2-2話:残火に宿る父の背中
太陽が地平線の彼方へ沈むと、街道の空気は急速に冷え始めた。
昼間の穏やかな暖かさが嘘だったかのように、鋭い風が草原を吹き抜けていく。
まだ春も浅い季節。
夜の冷気は薄手の服を容易に通り抜け、容赦なくレオの体温を奪っていった。
「……寒い」
思わず両腕で身体を抱く。
日が暮れる前に寝床を見つけなければならないことは、父との稽古で教わっていた。
それなのに、母の物語を思い出しているうちに、すっかり遅くなってしまった。
「今からでも急がないと……」
レオは街道から大きく離れないよう注意しながら、風をしのげる場所を探した。
暗くなった森へ入るのは危険だ。
魔物だけではなく、足元が見えずに怪我をする可能性もある。
しばらく歩くと、斜面の一部に大きな岩が重なり、その根元に浅い窪みができているのを見つけた。
岩と斜面が北風を遮り、地面も比較的乾いている。
「ここなら、少しはましかな」
レオは周囲に魔物の足跡や糞がないことを確かめてから、そこを今夜の寝床に決めた。
暗くなる前に集めておいた枯れ枝を地面へ並べ、背負い袋から火打ち石と火口を取り出す。
カチッ、カチッ――。
打ち合わせた石から火花が散る。
しかし、火口へなかなか燃え移らない。
「おかしいな……。稽古のときは、もっと簡単にできたのに」
屋敷で野営の訓練をしたときは、すぐ近くに父や兵士たちがいた。
失敗しても、火を起こせる者がいる。
魔物が現れても、戦える者がいる。
けれど今夜は、すべて一人でしなければならない。
焦るほど指先に力が入り、火打ち石がうまく噛み合わなくなる。
「落ち着け……」
レオは一度手を止め、冷えた息をゆっくり吐き出した。
『焦れば視野が狭くなる。できぬときほど、動作を最初から確かめろ』
いつか父から言われた言葉が、耳の奥に蘇る。
火口をほぐす。
風が吹き込まないよう、自分の身体で覆う。
角度を調整して、もう一度だけ火打ち石を打ち合わせる。
カチッ――!
飛び散った火花が、今度は火口へ吸い込まれた。
小さな赤い点が生まれる。
レオは慌てず、消さないように静かに息を吹きかけた。
赤い光が少しずつ広がり、やがて細い炎となって枯れ草へ燃え移る。
「……ついた」
枯れ枝を一本ずつ加えていくと、橙色の炎がぱちぱちと音を立てて燃え始めた。
かじかんでいた両手を火へかざす。
冷え切った指先へ、じんわりと温もりが戻ってきた。
レオはようやく安堵の息を吐き、岩へ背を預けた。
◆
焚き火に照らされた街道は、夜の闇の中を一本の帯のように伸びていた。
平らに踏み固められた道。
雨水が溜まらないように掘られた側溝。
旅人が迷わないよう、一定の間隔で立てられた道標。
昼間は意識していなかった一つひとつが、誰かの手によって整備されたものであることに、レオは初めて気づいた。
ここは、ヴァレンタイン領と王都フィラルモニアを結ぶ主要街道。
父・ギルバートが長い年月をかけて整備し、警備を固めてきた道だった。
『商人が安心して通れぬ道に、物も人も集まらん』
幼い頃、執務室を訪れたレオへ、父が一度だけそう話したことがある。
魔物や盗賊を討伐するだけが、辺境伯の務めではない。
壊れた箇所を修繕し、警備兵を配置し、街道沿いの村々へ異変がないか確かめさせる。
父が守っていたのは、城壁の内側だけではなかった。
この道を行き交う商人。
荷馬車によって運ばれる食料。
街で暮らす人々の仕事。
それらが途切れることのないように、父は領地の外へ続く道まで守っていたのだ。
ヴァレンタイン領が辺境にありながら物資に恵まれていたのも、この街道が整えられていたからだった。
朝になるたび、城下町の店先へ焼きたてのパンが並んだこと。
テオの宿屋へ、遠方から多くの旅人が訪れていたこと。
ニナの店へ、さまざまな土地の薬草が運ばれていたこと。
それらも、当たり前に存在していたわけではない。
「……こんなところまで来ても、まだ父上に守られているんだな」
小さな呟きが、薪の爆ぜる音へ混ざった。
父は自分を追放した。
二度と顔を見せるなと告げ、屋敷から追い出した。
それでも、レオが今こうして焚き火を囲み、比較的安全に夜を迎えられているのは、辺境伯ギルバートがこの道を守り続けてきたからだった。
(僕のことは、いらなかったのに……)
そう思った瞬間、胸の奥が痛んだ。
レオはその痛みを押し込めるように、膝を抱えた。
◆
ガサッ――。
不意に、街道脇の茂みが揺れた。
「っ!」
レオは反射的に立ち上がった。
膝の上に置いていた二丁の錬金銃をつかみ、音のした方向へ銃口を向ける。
心臓が激しく鼓動を打つ。
父との稽古で、何度も敵を想定した訓練をした。
設置された標的へ、錬金銃を撃ったこともある。
けれど、暗闇の中に何がいるのか分からない恐怖は、訓練とはまるで違った。
(魔物……?)
