2-6話:三番窓口の洗律(メロディ)
冒険者ギルドの重い扉を押し開けた瞬間、レオは思わず足を止めた。
「がっはっは! 今日は俺のおごりだ! 好きなだけ飲め!」
「おい、その討伐依頼は俺たちが先に見つけたんだぞ!」
「受付のお姉さん、この依頼が終わったら食事でもどう?」
「業務の妨げになりますので、お断りします」
大勢の話し声と笑い声が、入り口に立つレオへ一斉に押し寄せる。
広大な建物の中は、冒険者と職員で溢れ返っていた。
正面には複数の受付窓口が並び、右手の壁際には無数の依頼書が貼られた大きな掲示板が設置されている。
左側には食堂と酒場が併設されており、まだ昼間だというのに、依頼を終えたらしい冒険者たちが木製の杯を打ち合わせていた。
巨大な剣を背負った戦士。
杖を手にした魔法使い。
全身を黒い外套で隠した者。
レオが初めて見る種族の冒険者もいる。
依頼の報酬を巡って言い争う者がいれば、仲間と戦果を喜び合う者もいる。受付職員へ必死に話しかけ、冷静にあしらわれている男までいた。
欲望も、活力も、焦りも、喜びも、何も隠されることなく剥き出しになっている。
ヴァレンタイン家の屋敷とは、何もかもが違った。
(ここが、本当に冒険者ギルド……?)
レオの想像していた冒険者は、もっと規律正しく、静かに依頼を受ける者たちだった。
父の率いる兵士のように、統率された集団を思い浮かべていたのだ。
しかし、目の前にいる冒険者たちはあまりにも自由だった。
受付の順番を待つ者。
掲示板の前で依頼書を吟味する者。
食事を取りながら仲間と作戦を話し合う者。
酔い潰れて机へ突っ伏している者。
それぞれが、自分の意志で動いている。
「邪魔だぞ、新入り!」
「わっ、すみません!」
入り口で立ち尽くしていたレオは、後ろから来た冒険者に追い立てられるように中へ進んだ。
どこへ行けばよいのか分からず、人の波に押される。
(受付……。リサさんは、三番窓口にいるって言ってたよね)
窓口の上に掲げられた番号を目で追う。
一番。
二番。
そして――。
「あった、三番窓口!」
混雑するギルド内で、ようやく知っているものを見つけた。
レオは人にぶつからないよう注意しながら、三番窓口へ向かった。
◆
「あの!」
勢いよく声をかける。
三番窓口の向こう側に座っていた女性が顔を上げた。
「あっ」
眼鏡の奥にある瞳が、柔らかく細められる。
「さっそく来てくれたのね。未来の冒険者くん」
先ほど道を案内してくれたリサだった。
王都の大通りで見たときは革鞄を提げていたが、今は胸元へギルド職員の徽章を着けている。
見知らぬ冒険者ばかりの場所で、知っている笑顔を見つけた。
それだけで、張り詰めていたレオの身体から力が抜けた。
「よ、よかった……」
「そんなに安心した顔をされると、少し照れるわね」
「えっ? あ、いや、その……!」
指摘されて、レオの頬が熱くなる。
リサは口元へ手を添え、楽しそうに笑った。
「ふふっ。冗談よ。それで、今日は冒険者登録でいいのよね?」
「はい。登録をお願いします!」
「承りました。それでは、まずこちらの用紙へ必要事項を記入してね」
リサから羊皮紙と羽ペンを受け取る。
「字は書ける?」
「はい。大丈夫です」
「分からない項目があったら、遠慮なく聞いて。新規登録者を手伝うのも受付の仕事だから」
「ありがとうございます」
レオは窓口脇の記入台へ移動し、羊皮紙を広げた。
用紙には、いくつかの記入欄が並んでいる。
名前。
年齢。
出身地。
職業。
得意分野。
緊急時の連絡先。
レオは羽ペンへインクをつけ、一つずつ書き始めた。
最初に、名前。
『レオ』
そこまで書いたところで、指が止まる。
以前なら、その後へ迷うことなく『ヴァレンタイン』と続けていた。
