2-1話:勇者の影と、母の微笑み
ヴァレンタイン領を離れ、王都フィラルモニアへ続く街道。
十五歳になったレオは、一人で歩いていた。
履き慣れていない硬い革靴が、すでに踵を擦っている。
歩くたびに小さな痛みが走ったが、足を止めるわけにはいかなかった。
振り返れば、故郷へ続く道が遠く伸びている。
その先にあるはずのヴァレンタイン家の屋敷は、もう影すら見えない。
追放されたのだという実感は、不思議なほど薄かった。
今にも父上の声が背後から飛んできて、
『足の運びが遅い。無駄な動きを削れ』と叱られるような気がする。
けれど、どれだけ耳を澄ませても聞こえるのは、風に揺れる草木の音と、自分の足音だけだった。
「……本当に、一人になったんだな」
口にした途端、その事実が胸へ重く沈んだ。
レオは寂しさを振り払うように背負い袋を担ぎ直し、再び歩き始める。
胸元には、母セレナが身につけていた剣と盾のブローチ。
背負い袋の中には、着替えとわずかな食料、母が大切にしていた古い錬金術書。そして布に包んだ二丁の錬金銃が収められている。
どちらの銃も、五年間を費やして造り上げたばかりの試作品だった。
金属の表面には歪みや細かなひびが残り、魔力回路もまだ完全には安定していない。何度か使用すれば壊れてしまうかもしれない。
ほかの者が見れば、武器ではなく鉄くずだと笑うだろう。
それでもレオにとっては、父から教わった剣の型と、母の錬金術の知識、そして自分自身の五年間を形にした、何物にも代え難い武器だった。
街道を、荷物を積んだ商人の馬車が通り過ぎていく。
「おい、坊主! 乗っていくか?」
御者台に座っていた男が、親切に声をかけてくれた。
レオは一瞬だけ迷い、懐へ手を伸ばす。
屋敷を出る際に持ってきたのは、手元に残っていたわずかな硬貨だけだった。
父上の宝物庫で金貨や宝石を選んでいれば、こんな心配をする必要はなかっただろう。
けれど、あのときの選択を後悔してはいない。
「ありがとうございます。でも、お金があまりないので……」
「そうか。無理はするなよ! この先は日が暮れると魔物が出ることもあるからな!」
御者は片手を上げ、馬車とともに遠ざかっていった。
「……魔物か」
レオは背負い袋の中にある二丁の錬金銃を意識した。
試し撃ちはしている。
弾丸を装填し、魔力を通して発射することもできた。
しかし、実際に動く魔物へ向けたことは一度もない。
(本当に、戦えるのかな……)
不安が胸をよぎる。
城下町では、《アルケミスト》には人を守れないと言われた。
それを否定するために、この錬金銃を造った。
けれど、造ったことと、使いこなせることは違う。
父上と五年間稽古を続けたとはいえ、命を懸けた実戦を経験したことはなかった。
もし魔物を前にして、足が動かなかったら。
もし銃が壊れたら。
もし自分の一発が、敵へ届かなかったら――。
「……駄目だ」
レオは頬を軽く叩いた。
「今から怖がっていても仕方ないよね」
まずは王都へ辿り着く。
そして冒険者ギルドへ登録し、日銭を稼ぐ。
薬草の採取や、街の雑用でも構わない。今の自分にできる依頼から始めればいい。
屋敷を追われた十五歳の少年が、一人で生きていく。
そのために思いつく方法は、それくらいしかなかった。
◆
夕刻。
西へ傾いた太陽が、街道を赤く染めていた。
一日中歩き続けた足は重く、革靴に擦られた踵がじくじくと痛む。
レオは街道脇にある大きな岩へ腰を下ろした。
「疲れたぁ……」
誰も聞いていないことを確認してから、情けない声を漏らす。
水筒の栓を開け、残りを確かめながら一口だけ飲んだ。
冷たさが乾いた喉を通り抜けていく。
目の前には、夕日に染まった草原がどこまでも広がっている。
屋敷の窓から見ていた景色とは違う。
高い塀も、見張りの兵士もいない。
自分を守ってくれるものが何もない世界は、広く、そして少し恐ろしかった。
風が吹き、胸元のブローチが小さく揺れた。
それに指で触れた瞬間、レオの脳裏に、懐かしい記憶が蘇る。
幼い頃。
眠れない夜に、母セレナが聞かせてくれた、少し変わったお伽噺だった。
◆
『昔、昔。魔物が村や街を襲い、人々が怯えて暮らしていた時代がありました』
柔らかな寝具の感触。
髪を撫でてくれる、母の温かな手。
優しい声に耳を傾けながら、幼いレオは母の膝へ頭を預けていた。
『その時代、一人の勇者が仲間たちとともに旅へ出ました。たくさんの人を救いながら、世界を苦しめている魔王を倒すために』
『勇者なら、絶対に勝てるんだよね?』
幼いレオが尋ねると、母はすぐに答えなかった。
どこか遠くを見るように窓の外へ目を向け、それから寂しそうに微笑んだ。
『そうね。勇者たちは、とても強かったわ。でも、戦いはそれだけ激しかったの』
長い旅の中で、仲間たちは一人、また一人と倒れていった。
勇者を庇った者。
