3-25話:紺碧の帰路、冷徹な自覚
ガギィィ、と重苦しい金属音を立てて、アイゼンガルド砦の南門に架かる巨大な跳ね橋が下りる。
レオたちは勝利の余韻と、生き残った高揚感をそのまま足並みに乗せて、砦を後にした。
背後では、つい数時間前まで死闘が繰り広げられていた石造りの要塞が、夕闇の影に呑み込まれようとしている。
しかし、戦場から一歩離れてみると、現実はひどく冷静に彼らの前に横たわっていた。 山脈の夕日は驚くほど足が速い。山端に引っかかっていた黄金色の太陽は、またたく間にその姿を消し、周囲の森は深い群青色から、急速に漆黒の闇へと塗り潰されていく。
「なぁ、勢いで出てきたけどさ……」
不意に、列の先頭を歩いていたジークが足を止め、肩をすくめて振り返った。その顔には、戦い抜いた男の疲労と、それ以上に呆れ果てた色が隠せていない。
「砦に戻るか、それともここら辺で野営した方がよくないか?」
「あ……」
ジークの言葉に、レオは思わず声を漏らし、周囲の暗闇を見回した。 確かにその通りだった。勝利の勢いと、一刻も早くこの血生臭い戦場から離れたいという気分に流され、後先のことを何も考えずに歩き出してしまっていたのだ。今からテントを設営し、火を起こすとなれば、完全に夜の魔物たちの活動時間と重なってしまう。
「あー、あははっ……あれなら、また僕の支援弾で走ります?」
レオはポリポリと頬を掻きながら、引きつった苦笑いを皆に向けた。ささやかな冗談のつもりだった。だが、その言葉が発せられた瞬間、隣を歩いていた小柄な影から、物理的な質量を伴うほどの冷たいプレッシャーが突き刺さる。
「ちょっと! あれだけ戦った後なのに、さらに走れって言うの……!?」
不機嫌そうに眉をひそめ、琥珀色の瞳でレオを睨みつけてきたのはライラだった。聖女であるにも関わらず、その鋭い視線には、疲労からくる明確な拒絶が滲んでいる。
「で、ですよね〜……。すみません」
気迫に完全に押し負けたレオは、両手を上げて情けなく縮こまることしかできない。そんなレオの様子を見て、ライラは「はぁ・・・」と深い溜息をつき、今度はクレスヴァーデン城があるはずの遠い空を見つめて、名残惜しそうに唇を尖らせた。
「でも、野営なんかより、お城の柔らかいベッドでゆっくり寝たいものね……。身体中、泥と汗でベタベタだし」
女の子としての本音が漏れたライラの言葉に、アリーシャやミレイユも心なしか同意するように肩の力を抜いた。誰もが限界だった。肉体も、そして精神も、あの地獄のような防衛戦で擦り切れかけていたのだ。
その時だった。
「ピイィィィ――――――ッ!!」
静まり返ろうとする山道に、鼓膜を突き刺すような鋭い高音が鳴り響いた。イグニスが口元に指を当て、全力で指笛を鳴らしたのだ。
「おい! 夜に指笛を鳴らす奴があるか! 魔物が集まってきたらどうすんだよ!」
ジークが文字通り血相を変えて怒鳴り散らす。 だが、ジークの怒声が響き渡るよりも早く、薄暗い上空の雲が、不自然に大きく割れた。
ザザッ、ザザザッ!
