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【連載版】「青い手の女など要らない」と婚約破棄されたので、御前染めでは新しい婚約者様ご自身の手で夜明け色をお出しください  作者: ろくさんだ


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9/27

夜明け工房

 衣装局の肩書きの話は、ハーゼルへ戻る前に、マグダレーナ夫人ご本人から伺いました。


 夫人の執務室は、書庫の隣にございました。壁一面の棚に、札箱が並んでおります。そのひとつに、わたくしの二十一枚の札が納められているはずでした。


「衣装局御用染め手。王家の布を染める染め手に、衣装局が出す肩書きです。今は空席でございます」


 夫人は、机の上に一枚の任命状を置かれました。染め手の名を書く欄だけが、白いまま空いております。


「あなたの工房の布は、一度の試しで、札のとおりの色を保ちました。肩書きがあれば、王都の呉服屋も、貴族家も、あなたの工房の布を疑いません」


 わたくしは、任命状の白い欄を見ておりました。


 御用染め手。侯爵家の工房にいた三年、わたくしには何の肩書きもございませんでした。婚約者とも、職人とも、染め手とも呼ばれず、布は侯爵家の布でした。


 肩書きがあれば、たしかに楽になるでしょう。


 けれど、わたくしに肩書きが付けば、皆で染めた布まで、肩書きの布になります。工房の皆の手を離れて、衣装局の名の布になる。それでは侯爵家の時と、何が違うのでしょう。


「ありがたいお話でございます。でも、肩書きは要りません」


 夫人は、眉ひとつ動かされませんでした。


「理由を伺っても」


「布は、工房の名で納めとうございます。工房の布を染めたのは、わたくしひとりではございませんので」


 夫人はしばらくわたくしを見ておられましたが、やがて任命状を引き出しに仕舞われました。


「承知しました。では、工房の名を届けてください。札箱の作者欄にも、その名で書き添えます」


◇


 王都からハーゼルへ戻る馬車の中で、ユリウス様がおっしゃいました。


「工房の名を、あなたが決めてくれ」


「わたくしが、でございますか」


「ヴァイトでも、ハーゼルでも、どちらでもない名でも。あなたの名義の工房だ。私が決めることではない」


 馬車の窓の外で、王都の屋根が遠ざかっていきます。夕方の空が、端の方から赤みを失って、群青に沈み始めておりました。


 ヴァイト工房。わたくしの家の名です。けれど、あの工房で染めているのは、わたくしの家の者ではございません。


 ハーゼル工房。この方の領の名です。けれど、それではユリウス様の工房に見えてしまいます。


 二日の道のあいだ、わたくしは考えておりました。


 ハーゼルの長屋に着いたのは、三日目の夜明け前でした。馬車を降りると、川の向こうの空が、ちょうど白み始めております。藍の深いところから、裾へ向かって赤みが差し、白んでいく。


 長屋の戸口に、ハンナが灯りを持って立っておりました。三巡目の水晒しを、夜明けに引き上げる段取りだったのです。


「お帰りなさいまし。今から上げるところです」


 川の杭から、染め手たちが布を引き上げました。流れから上がった八反の裾が、空と同じ色をしておりました。


「ユリウス様」


「うん」


「夜明け工房、といたします」


 ユリウス様は、川の方を見て、それから、わたくしの顔を見られました。


「いい名だ」


「それから、衣装局の札箱の作者欄には、わたくしの名だけでなく、染め手の皆の名も並べて書きとうございます。ハンナ、グレーテ、ミア、ベルタ、ローザ、アンナ、カティ、ゾフィー、リーナ、エマ。十人分」


 竿の前で、ハンナが振り返りました。


「あたしらの名を、ですか。王家の書庫に」


「ハンナの甕の布が、王家の婚礼に出ますので。染めた方の名を書かないのは、侯爵家のやり方でございます」


 ハンナは、何も言わずに、自分の赤い筋の残る手を見下ろしておりました。


 その晩、長屋の板の間で、ハンナがわたくしを呼び止めました。


「リーゼロッテ様。ひとつ、頼んでもいいですか」


「どうぞ」


「書庫に、あたしの名前を書くんでしょう。その字を、あたしに教えてもらえませんか。自分の名前くらい、自分で書けるようになりたい」


 ハンナの後ろに、ベルタとローザとカティが並んでおりました。字の読めない四人です。


「あたしらも」


 カティが言いました。


 わたくしは、絵札を描くときの板と墨を出しました。まだ長屋に残っていたグレーテとミアも、灯りを寄せてくれました。


 板に、大きく「ハンナ」と書きます。三つの字。ハンナは、それを指でなぞってから、自分で筆を取りました。


 一字目が、板の端からはみ出しました。


「大きすぎますね」


「刻みより難しい」


「刻みも、最初は九本数え損ねる方がいらっしゃいました」


 ハンナは笑って、二度目を書きました。今度は板に収まりましたが、二字目が少し傾いております。三度目で、三つの字が並びました。


 ベルタは五度目で、ローザは四度目で、カティは七度目で、自分の名を書きました。


 灯りが短くなるまで、四人は板の上で、自分の名前を何度も書いておりました。


 翌朝、衣装局へ送る工房の届けに、染め手十人の名を並べました。字の読める六人は、それぞれ自分で書きました。ハンナとベルタとローザとカティの名も、四人がそれぞれ自分の手で書きました。


