1-2話:命の重さと、届かぬ叫び
信託の儀を終えた翌朝。
太陽が昇るよりも早く、僕は裏山の修練場へ立っていた。
東の空はまだ薄暗く、吐き出した息が白く煙る。昨日の夕暮れに一人で振った木剣を、今日は父上と向かい合いながら握っていた。
両手に伝わる重さは、昨日と変わらない。
けれど、目の前に父上が立っているだけで、木剣は何倍にも重くなったように感じられた。
「構えろ」
「はい!」
見よう見まねで木剣を正面に構える。
「右足を半歩引け。腰を落とし、重心を中心へ置け」
言われたとおりに足を動かす。
しかし、慣れない姿勢を保とうとするだけで太腿が震え始めた。
「剣先が下がっている」
「は、はい……!」
「返事に力を使うな。呼吸を整えろ」
父上の言葉に従い、冷たい空気を肺いっぱいに吸い込む。
けれど、集中しようとすればするほど、昨日の光景が脳裏に蘇ってきた。
『レオ君は何だったんだ?』
騎士になる夢を語っていたテオの笑顔。
『錬金術師って……あまり戦えない職業だっけ』
僕を励まそうとしながらも、困ったように視線を伏せたニナ。
そして、二人との間に生まれた、目には見えない境界線。
「――足が止まっているぞ。集中しろ!」
「えっ――」
鋭い声とともに、父上の木剣が僕の胴を打った。
「ぐっ……!」
鈍い衝撃が全身を突き抜け、肺から空気が押し出される。
僕の身体は地面へ投げ出され、そのまま泥の上を転がった。
「がはっ……はぁ、はぁ……!」
息ができない。
打たれた脇腹が、焼けるように痛む。
冷えた泥が頬へ貼りつき、握っていた木剣は少し離れた地面へ転がっていた。
「立て」
頭上から、父上の声が落ちてくる。
立たなければならない。
分かっているのに、身体へ力が入らない。
痛みのせいだけではなかった。
頭の中では、昨日の友人たちの言葉が泥と混ざり、ぐるぐると渦を巻いていた。
(違う……)
テオもニナも、僕を傷つけようとしたわけではない。
そんなことは分かっている。
(僕は、二人に同情されたかったわけじゃない……)
「立て、レオ」
父上の声が、もう一度響いた。
僕は歯を食いしばり、震える腕で身体を起こした。泥の中へ転がった木剣を拾い上げる。
「構えろ」
父上の構えは、微動だにしていなかった。
剣先にも、足の位置にも、わずかな揺らぎさえない。
その隙のない姿が、今の僕には「お前には決して届かない」と告げているように見えた。
「……くっ」
胸の奥で、何かが膨れ上がっていく。
悔しさ。
惨めさ。
誰にも分かってもらえない寂しさ。
僕はそれらをすべて吐き出すように、地面を蹴った。
「うあああああっ!」
木剣を振り上げ、父上へ突進する。
教えられた構えも、足の運びも頭から消えていた。
ただ力任せに、何度も木剣を振り下ろす。
「やああっ!」
パンッ――!
乾いた音が修練場へ響く。
父上はその場から一歩も動くことなく、最小限の動きで僕の木剣を弾き飛ばした。
木剣が宙を舞い、泥の中へ落ちる。
衝撃に耐え切れず、僕も再び膝をついた。
「……力任せに振るうだけでは、どれほど叫ぼうと届かん」
父上の声は、どこまでも冷静だった。
「怒りに呑まれ、足の運びも呼吸も忘れた。そんな剣では、目の前の敵どころか、自分の命すら守れない」
分かっていた。
何も考えず、ただ感情をぶつけただけだ。
それでも、その事実を父上の口から突きつけられることが、今は耐えられなかった。
「いいか、レオ」
父上は木剣を下ろし、泥の中で膝をつく僕を見据えた。
「命は一つしかない」
低く、重い声だった。
「死んだら、そこで終わりだ」
冷たい風が、二人の間を吹き抜ける。
「戦場の敵は、お前が【アルケミスト】だからと手加減してはくれない。剣が不得手だからと、待ってもくれない」
その言葉が、胸の奥へ突き刺さる。
「だからこそ、型を身体に刻め。恐怖で頭が止まっても、迷いで心が揺れても、身体だけは動くように」
「……だったら」
気づけば、声が漏れていた。
「だったら、どうすればいいんですか……?」
父上は何も答えない。
その沈黙に耐え切れず、僕は顔を上げた。
「どうすればいいんだよ!」
叫び声が、静かな修練場へ響き渡った。
「僕だって、そんなことは分かってる! 死んだら終わりだってことくらい、分かってるよ!」
父上へこんな口を利いたのは、初めてだった。
それでも、もう止められなかった。
「でも、それならどうして神様は、僕にこんな職業を与えたんだ!」
視界が滲む。
「僕は、お父様のようになりたかった! 剣を持って、魔物や魔族からこの領地を守りたかった! だから信託を受ければ、僕も騎士になれると思っていたのに……!」
広間で笑われたときにも、友人たちの前でも、必死に堪えていた涙が溢れ出した。
「【アルケミスト】なんかで、どうやって戦えばいいんだよ!」
父上は、黙ったまま僕を見つめている。
「剣もまともに振れない。魔法も使えない。こんな力で、戦場になんて出られるわけないじゃないか……!」
涙が頬を伝い、乾いた土の上へ小さな染みを作った。
「僕は……これから、どうすればいいんだよ……」
最後の言葉は、声にすらならなかった。
修練場に、僕の嗚咽だけが響く。
父上はしばらく何も言わなかった。
励ますことも、慰めることもなく、ただ泣きじゃくる僕を見下ろしている。
その表情は、明け方の薄暗い影に隠れ、僕には読み取れなかった。
やがて父上は、手にしていた木剣を壁際の台へ戻した。
「……今日の稽古は終わりだ」
それだけを告げ、僕へ背を向ける。
「頭を冷やせ。明日も同じ時刻に来い」
父上は修練場の出口へ向かって歩き始めた。
「……僕の質問には、答えてくれないんですか」
震える声で尋ねても、父上は振り返らなかった。
規則正しく遠ざかっていく足音が、一度だけ止まる。
けれど、父上は何も言わない。
わずかな沈黙のあと、足音は再び遠ざかり、そのまま聞こえなくなった。
修練場に、一人だけ取り残される。
東の空から昇り始めた朝日が、泥にまみれた僕の身体を照らしていた。
新しい朝を告げる光のはずなのに、少しも温かく感じられない。
『命は一つしかない』
『死んだら、そこで終わりだ』
父上の言葉が、呪いのように耳の奥で繰り返される。
(死んだら、終わり……)
僕は泥の中へ落ちていた自分の木剣を見つめた。
剣では、父上に届かない。
騎士になったテオにも、きっと追いつけない。
では、【アルケミスト】である僕が生き残るには、何が必要なのだろう。
剣を持てない自分にも使える、命を守るための力。
「……そんなもの、本当にあるのかな」
問いかけに答える者は、誰もいない。
朝風が木々を揺らし、葉の擦れる音だけが静かに響いた。
このときの僕は、まだ知らなかった。
その答えが、亡き母の遺した古びた錬金術書の中で、僕に見つけられる日を待っていることを。




