3-24話:黄昏の余韻、泥だらけの僕たち
「はぁ……おわっっっったぁぁぁ!!」
アイゼンガルドの荒野に、間の抜けた、けれど心底からの大声が響き渡った。 お尻を突き出し、後ろ側に突っ張るように両手をついて、天を見上げる。そうしてレオは、胸の奥深くにずっと溜まっていた、黒く重いうっ憤をすべて吐き出すように、大きな、大きなため息をついた。
張り詰めていた空気が、その気の抜けた声一つで、頼りなくフッと霧散していく。
「ふふっ……」
カツ、カツと、ゆっくりとした確実な歩調でレオの元へと歩み寄るアリーシャ。彼女はその情けないポーズを晒す主人の様子を見て、たまらずといった風に、口元に手を当てて笑い声をこぼした。 戦場を支配していた『皇帝の守護者』としての圧倒的な威圧感はもうどこにもない。そこにあるのは、いつも通りの、少しいたずらっぽくて柔らかな少女の微笑みだった。
「お疲れさまでした、マスター! そして……私を救っていただき、本当にありがとうございました」
アリーシャはレオの目の前まで来ると、愛用の大盾をそっと傍らの草地へ置き、深く、感謝と敬意を込めて一礼した。
「はははっ……本当に、本当にアリーシャが助かって良かったよぉ~……」
彼女の、いつもの凛とした、しかし温かみのある声を聞いた瞬間。レオの全身から、文字通り一本の糸も残らないほどに完全に力が抜けた。 支えを失った身体は、そのまま後ろの草原へと仰向けに倒れ込む。 ザサァ、と乾いた草が背中の下で潰れる心地よい音がして、視界いっぱいに、どこまでも広いクレスヴァーデンの青空が広がった。その青は、少しずつ夕暮れの茜色を混ぜ合わせようとしていた。
「あの時、本当に心配したんだ。まさか、アリーシャが……!?って、本当に思ったんだよ。本当、最初は信じられなかったけど……。でも、そうなんだよね。アリーシャは神でも超人でもないんだって……。僕の心のどこかで、アリーシャは最強で、何があっても絶対に死んだりしないんだって思っていたみたいだ。でも、ちゃんと……人間なんだなって……」
レオは、空を流れる薄い雲を見つめながら、ぽつり、ぽつりとしみじみ呟いた。 一度は完全に止まりかけた、アリーシャの鼓動。あの時の、世界が凍りつくような冷たさと、そこから引き戻した時の温もり。失う恐怖を本当の意味で理解したからこそ、目の前で彼女がただ呼吸しているというそれだけの事実が、今のレオにとっては涙が出るほど愛おしかった。
「マスター? 私を一体何だと思ってるんですか?」
それを聞いて、アリーシャは少し意地悪そうに小首を傾げた。 そうして、ガサリと音を立てて、レオのすぐ横にそっと腰を下ろす。
「私は超人でも神でもありませんよ。……一人のか弱い、女の子なんですよ?」
アリーシャは上半身を少し傾け、仰向けに寝転ぶレオの顔を、真上から覗き込むようにして見つめた。 いたずらっぽく細められた琥珀色の瞳。ふわりと重力に従って垂れ下がる、美しい髪の毛の先が、レオの頬にチリチリと触れる。その、あまりにも近すぎる距離に、レオの心臓が不意にトクンと小さく跳ね上がった。
「えー……か弱い、かなぁ? どちらかといえば、ものすごくたくましいと思うけど?」
レオは、頬をかすかに赤くしながら、フフッと少し吹き出すように笑った。 それは、今回の戦いで彼をずっと縛り付けていた、死への恐怖や、大切な人を失うかもしれないという強烈な不安――そんなすべての負の感情から完全に解放された、心地よい解放感から出た言葉だった。
「ひどーい! 見てください、この腕の細さ! わかります!? ガチガチ, ムチムチのマッチョじゃないんですよ!?」
アリーシャはぷくっと分かりやすく頬を膨らませて抗議すると、鎧の隙間から覗く自分の白い腕を、レオの目の前に突き出して見せた。 確かに、激しい打撃を何百回と大盾で受け止めてきた戦士の腕とは思えないほど、それは白く、しなやかで、華奢な少女のそれだった。
二人は、至近距離でじっと見つめ合う。 むきになって腕を見せるアリーシャと、それを見て困ったように笑うレオ。
「あはははっ」
「ふふふっ」
