が、古びた紙面を静かに照らしていた。
レオは一枚、また一枚と頁を繰っていく。
紙の擦れる小さな音だけが、静まり返った部屋に響いた。
高位の錬金術理論。
複雑に絡み合う魔導回路の構築式。
魔力を異なる器官へ伝達し、その働きを補助する技術。
それらは一見すると、互いに何の関係もない研究のように思えた。
しかし、幾度もの死線を経験し、仲間たちの戦いを間近で見続けてきた今のレオには、それぞれの知識が一本の線でつながり始めていた。
(この魔力伝導の理論と、感覚器官を補助する魔導回路を組み合わせたら……)
頁を繰っていたレオの指が、一つの図式の上で止まる。
(もしかして、目で捉えた情報を、もっと正確に読み取れるんじゃないか……?)
まだ、それは形すら持たない思いつきにすぎない。
錬金術書のどこを探しても、その答えは書かれていなかった。
だからこそ――レオが、自分の手で答えを作らなければならない。
レオは再び頁を繰り始める。
一つの理論を読み、別の頁に記された構築式と照らし合わせる。分からなければ前の頁へ戻り、母が書き加えた考察にも目を通した。
ばらばらだった知識が、レオの頭の中で少しずつ組み合わされていく。
つい先ほどまで全身を支配していた疲労も、眠気も、いつしか意識の外へ消えていた。
月光を反射したレオの青い瞳に、探究心と強い意志の光が宿る。
誰もいない静寂の中で、少年の孤独な探究が始まった。
窓の外では、月がゆっくりと夜空を渡っていく。
やがて東の空が白み、夜明けの淡い光が部屋を包み始めても――。
レオは一度も錬金術書から目を離すことなく、夢中で深淵の頁を繰り続けていた。
最後まで読んでいただきありがとうございます。ブックマーク、評価、リアクションを付けて頂けると非常に励みになりますので、ぜひともよろしくお願いします!
次回の更新は8月21日(金)のAM1時を予定しております。
【改稿およびイラスト追加のお知らせ】
いつも『家を追われた無能の三男坊』をお読みいただき、ありがとうございます。
現在、物語の展開や設定は変えず、より読みやすい文章を目指して、過去のエピソードを順次改稿しています。
改稿にあわせて、各章の扉絵や登場人物・モンスターの紹介イラストなども追加しています。すでにお読みいただいた方にも、改めて作品の世界を楽しんでいただけましたら幸いです。
お時間のある際に、ぜひ過去のエピソードも覗いてみてください。
※掲載しているイラストは、生成AIを使用して制作・調整したものです。
今後とも『家を追われた無能の三男坊』を、どうぞよろしくお願いいたします。




