1-5話:断絶の旋律
久しぶりに、父上との稽古がない朝だった。
いつもなら夜明けとともに裏山の修練場へ向かう時間。しかし今日は自室で服の皺を何度も伸ばし、姿見に映る自分を落ち着かない気持ちで見つめていた。
十歳だった身体は、五年の間に少しだけ背が伸びた。
細かった腕にも、毎日の稽古によってわずかな筋肉がついている。けれど鏡の中にいるのは、騎士らしい逞しさとは程遠い、まだ幼さの残る十五歳の少年だった。
机の上には、小さな包みが二つ置かれている。
一つは、剣の手入れに使うために調合した錬金油。
もう一つは、傷の治りをわずかに早める薬草軟膏。
錬金油は、騎士になることを夢見ていたテオへ。
軟膏は、《回復士》の職業を授かったニナへ。
どちらも、今のレオに造れる精いっぱいの品だった。
(気に入ってくれるかな……)
二つの包みを鞄へしまい、レオは自室を出た。
今日こそ、二人に会いに行く。
信託の儀を受けたあの日、レオは自分の職業を告げた直後、逃げるように二人の前から立ち去った。
あれから五年。
父との稽古と錬金銃の開発を言い訳にして、城下町へ足を運ぶことを避け続けてきた。
本当は、二人と顔を合わせるのが怖かったのだ。
同情されることも。
慰められることも。
辺境伯家の三男でありながら、《アルケミスト》しか授かれなかった自分を見られることも。
それでも、もう逃げたままではいたくなかった。
(ちゃんと謝ろう)
あの日、突然いなくなってしまったことを。
何も言わず、五年もの間、会いに行かなかったことを。
(きっと、話せば分かってくれる。テオもニナも、僕の大切な友達なんだから)
期待と不安を胸に抱き、レオは屋敷を飛び出した。
◆
ヴァレンタイン領の城下町は、朝から活気に満ちていた。
石畳の大通りには近隣の村から運ばれてきた野菜や果物が並び、威勢のよい商人の声があちらこちらから聞こえてくる。
「さあ、採れたてだよ!」
「焼きたてのパンはいかがですか!」
香ばしい匂いが鼻をくすぐり、空腹でもないのに腹が鳴りそうになる。
荷車が石畳を軋ませ、子供たちがその間を楽しそうに駆け抜けていく。
どれも、レオの記憶に残る城下町の風景だった。
幼い頃、身分を隠してテオやニナと走り回った道。
市場で売れ残った果物を分けてもらい、三人で秘密の場所へ持っていったこともある。
雨上がりの水溜まりへ飛び込み、全身を泥だらけにして叱られたこともあった。
懐かしい思い出が、歩くたびに蘇ってくる。
しかし――。
(……なんだろう)
レオは足を少しだけ緩めた。
すれ違った婦人が、レオの顔を見るなり隣の者へ耳打ちする。
店先に立っていた男は、レオと目が合うと、気まずそうに視線を逸らした。
母親に手を引かれていた幼い子供がこちらを指差そうとすると、その手を慌てて下ろさせる。
声をかけてくる者はいない。
それなのに、背中へいくつもの視線が突き刺さっている。
(気のせいだよ)
五年ぶりに城下町へ来たから、そう感じるだけだ。
辺境伯家の人間だと知られ、珍しがられているのかもしれない。
そう自分へ言い聞かせながら、レオは歩く速度を上げた。
やがて、幼い頃によく遊んでいた広場へ辿り着く。
中央にある噴水の周囲では、数人の少年少女が楽しそうに話していた。
成長し、背丈も顔立ちも変わっている。
それでも、見間違えるはずがなかった。
「あ……!」
レオの顔が、自然とほころぶ。
広場の反対側に、見覚えのある二人がいた。
腰に訓練用の木剣を下げた少年。
肩から薬草の入った鞄を提げた少女。
「テオ! ニナ!」
レオは大きく手を振り、二人のもとへ駆け寄った。
二人がこちらを振り向く。
その顔に驚きが浮かんだ。
「久しぶり! 二人とも、ずっと会いに来られなくてごめん!」
レオは息を弾ませながら、精いっぱい明るく笑った。
「僕、あの日、何も言わずに帰っちゃっただろ? ずっと謝りたいと思ってたんだ。でも、なかなか勇気が出なくて……」