どちらからともなく、弾けたような笑い声が上がった。 戦いの中にあったすべての緊張が、その笑い声と共に、柔らかな風に流されて消えていく。
「あら、いいですね……二人で和気あいあいと……」
そんな温かい空気の中に、後ろからゆっくりと、からかうような足音が近づいてきた。現れたのは、領主代行としての重責をひとまず果たし終えたミレイユだった。その表情には、激戦を生き延びた仲間たちへの、深い慈愛が湛えられている。
「本当だぜ。あんな激しい戦いが終わったら、すぐにそうやってイチャイチャかぁ?」
長い槍を肩にひょいと担ぎながら、ニヤニヤと意地悪な笑みを浮かべて歩み寄ってきたのはジークだ。その言葉に、イグニスも少し肩をすくめながら言葉を重ねる。
「だなぁ。若さってやつか? 少しはこのお姉さんもいたわって欲しいくらいだぜ」
「お前が言うな! お前のせいでアリーシャが危険な目にあったんだぞ?」
ジークの容赦ない突っ込みが飛ぶ。 それは、戦場における動かしがたい事実だった。イグニスは一瞬、言葉に詰まったように動きを止め、ばつが悪そうに視線を泳がせた。 だが、彼女はそれから、小さく息を吸い込んでアリーシャの方を向いた。
「そ、そうだな……。その、アリーシャ……だっけ? その……本当にすまなかった。私を、かばってくれてありがとう……」
普段の勝気でプライドの高いイグニスからは想像もつかないほど、素直で、そして不器用な謝罪。照れ隠しをするように、頬を林檎のように赤く染めながら、人差し指でポリポリと頬をかいている。
アリーシャは驚くこともなく、ただいつものように優しく微笑んだ。
「いえいえ、戦場ですから、何があるかわかりません。あれはその結果ですから、気にしないでください」
それは、これまでに何度も死線をくぐり抜け、自らの命を天秤にかけてきた者だけが口にできる、深く、静かな説得力に満ちた言葉だった。イグニスはその言葉の器の大きさに、ただ感嘆したように目を細めた。
「ったく、本当よもう! あぁぁ! 疲れた! 疲れたんですけどぉぉぉ!? ねぇ? セレス?」
静かになりかけた空気を、これでもかとばかりに騒がしくぶち破ったのはライラだった。 自身の神聖力を極限まで酷使し、味方を守り抜いた彼女は、まさに文字通り心身ともにボロボロなのだろう。図々しくも、隣に立っているおとなしいセレスの肩をガシッと掴んで、救いを求めるようにぐわんぐわんと揺さぶる。
「え? 私!? え……いや、そのぉ~……」
急に矛先を向けられたセレスは、気弱な性質が災いして、ライラの勢いに気圧されながらおろおろと視線を彷徨わせるばかり。
「ほらほら、そこはジークがちゃんとフォローしてあげないとでしょ?」
カイトが、頭の後ろで両手を組みながら、ニヤニヤとした笑みを浮かべてのんびりと歩いてくる。
「あぁ!? うるせえよ! なんで、俺がそんなことしなきゃなんねえんだ!?」
ジークが犬のように噛みつくと、その様子を見ていたエレナが肩をすくめた。
「それはちょっと酷いんじゃない? てか、私達も陰ながら必死に頑張ってたんですけどねぇ? ミレイユ?」
エレナが水を向けると、ミレイユはわざとらしく、レオに向かってぷいっと膨れて見せた。
「双ですよ! マスター! 私だって魔力はスカスカなんですからね!」
「マスターって、アリーシャみたいに……」
つられて自分のことを「マスター」と呼び始めたミレイユを見て、レオは苦笑交じりにツッコミを入れた。いつの間にか自分の主人が増えたような、なんとも言えないおかしさがあった。
そのやり取りに、
「ふふっ……」
「あははははっ!」
一同の間から、今度こそ戦いの本当の終わりを告げるような、温かく大きな笑いが沸き起こった。お互いの無事を喜び、この場に全員が生きているという奇跡を噛みしめるような、そんな幸せな笑い。
「はぁ……勝った! 勝ったぞぉぉぉ!!」
ジークは、張り詰めていたすべての緊張が完全に解けたように、その場に大の字になって仰向けに倒れ込んだ。そうして、力強く拳を空へと掲げた。
「本当に……みなさん、お疲れさまでした」