夜空の闇よりもさらに色濃い、巨大な「影」が、凄まじい速度で上空から降下してくる。同時に、上から下へと叩きつけるような狂暴な突風が吹き荒れ、レオたちの髪や衣服を激しくなびかせた。
「くっ……!」
「敵襲!?」
一同は瞬時に身構え、それぞれの武器――剣、槍、杖――を構えて上空を睨みつける。 頭上、わずか数十メートルの位置でホバリングし、巨大な翼で風を巻き起こしながらレオたちを見下ろしていたのは、紛れもない、一体の巨大な「竜」だった。
冷徹な眼光が、獲物を定めるようにレオたちを捉える。誰もが最悪の連戦を覚悟し、足に力を込めたその時、イグニスが慌ててみんなの前に飛び出してきた。
「ちがう! ちがうって! 敵じゃないよ! 私の同胞さ!」
イグニスは武器を構える仲間たちをなだめるように両手を上げると、上空の竜に向けて、空中でクルクルと円を描くように大きく手を回した。 すると、それを見た竜は、それまでの敵意を孕んだ羽ばたきをピタリと止め、巨体に似合わぬ滑らかな動作で、地面へとゆっくり着陸した。
ドシン、と地響きを立てて降り立ったその姿を見て、レオたちはようやく、張り詰めていた身体の糸を緩めた。構えていた武器を、それぞれの鞘やホルダーへと収めていく。
「来てくれてありがとうな!」
イグニスが親しげに笑いながら歩み寄り、竜の硬質な、しかし美しい大きな鼻っぱしを優しく撫でた。すると、あれほど凶悪に見えた竜は、「グルルルル……」と、まるで甘える猫のように喉を鳴らし、イグニスの手に大きな頭を擦り付けた。
「さぁ、こいつに乗って城まで帰ろうぜ! 走るより一瞬さ!」
イグニスは白い歯を見せて笑い、親指でその大きな背中を指し示した。
「こ、これって……ワイバーン……?」
レオは、その圧倒的な質量を持つ生物を見上げながら、ポツリと呟いた。その脳裏に、かつて自分たちが死闘を繰り広げ、命がけで討伐したある魔物の記憶が鮮明に蘇る。
「お、よくわかったね!」
イグニスは得意げに胸を張った。
「竜人族の移動手段はだいたい、この翼竜さ。だけど、人を何人も乗せるなら、これくらい大きなワイバーンでなきゃ無理だけどな。そこらへんに野生でいるワイバーンなんてのは、巣立ったばかりのやんちゃなガキ達さ」
からはは、と豪快に笑うイグニス。 だが、「やんちゃなワイバーン」という言葉を聞いた瞬間、レオの背筋に冷たい汗が伝った。 確かに心当たりがありすぎる。自分たちが以前、文字通り死に物狂いで首を撥ね飛ばした、あの狂暴な原生モンスターのワイバーンだ。
(……あのことは、イグニスには絶対に言わない方がいいだろうな……)
レオは引きつった顔のまま、そっと視線をアリーシャとミレイユへと巡らせた。二人もまた、レオと全く同じことを考えていたのだろう。言葉は交わさなかった。ただ、互いに気まずそうに目を合わせ、一瞬だけ小さく頷き合うことで、「この件は墓場まで持っていこう」という無言の協定が結ばれた。
そんな緊迫した空気の機微など、大雑把な男が気づくはずもない。
「そういや、ワイバーンの肉って、確かめちゃくちゃ美味いんだよな!?」
ジークが、腹を空かせた獣のような大声で、悪気もなく言い放った。
「っ!!!?」
レオは声にならない悲鳴を上げ、文字通り血の気が引いていくのを感じた。心臓が跳ね上がる。
(ジーク! それ、今この状況で言う!? 同胞って言ってる本人の目の前で!!)
心の中で叫びながら、レオは必死の形相でジークを睨みつけたが、当のジークは首を傾げているだけだ。案の定、イグニスの額に青筋が浮かび、声のトーンが一段、低くなる。
「……同胞を食うわけないだろ」
「あ、あははは! そうですよ! ほら、ジークさん、グダグダ言わずにさっさと乗る!」
このままでは不穏な二次災害が起きると察知したレオは、大慌てでジークの逞しい背中を両手で押し、半ば強制的にワイバーンの背へと登るよう促した。ジークは「なんだよ、飯の話だろ」と不満げに零しながらも、大人しく巨躯の背へと這い上がっていく。
全員が頑丈な鞍や鱗の隙間にしっかりと身体を固定したのを確認すると、イグニスは先頭で手綱を握り、「しっかり掴まってなよ!」と叫んだ。
パンパンッ、と手で硬い背を叩く。それが合図だった。
次の瞬間、世界が爆発的な速度で反転した。
凄まじい脚力で地面を蹴り、巨大な翼が一気に空気を薙ぐ。 強烈な重力がレオたちの身体を圧迫し、視界が垂直に跳ね上がった。数秒前まで足元にあったアイゼンガルド砦の松明の光が、またたく間に豆粒のような小ささへと縮んでいく。
夜の冷気を含んだ風が、容赦なく彼らの顔を叩いた。 視界が開けた先には、暗闇の奥で、まるで地上に落ちた星屑のようにこうこうと輝く光の集落が見えた。クレスヴァーデン城だ。
「行ってくれ!」