テオもニナも、返事をしなかった。
突然の再会に驚いているのだろう。
レオはそう思い、鞄の中へ手を入れた。
「それで、今日は二人に渡したいものを持ってきたんだ。大したものじゃないけど、僕が――」
「……どうして来たの?」
小さな声が、レオの言葉を遮った。
「え……?」
ニナだった。
彼女は頬を強張らせ、鞄の紐を胸元で強く握っている。
「ニナ……?」
「今まで来なかったのに……。どうして、今になって……」
その声は、怒っているというよりも怯えているように聞こえた。
レオが困惑しながら一歩近づくと、ニナの肩がびくりと震える。
次の瞬間、テオがニナを庇うように前へ出た。
「近づくなよ」
低く発せられた言葉に、レオの足が止まる。
「テオ……?」
テオの身体は、記憶の中よりもずっと大きくなっていた。
握られた拳。
鋭く向けられた眼差し。
そこには、竹箒を剣に見立てて笑っていた頃の面影が、ほとんど残っていなかった。
「どうしたんだよ。僕だよ、レオだよ」
「分かってる」
「だったら――」
「だから、来るなって言ってるんだ!」
テオの怒声が、広場に響き渡った。
周囲にいた者たちの会話が止まる。
「この……でき損ないが!」
「……っ!」
その言葉が、胸の奥へ深く突き刺さった。
一瞬、呼吸の仕方さえ分からなくなった。
でき損ない。
兄たちから何度も浴びせられてきた言葉。
屋敷の中で聞くことには、もう慣れたつもりでいた。
けれど、テオの口から聞くその言葉は、まるで別の刃だった。
「どうして……」
レオの声が震える。
「どうして、テオまでそんなことを言うんだよ。僕たち、友達だっただろ?」
テオの表情が、一瞬だけ揺らいだ。
しかし、周囲から集まる視線に気づくと、すぐに顔を強張らせる。
「ここはヴァレンタイン辺境伯家が守っている領地だ」
テオは自分自身へ言い聞かせるように、声を張った。
「俺の父ちゃんも母ちゃんも、辺境伯様たちがいるから安心して暮らせるって言ってる。魔物が襲ってきたとき、命を懸けて俺たちを守ってくれる一族なんだって」
「それは……僕だって分かってる」
「分かってない!」
テオの拳が、さらに強く握られる。
「辺境伯様の息子なのに、《アルケミスト》なんだろ? 剣もまともに使えない。魔法で敵を倒すこともできない。そんな役立たずが、俺たちをどうやって守るんだよ!」
「僕は……」
「街中で噂になってるんだ。ヴァレンタイン家に、戦えない三男が生まれたって。名門の恥だって!」
レオは何かを言い返そうとした。
自分は五年間、何もせずにいたわけではない。
毎日、父から剣術を学んだ。
何度失敗しても設計図を引き直し、錬金術を学び続けた。
鞄の中には、テオとニナのために自分で造った品もある。
そして屋敷の自室には、ようやく形となった二丁の錬金銃が置かれている。
けれど、それを説明する言葉が出てこなかった。
ここで何を言っても、必死に言い訳をしているようにしか聞こえない気がした。
「私は……そんなつもりじゃ……」
テオの後ろで、ニナがか細い声を漏らした。
しかし彼女はレオと目が合うと、怯えたように視線を逸らしてしまう。
その沈黙が、拒絶よりも苦しかった。
レオは周囲を見渡した。
広場には、いつの間にか多くの人が立ち止まっていた。
あからさまに蔑む者。
気の毒そうに見つめる者。
どう接すればよいのか分からず、目を伏せる者。
そこにある感情は一つではなかった。
それでも、レオへ歩み寄ってくる者は誰もいない。
彼らにとってヴァレンタイン家は、魔物から領地を守る剣でなければならない。
その一族に生まれながら戦えないと噂されるレオは、期待を裏切った存在だった。
朝から感じていた違和感の正体が、ようやく分かった。
この五年間で、変わったのはテオとニナだけではない。
この街におけるレオの居場所そのものが、失われていたのだ。
「帰れよ」
テオが足元の小石を拾った。
けれど、その手はわずかに震えていた。