セレスが、みんなの姿を見て、ほっと胸を撫で下ろしながらそっと労いの言葉を口にする。 大の字になって寝転がったまま、ジークは少し視線をセレスに向けた。
「いや、お前も相当頑張っただろ、セレス。そんな人の事気にせず、たまには自分の事だけ考えて、疲れたって大声で言ってもいいんだぞ?」
ジークなりの、ひどくぶっきらぼうで、けれど温かい気遣いの言葉だった。言われたセレスは、驚いたように目を丸くし、それから嬉そうに俯く。
「じゃぁ、そうするわ! あぁ! 疲れたっ!」
「お前に言ったわけじゃねぇし!」
言われた本人のセレスが恐縮している隙に、ライラが「待ってました」とばかりに声を上げ、そのままレオの横に割り込んで、レオのお腹の上に自分の頭を「どすん」と乗せて仰向けに寝転がった。 文字通りの「腹枕」である。
「うおっ!? ちょっと、ライラ!?」
急にお腹にずっしりとした重みと柔らかな感触を感じて、レオが情けない声を上げる。 すかさず飛んできたジークのツッコミと、ライラの図々しすぎる行動に、草原には再びドッと笑い声が巻き起こった。
誰も、もう戦う必要はなかった。 押し寄せる魔物の群れも、命を削るような緊張感も、いまはすべて遠い彼方の出来事のようだ。
ゆっくりと、夕日が荒野を茜色に染めていく。 赤から紫へとグラデーションを描く空。その優しい光が、泥だらけになりながらも生き残った彼らの姿を、等しく温かく照らしていた。
押しつぶされそうな恐怖を乗り越え、掴み取ったこの静寂。 体に染みついた土の匂いと、心地よい疲労感。 みんなで他愛のない軽口を叩き合い、笑い合っているこの瞬間こそが、何よりもかけがえのない勝利の報酬だった。
暮れゆく秋の風が、彼らの間を優しく吹き抜けていく。 ゆっくりと夕日と共に、生きている実感と勝利の喜びを、全員で静かに噛みしめる時間が、穏やかに過ぎていった。
やがて、空の境界が完全に茜色から濃い藍色へと溶け込み始める頃。 レオは小さく息を吐き出し、自らの腹の上で気持ちよさそうに目を閉じているライラの頭をそっと避けるようにして、体を起こした。
心地よく重い体を引きずりながら、立ち上がる。 衣服についた草屑や土を軽く払い落とし、まだ少し遠くを見つめていた仲間の顔を一人ひとり見渡した。
「さぁ、帰ろうか!」
レオが、よく通る声で、しかしどこか優しくそう呼びかけた。
その一言に、誰もがまるで示し合わせたかのように、ふっと同じ穏やかな表情を浮かべた。
「そうだな」
ジークが、肩に担いだ槍の位置を直しながら、不敵に笑って真っ先に歩き出す。
「はい!」
アリーシャは力強く、しかし嬉しそうに頷き、重厚な大盾を背負い直してレオの斜め後ろへと滑り込んだ。
「ええ、そうしましょう」
ミレイユもまた、淑やかに、それでいて確かな一歩を踏み出す。
ライラは「ちぇっ、もう終わり?」と文句を言いながらもセレスの背中を押して歩き出し、カイトとエレナ、そして少し離れたところにいたイグニスも、静かに彼らの後に続いた。
ぽつぽつと、一同はゆっくりと、大地を踏みしめるようにして腰を上げた。
背後から差し込む強烈な夕日。 それは、凄惨な死線をくぐり抜け、見事に勝利をその手に掴み取った『勇者たち』を祝福するかのように、世界の終わりと始まりを告げる黄金の光となって彼らの背中を焼き付けていた。
光を背に負い、影となってクレスヴァーデンの荒野を進む彼らの輪郭――。
ぼろぼろになった外套の裾、傷だらけの甲冑、それぞれの意志を宿した武器の先端。それらすべてが、茜色の逆光の中で、美しく、そして猛々しいシルエットとなって浮かび上がっていた。
彼らの進む先には、かすかにクレスヴァーデンの街の灯りが揺らめいている。 泥にまみれ、疲れ果て、それでもこれ以上なく気高く美しいその影たちは、静かに、けれど力強く、自らが守り抜いた地平へと歩みを進めていくのであった。
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次回の更新は7月31日(金)AM1時を予定しております。