けれど、父から家名を名乗ることを禁じられた。
今の自分は、辺境伯家の三男ではない。
レオは少し考え、名前の欄には『レオ』とだけ記した。
年齢は十五歳。
出身地には、ヴァレンタイン領と書く。
緊急連絡先の欄では、再び手が止まった。
家族の名前を書くことはできない。
今のレオには、何かあったときに知らせてもらえる相手が一人もいなかった。
空欄のまま次へ進む。
そして――。
【職業】
その項目を見た瞬間、羽ペンを持つ指が動かなくなった。
十歳の信託の儀。
広間へ響いた神官の声。
『《アルケミスト》。戦闘能力、皆無。適性、なし』
親族たちの失笑。
エレオノーラの冷たい眼差し。
『もう、俺たちのところへ来るな!』
テオの拒絶。
すべての記憶が、たった一つの欄から蘇った。
(ここに書いたら、また……)
周囲にいるのは、魔物と戦うことを生業とする冒険者たちだ。
剣士。
騎士。
魔法使い。
弓使い。
その中で《アルケミスト》と名乗れば、何を言われるだろう。
戦えもしないくせに、なぜ冒険者になろうとするのか。
そう笑われるかもしれない。
「どうしたの?」
「っ!」
すぐ隣から声をかけられ、レオの肩が跳ねた。
いつの間にか、リサが記入台の近くまで来ていた。
「ずいぶん悩んでいるようだけど、書き方が分からない項目があった?」
「い、いえ。大丈夫です」
「本当に?」
「はい。書けます」
レオは用紙へ視線を戻した。
職業を偽ることはできない。
それに、ここで自分から《アルケミスト》を否定したら、五年間かけて造った錬金銃まで否定することになる。
レオは羽ペンを握り直した。
震えそうになる指へ力を込め、一文字ずつ記していく。
『アルケミスト』
書き終えた文字を見つめる。
胸の奥で、心臓が嫌な音を立てていた。
◆
「書けました」
「ありがとう。確認するわね」
レオは記入用紙をリサへ差し出した。
リサの視線が、上から順に記載内容を追っていく。
名前。
年齢。
出身地。
空欄の緊急連絡先。
そして職業。
《アルケミスト》の文字を見たところで、その視線が一瞬止まった。
レオは唇を引き結ぶ。
笑われる。
軽蔑される。
あるいは、戦闘職ではない者を登録することはできないと言われる。
何を言われても耐えようと、身構えた。
「錬金術師なのね」
「……はい」
「薬の調合はできる?」
予想していなかった質問だった。
「え?」
「薬草を使った軟膏や、解毒薬の調合。鉱石の選別や、簡単な道具の修理でもいいわ」
「あ……はい。高位のものはまだ無理ですけど、基礎的な調合ならできます。鉱石や素材の性質も、錬金術書で勉強しました」
「それなら、十分仕事になるわ」
リサは当たり前のことのように言った。
「冒険者の仕事は、魔物を倒すことだけではないの。薬草の採取、素材の鑑定、荷物の運搬、道具の製作補助。錬金術の知識が役立つ依頼もたくさんあるわ」
「登録しても……いいんですか?」
思わず尋ねていた。
リサが不思議そうに首を傾げる。
「どうして駄目だと思ったの?」
「だって、《アルケミスト》は戦えない職業だから……」
「戦えない職業であっても、冒険者にはなれるわ」
リサは、はっきりと答えた。
「もちろん、能力に合わない討伐依頼を受けることは認められない。でも、それは《アルケミスト》だからではなく、本人の実力に合わないからよ。戦闘職でも、実力が足りなければ同じこと」
「職業だけで、断らないんですか?」
「ギルドが見るのは、職業の名前ではなく、その人が何をできるか。そして、依頼を最後まで遂行できるかどうかよ」
レオは何も言えなかった。
これまで、職業の名前だけですべてを決められてきた。
戦えない。
役に立たない。
ヴァレンタイン家の恥。
けれど、リサは《アルケミスト》の文字を見ても笑わなかった。