「もう、俺たちのところへ来るな!」
投げられた小石が、レオの足元で乾いた音を立てて弾ける。
痛くはなかった。
身体には触れてすらいない。
それなのに、五年間、父の木刀で何度打たれたときよりも痛かった。
鞄の中では、二つの包みが渡されることなく残っている。
かつて、自分が自分でいられた場所。
身分も職業も関係なく、ただのレオとして笑えた場所。
その場所は、もうどこにもなかった。
「……そっか」
ようやく出た声は、自分でも驚くほど小さかった。
レオは唇を噛み、こぼれそうになる涙を必死に堪えた。
ここで泣きたくなかった。
泣けば、本当に何もできない子供へ戻ってしまう気がした。
「ごめん。邪魔して」
それだけ告げて、レオは二人へ背を向けた。
「レオ……」
背後から、ニナが名前を呼んだような気がした。
振り返ることはできなかった。
振り返ってしまえば、抑えているものがすべて溢れてしまう。
レオは歩き出し、やがて走り始めた。
市場を抜け、石畳の坂道を駆け上がる。
行きには心地よく感じられた焼きたてのパンの香りも、商人たちの声も、今は何一つ頭に入ってこなかった。
風を切る音だけが、耳元で響いている。
(僕は、ただ……)
もう一度、三人で笑いたかっただけだった。
自分が造ったものを見せて、錬金術師でもできることがあると伝えたかった。
そしていつか、自分もこの街を守れるのだと、胸を張りたかった。
けれど、その願いを伝えることさえ許されなかった。
(ああ……そうか)
坂道の先に、ヴァレンタイン家の屋敷が見えてくる。
(分かったよ、神様)
屋敷では血のつながった家族から蔑まれた。
城下町では、大切だった友人から拒絶された。
職業によって価値を決めるこの場所に、レオをつなぎ止めるものは、もうほとんど残されていなかった。
◆
自室へ戻ったレオは、扉を閉めるなり、その場へ背中を預けた。
荒い息を繰り返しながら、ずるずると床へ座り込む。
鞄を開き、渡せなかった二つの包みを取り出した。
テオのための錬金油。
ニナのための薬草軟膏。
何度も調合をやり直し、二人が喜ぶ顔を思い浮かべながら造ったものだった。
「……ばかみたいだ」
ぽつりと呟いた途端、堪えていた涙が頬を伝った。
レオは乱暴に目元を拭い、立ち上がった。
机の引き出しを開ける。
その奥には、布に包まれた二丁の金属製の武器が収められていた。
五年間、失敗を重ねながら造り続けた錬金銃。
まだ完成したばかりで、実戦に耐えられる保証などない。
それでも、これは誰かから授けられた力ではなかった。
神が与えた職業に従って得た武器でもない。
父の教えと、母が残した錬金術の知識。
そしてレオ自身が積み重ねた五年間のすべてを、形へ変えたものだった。
レオは二丁の錬金銃を手に取った。
掌へ伝わる金属の冷たさが、熱くなった心を静かに鎮めていく。
「《アルケミスト》だから、戦えない……?」
銃把を強く握り締める。
「そんなこと、誰が決めたんだ」
悲しみは消えていない。
悔しさも、寂しさも、胸の奥で渦巻いている。
けれど、もうそれらに押し潰されたくはなかった。
否定されたのなら、自分の手で証明すればいい。
剣を持てなくても。
攻撃魔法を使えなくても。
劣等職と蔑まれた錬金術によって、自分だけの戦い方を造り出せばいい。
「僕は、僕のやり方で戦う」
二丁の錬金銃が、朝の光を受けて鈍く輝いた。
「僕が造ったこの力で、いつか必ず誰かを守ってみせる」
たとえ今は、誰にも信じてもらえなくても。
この旋律は、まだ始まったばかりなのだから。
その日、少年の中に残されていた故郷への甘い期待は、静かに断ち切られた。
代わりに生まれたのは、誰かに与えられた運命へ従うのではなく、自らの手で未来を造るという決意。
二丁の錬金銃が奏でる、レオだけの戦律だった。
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