次の道を切り拓くために、その場へ残った者。
力を使い果たし、二度と目を覚まさなかった者。
そして最後に魔王の玉座へ辿り着いたのは、たった一人の女勇者だった。
『女勇者は、一人で魔王と戦いました。剣は折れ、盾は砕け、立っているのもやっと。それでも諦めず、ついに魔王を倒したの』
『すごい! それなら、帰ったらみんなが喜んでくれたんだよね?』
母の手が、レオの髪の上で止まった。
『……いいえ』
その一言が、幼いレオには理解できなかった。
『勇者は傷だらけの身体で王都へ戻りました。けれど、彼女を迎えた人々は、誰も喜んでくれなかったの』
王都の大通りを、一人で歩く女勇者。
道の両側には、多くの人々が集まっている。
しかし、歓声を上げる者はいなかった。
人々は彼女を遠巻きにし、まるで魔物を見るように怯えていた。
『どうして? 勇者はみんなを守ったんでしょう?』
『ええ。守ったわ』
『だったら、どうして怖がるの?』
『勇者が、あまりにも強くなりすぎてしまったから』
女勇者が王へ魔王討伐を報告するため、城へ向かう。
玉座の間には王と、多くの魔導士たちが待ち構えていた。
そこで告げられたのは、感謝の言葉ではなかった。
『強すぎる力は正義ではない。それは新たな恐怖である。その恐怖を排除してこそ、真の平和が訪れる』
魔王を倒した女勇者は、人々を救った英雄ではなく、平和を脅かす存在として扱われた。
『そんなのおかしいよ!』
幼いレオは寝具から起き上がり、頬を膨らませた。
『勇者は、みんなのために戦ったんでしょう? 仲間だってみんな死んじゃったのに……』
『そうね。お母さんも、おかしなお話だと思うわ』
母は幼いレオの顔をのぞき込み、ふわりと微笑んだ。
けれど、その瞳は今にも泣き出しそうに見えた。
『力を持てば怖いと言われ、持たなければ役に立たないと言われる。それなら、どれほどの力があれば正しいのかしらね』
母の指が、レオの頬へ優しく触れる。
『何が本当で、何が嘘なのか。何を平和と呼べばいいのか……分からなくなってしまうわね』
『お母様は、どれが本当だと思う?』
母は少し考えたあと、レオの胸へ手を当てた。
『それは、いつかレオが自分で見つけることよ』
『僕が?』
『ええ。誰かに教えられた答えではなく、自分の目で見て、自分の心で選ぶの』
母はレオを寝具へ戻し、額へそっと口づけた。
『あなたが選んだ答えで、誰かを笑顔にできたなら――きっと、それがレオにとっての“本当”になるわ』
◆
レオは岩の上で、ゆっくりと目を開いた。
目の前の草原には、夜の色が広がり始めている。
「力を持てば怖がられて、持っていなければ役立たず、か……」
あの頃は、母が何を伝えたかったのか分からなかった。
けれど今なら、ほんの少しだけ理解できる気がした。
あの女勇者は、強すぎたから拒絶された。
自分は、弱いと決めつけられたから拒絶された。
理由は正反対だ。
それでも、相手の本当の姿を見ようともせず、与えられた職業や力だけで価値を決められた痛みは、きっと似ている。
『俺たち領民を守れもしない奴と、対等だと思うなよ!』
テオの言葉が蘇る。
胸が痛んだ。
けれど、以前のように涙は出なかった。
「……何が本当か、か」
レオは背負い袋を開き、布に包んでいた一丁の錬金銃を取り出した。
歪な金属の表面へ、沈みかけた太陽の最後の光が映る。
掌から魔力を流し込む。
淡い光が不安定な魔力回路を走り、円筒形のシリンダーが小さな音を立てた。
カチリ――。
それはまだ、完成された力ではない。
この銃が本当に誰かを守れるのかも分からない。
それでも、他人から与えられた評価ではなく、レオが自分の手で生み出した最初の答えだった。
「母様」
胸元のブローチへ目を落とす。
「僕は、最強になりたいわけじゃない」
言葉にしながら、自分の気持ちを確かめる。
「みんなから英雄って呼ばれたいわけでもないよ」
守りたいと願った故郷から、自分は拒絶された。
それでも、誰かを守りたいという想いまで捨てることはできなかった。
「ただ、自分の手が届くところにいる人が、安心して笑っていられるくらいの力が欲しい」
レオは錬金銃を握り締める。
「そのための答えを、僕は自分で造ってみたいんだ」
銃を再び布で包み、背負い袋へ戻した。
まだ、王都までの道のりは遠い。
日も暮れようとしている。
寝床を探し、火を起こさなければならない。明日のために水も節約する必要がある。
一人旅を始めたばかりのレオには、知らないことがあまりにも多かった。
それでも岩から立ち上がった足は、先ほどよりわずかに軽く感じられた。
母が語ってくれた、名も知らぬ孤独な女勇者。
その物語は今のレオにとって、自分だけが苦しんでいるのではないと教えてくれる、小さな道標になっていた。
夕闇の中、少年は再び歩き始める。
いつか、そのお伽噺の女勇者本人と出会うことになるとも知らずに――。