イグニスの咆哮に応じるように、ワイバーンは「ガァァァァ――――――ッ!」と鼓膜を震わせる咆哮を夜空に轟かせ、クレスヴァーデン城を目指して一直線に滑空を始めた。
風を切り裂き、夜の天空を駆けるワイバーン。 遮るもののない上空の風を受けながら、一同は、生まれて初めて目にする「夜の絶景」に、言葉を失って息を呑んでいた。
「海……。じゃあ、あの左手に見える黒い大陸が、ソレイユ大陸か……。凄い……あんなに遠くまで、一目で見えてしまうなんて……」
レオはしみじみと呟き、またたく街の光の向こうにある、どこまでも広がる闇の境界を見つめていた。高度数百メートルから見下ろす世界は、あまりにも広大で、そして美しかった。
だが、その壮大な美しさに心を奪われたのも、ほんの一瞬のことだった。
網膜に焼き付いた夜景の残像が、ゆっくりと、しかし確実に、つい先ほどまで自分が身を置いていた「戦場の記憶」へと形を変えていく。
視界の端で風に吹かれながら、どこか満足げに、あるいは心地よさそうに目を細めている仲間たちの姿が映る。 アリーシャ、ミレイユ、イグニス、ジーク、ライラ。 彼らは全員、あの地獄のようなスタンピードの中で、己の命を賭して前線を維持し、勝利を捥ぎ取ってきた「本物の戦士たち」だ。
それに比べて、自分はどうだっただろうか。
脳裏に、戦場の光景が恐ろしいほどの鮮明さで再生される。
真っ先に思い浮かんだのは、防衛線の最前線で、無数の魔物の突進を受け止め、そしてイグニスを庇って倒れたアリーシャの姿だった。彼女の小さな身体が、血と泥に塗れて崩れ落ちたあの瞬間、レオの心臓は凍りついた。
(僕は、あの時、何もできなかった……)
彼女が命を削って戦っている間、自分は安全な後方から、ただ戦況を見つめることしかできなかった。 前線を切り開き、圧倒的な武力で魔物の群れを掃討していったのは、ジークの豪快な槍であり、イグニスの圧倒的な剣撃だった。彼らが先陣を切って血路を開いたからこそ、戦線は繋がったのだ。
その後方では、ミレイユとエレナが、空を焦がすほどの強大な魔法を展開して敵の軍勢を焼き尽くしていた。ライラとセレスは、傷つき倒れた者たちの元へ迷わず飛び込み、その癒しの手でアリーシャの命を救い、戦士たちを再び戦場へと送り出していた。カイルは冷徹に状況を見極めながら、中距離からの的確な支援と、正確無比な狙撃で確実に敵の急所を撃ち抜いていた。
誰もが、代えの利かない「明確な戦力」として、あの戦場に存在していた。 一人一人の動きが、完璧な歯車のように噛み合い、勝利という一つの奇跡を形作っていた。
――じゃあ、自分は?
「アルケミスト(錬金術師)」として、いくつかの支援弾を撃ち込んだり、時には物理弾で攻撃もした。確かにそれらは、微力ながらもみんなの助けにはなったかもしれない。 だが、それは「レオでなければならなかった」のだろうか。 あの大混戦の中で、もし自分が一歩前に出て敵と対峙していれば、瞬時に噛み殺されて終わっていただろう。自分には、敵の肉を断つ刃も、一撃で群れを吹き飛ばす魔法も、致命傷をまたたく間に塞ぐ神聖な奇跡もない。
みんなが命のやり取りをしている極限の空間で、自分だけが、どこか一歩引いた安全な場所にいたような――そんな、耐え難い「場違い感」が、ドロリとした黒いヘドロのように胸の奥底から湧き上がってくる。
(結局、僕は……お荷物だ)
言葉が、形にならない呪詛のように喉の奥で燻る。
(もっと、自分自身に力がなきゃダメなんだ。このままみんなの厚意に甘えて、後ろからついていくだけじゃ……この先、絶対にみんなの足を引っ張る。取り返しのつかない瞬間に、また誰かが倒れるのを、ただ見ているだけになる……!)
なんとかしなきゃ、なんとかしなきゃ、と、脳内で焦燥感が鐘のように乱打される。だが、具体的な解決策など、今の自分の引き出しにはどこを探しても見当たらなかった。
悔しさと、己のあまりの無力さに、レオは奥歯が軋むほど強く下唇を噛みしめた。じわりと滲む鉄の味が、己の弱さを証明しているようで酷く惨めだった。
ふと、頬を掠める風に意識が戻る。
他の仲間たちにとっては、このワイバーンが切り裂く夜風は、戦いの火照りを冷ましてくれる心地よい祝福の風なのだろう。誰もが、戦い抜いた安堵の表情で風に身を任せている。
しかし、レオ一人だけは違った。
その風は、彼の衣服の隙間から体温を容赦なく奪い去り、皮膚を突き刺すように冷たく、狂暴だった。 まるで世界そのものが、「お前はここにいる資格がない」と拒絶しているかのように、レオ一人にだけ、夜の風当たりはひどく強く、どこまでも冷酷に吹きつけていた。
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次回の更新は8月14日(金)AM1時を予定しておりますので、よろしくお願いします。