できることは何かと、尋ねてくれた。
それだけのことが、信じられないほど嬉しかった。
「それでは、登録処理をするから、少し待っていてね」
「……はい!」
レオの返事は、先ほどよりも明るくなっていた。
◆
しばらくして、リサが一枚の小さな銅色のプレートを持って戻ってきた。
表面には冒険者ギルドの紋章と、『レオ』という名前が刻まれている。
「お待たせしました」
リサは銅のプレートを両手で差し出した。
「登録手続きは、これですべて完了。たった今から、レオ君はギルド公認の冒険者よ。おめでとう!」
「……え?」
レオは差し出されたプレートではなく、リサの顔を見つめた。
「どうしたの?」
「どうして、僕の名前を……?」
「どうしてって……」
リサが目を瞬く。
レオの胸が、わずかに高鳴った。
自分はまだ、リサへ名前を名乗った覚えがない。
もしかすると、道を歩いているときから自分に興味を持ち、誰かに名前を尋ねてくれていたのだろうか。
あるいは――。
(まさか、僕のことを特別に気にしてくれて……?)
淡い期待が、胸の中で膨らみ始める。
するとリサは、手元に置かれた登録用紙の一番上を指差した。
「ここに『名前・レオ』と書いてあるでしょう?」
「…………」
膨らみかけた期待が、一瞬でしぼんだ。
考えてみれば当たり前だ。
自分で名前を書き、その用紙をリサへ提出したのだから、知られていて当然だった。
(僕は何を期待してたんだ……!)
恥ずかしさで顔が一気に熱くなる。
今すぐ記入台の下へ潜り込み、そのまま消えてしまいたかった。
「レオ君?」
リサが心配そうに顔をのぞき込む。
「顔が真っ赤だけど、熱でもあるの?」
「い、いえ! 何でもありません! 絶好調です!」
「そう? 旅の疲れが残っているんじゃない?」
「本当に大丈夫です!」
必死に否定するレオを見て、リサは少し困ったように笑った。
どうやら、先ほど自分が何を期待していたのかまでは気づかれていないらしい。
レオは安堵しながら、差し出された銅のプレートを受け取った。
小さく、簡素な冒険者証。
貴族の身分を示す銀のプレートとは違う。
父の名も、ヴァレンタイン家の紋章も刻まれていない。
そこにあるのは、冒険者ギルドの紋章と、ただ一つ。
『レオ』
自分の名前だけだった。
「これが、僕の……」
誰かから与えられた家柄の証ではない。
父の信用によって通用する身分証でもない。
レオが自分で望み、手続きを済ませて手に入れた、初めての新しい肩書きだった。
「なくさないようにね。依頼を受けるときも、報酬を受け取るときも必要になるから」
「はい。大切にします」
レオは銅のプレートを、ぎゅっと握り締めた。
「それから、初めての依頼を選ぶときは、無理をしないこと」
リサが人差し指を立てる。
「冒険者になったからといって、急に強くなるわけではないわ。依頼の内容をよく読んで、自分にできるものを選ぶのよ」
「分かりました」
「もし迷ったら、三番窓口まで相談に来て。受付として、ちゃんと手伝ってあげるから」
リサの笑顔を見て、レオの胸が再び少しだけ高鳴る。
今度は妙な勘違いをしないよう、すぐに頭を下げた。
「ありがとうございます、リサさん!」
レオは気づかなかった。
立ち去る少年の背中と、その背負い袋に収められた二つの細長い包みを、リサが静かに見つめていたことに。
用紙に記された《アルケミスト》という職業。
それを恥じながらも、最後には逃げずに書き切った少年。
そして職業を問われたときに見せた、傷ついた表情と、奥に残る強い意志。
「……ただ戦えないだけの錬金術師、ではなさそうね」
リサの小さな呟きは、賑やかなギルドの喧騒へ溶けていった。
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