冷えた指で銃把を握り締める。
掌から魔力を送り込むと、二丁の銃に刻んだ魔力回路が淡い光を帯びた。
カチリ――。
シリンダーが回転し、錬成した弾丸が発射位置へ収まる。
けれど、銃身を走る光は不安定に明滅していた。
(落ち着け。音だけで撃つな。相手を見極めろ)
父の教えを思い出し、呼吸を整える。
茂みが再び揺れた。
レオは引き金へ指をかける。
次の瞬間――。
一匹の野兎が、草むらから飛び出した。
「えっ……」
野兎はレオの前を横切り、街道の反対側へ駆けていく。
その小さな後ろ姿が暗闇へ消えるまで、レオは呆然と見送った。
「……兎か」
全身から一気に力が抜ける。
レオは銃口を下ろし、その場へ座り込んだ。
「び、びっくりしたぁ……」
緊張で滲んでいた汗が、夜風に触れて冷たくなる。
もし焦って引き金を引いていたら、何の罪もない野兎を撃っていた。
『敵かどうかも分からぬ相手へ、いたずらに刃を向けるな。武器を持つ者ほど、見極める目を持て』
また、父の声が脳裏に蘇った。
「……結局、父上の教えばかりだ」
自嘲するように笑い、二丁の錬金銃を膝の上へ戻す。
それでも、その教えがなければ、今の自分は恐怖に負けて引き金を引いていたかもしれない。
父はもう、ここにはいない。
けれど、五年間かけて身体へ刻み込まれた言葉と型は、暗闇の中でもレオを支えていた。
◆
夜が深まるにつれ、街道から音が消えていった。
昼間は多くの馬車や旅人が行き交っていた道も、今は静まり返っている。
火の粉が夜空へ舞い上がり、すぐに闇へ溶けていく。
十五歳。
この国では、大人として扱われ始める年齢だった。
けれど、一人で迎える初めての夜は、レオが想像していたよりもずっと暗く、ずっと長かった。
屋敷の自室であれば、壁の向こうに使用人の足音があった。
遠くから、夜警の兵士が交わす声も聞こえた。
たとえ誰も味方ではないと思っていても、屋敷の中には人の気配があった。
今は、焚き火の音と風の音しか聞こえない。
(寂しい……)
胸の奥に浮かんだ言葉を、レオはすぐに否定しようとした。
(駄目だ。そんなことを言ったって、もう戻れないんだから)
自分は追放された。
泣いても、誰かが迎えに来てくれるわけではない。
弱音を吐いたところで、明日の道のりが短くなることもない。
それでも――。
「……寂しいものは、寂しいよ」
誰も聞いていない夜だからこそ、レオは小さな声で認めた。
膝を抱え、額を押しつける。
強がったところで、自分が急に大人になれるわけではない。
家族に必要とされなかった痛みも。
テオやニナから拒絶された悲しみも。
十五年間暮らした場所へ戻れない心細さも、消えてはいなかった。
しばらくそうしてから、レオはゆっくり顔を上げた。
焚き火の炎が、少しずつ小さくなっている。
火を起こす方法。
野営に適した場所の見つけ方。
暗闇で相手を見極めること。
そして、恐怖に支配されず武器を扱うための心構え。
今日一日だけでも、父から教わったものに何度も助けられた。
レオは胸元で揺れるブローチへ、そっと触れた。
「……ありがとう、父上」
感謝を口にすると、胸の痛みが少しだけ和らいだ。
けれど、それは父のもとへ戻るという意味ではない。
教わったものを抱えたまま、自分の道を歩くための言葉だった。
「……さようなら」
夜風が吹き、剣と盾をかたどったブローチが小さな音を立てる。
レオは火が周囲へ燃え広がらないよう土を寄せ、完全には消えない程度まで炎を小さくした。
二丁の錬金銃をすぐ手の届く場所へ置き、背負い袋から薄い毛布を取り出して身体へ巻きつける。
岩へ背を預け、目を閉じた。
眠りは浅かった。
風が草を揺らすたびに目を覚まし、遠くから獣の鳴き声が聞こえるたび、錬金銃へ手を伸ばした。
それでも夜は、少しずつ過ぎていく。
父が築いた道の傍らで。
父から教わった火に温められ。
父の教えを身体へ刻んだまま。
レオは明日、自分の力で次の一歩を踏み出すため、短い眠りへ落ちていった。
やがて焚き火は小さな残り火となり、静かな夜の底で、少年を守るように赤く瞬き続けた。