 少し傾いた字でした。けれど、誰の字か、一目で分かる字でございました。


◇


 残りは三巡、二十四反でした。


 判定の朝からハーゼルへ戻るまでのあいだに、わたくしは一枚、札を書き足しておりました。


『予備の甕を建てておく』


 藍は、建てるのに五日かかります。甕がひとつ割れたら、新しく建て直すまで、その甕の布は五日止まります。残り三巡では、五日の遅れは取り戻せません。


 でしたら、割れる前に、建てておけばよろしいのです。


 八十六日目、ハンナが九つ目の甕に藍を仕込みました。どの甕の代わりにもなるように、長屋の端に据えて、毎朝ほかの甕と同じように手を沈めて温みを見ます。


「使わないかもしれない甕に、毎朝手を入れるんですか」


 ミアが尋ねました。


「使わなければ、それがいちばんよろしいのです」


 九十一日目の朝でした。


 四つ目の甕から、ぴしり、と乾いた音がいたしました。


 夜のうちに冷え込んで、甕の胴に細いひびが入っていたのです。ひびから藍がしみ出して、石の床に青い筋を作っておりました。


「布を上げて!」


 ハンナの指図で、甕の中の布が引き上げられました。七度目の藍を終えたところの布です。


 わたくしは、長屋の端の九つ目の甕へ向かいました。蓋を取り、手首まで沈めます。十数えて、温みは逃げません。泡は紫。五日前から、毎朝見てきた甕です。


「建っております。八度目から、こちらで続けます」


 七度目までの布は、九つ目の甕で八度目、九度目と続けて、何事もなかったように藍を上げました。


 遅れは、半日もございませんでした。


 ティモが、その日の夕方、札の束の裏に何か書きつけておりました。覗いてみると、衣装局への報せの下書きでした。追記の札あり、予備の甕、九十一日目に使用、遅れなし。


◇


 九十七日目の夕方、四十八反目が水晒しを終えました。


 最後の一反は、ミアの甕の布でした。一巡目に茶碗の大きさで橙に転んで、精練からやり直した、あの子の甕です。


 ティモが、札の束を手に、最後の一反を一工程ずつ照らし合わせていきます。精練。藍九度。藍止め。茜。媒染三度、工房の茶碗で。仕上げ浸し、裾から膝の高さまで。水晒し三日。


 ティモは、札の束を閉じました。


「全部、札のとおりです」


 長屋の中で、誰かが声を上げて、それから皆が笑いました。ミアは泣いておりました。ハンナは、ミアの頭を大きな赤い手で一度だけ撫でて、それからまた竿の布を見上げておりました。


 四十八反。百日の発注に、三日を残して揃いました。


 その同じ週、王都では、グラーフェン侯爵家の十一反が競りにかけられたそうです。


 商会に持ち込んでも買い手のつかなかった布を、侯爵家は、御用達を失った商会の穴埋めに、競り市へ出したのだとか。競りの札には、作者の欄がございませんでした。作者不明の藍布、十一反。


 落札額は、十一反で金貨二十二枚でした。


 四十八反の代価は、一反につき金貨四十枚でございます。


◇


 翌朝、ティモが残り四十反を荷馬車に積んでいるところへ、衣装局からの早馬が着きました。


 青い封蝋の書状は、わたくし宛てでした。夜明け工房、リーゼロッテ・ヴァイト殿、とございます。


 工房の名が、初めて宛名に書かれておりました。


 書状を開くと、マグダレーナ夫人の几帳面な字が並んでおります。第二王女殿下のご婚礼の式次第について。そのうちの一行に、目が留まりました。


『婚礼の式において、殿下のご衣装の布の作者を、名をもって読み上げる』


(第10話へ続く)

今回登場した予備の甕は、器をひとつ余分に置くだけでは役に立ちません。作中では、藍を仕込んで待つあいだも、ほかの甕と同じように毎朝の温みを確かめています。使わない日にも手をかけておくことが、布を止めずに染め続ける備えになるのでございます。

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