夜明け工房
衣装局の肩書きの話は、ハーゼルへ戻る前に、マグダレーナ夫人ご本人から伺いました。
夫人の執務室は、書庫の隣にございました。壁一面の棚に、札箱が並んでおります。そのひとつに、わたくしの二十一枚の札が納められているはずでした。
「衣装局御用染め手。王家の布を染める染め手に、衣装局が出す肩書きです。今は空席でございます」
夫人は、机の上に一枚の任命状を置かれました。染め手の名を書く欄だけが、白いまま空いております。
「あなたの工房の布は、一度の試しで、札のとおりの色を保ちました。肩書きがあれば、王都の呉服屋も、貴族家も、あなたの工房の布を疑いません」
わたくしは、任命状の白い欄を見ておりました。
御用染め手。侯爵家の工房にいた三年、わたくしには何の肩書きもございませんでした。婚約者とも、職人とも、染め手とも呼ばれず、布は侯爵家の布でした。
肩書きがあれば、たしかに楽になるでしょう。
けれど、わたくしに肩書きが付けば、皆で染めた布まで、肩書きの布になります。工房の皆の手を離れて、衣装局の名の布になる。それでは侯爵家の時と、何が違うのでしょう。
「ありがたいお話でございます。でも、肩書きは要りません」
夫人は、眉ひとつ動かされませんでした。
「理由を伺っても」
「布は、工房の名で納めとうございます。工房の布を染めたのは、わたくしひとりではございませんので」
夫人はしばらくわたくしを見ておられましたが、やがて任命状を引き出しに仕舞われました。
「承知しました。では、工房の名を届けてください。札箱の作者欄にも、その名で書き添えます」
◇
王都からハーゼルへ戻る馬車の中で、ユリウス様がおっしゃいました。
「工房の名を、あなたが決めてくれ」
「わたくしが、でございますか」
「ヴァイトでも、ハーゼルでも、どちらでもない名でも。あなたの名義の工房だ。私が決めることではない」
馬車の窓の外で、王都の屋根が遠ざかっていきます。夕方の空が、端の方から赤みを失って、群青に沈み始めておりました。
ヴァイト工房。わたくしの家の名です。けれど、あの工房で染めているのは、わたくしの家の者ではございません。
ハーゼル工房。この方の領の名です。けれど、それではユリウス様の工房に見えてしまいます。
二日の道のあいだ、わたくしは考えておりました。
ハーゼルの長屋に着いたのは、三日目の夜明け前でした。馬車を降りると、川の向こうの空が、ちょうど白み始めております。藍の深いところから、裾へ向かって赤みが差し、白んでいく。
長屋の戸口に、ハンナが灯りを持って立っておりました。三巡目の水晒しを、夜明けに引き上げる段取りだったのです。
「お帰りなさいまし。今から上げるところです」
川の杭から、染め手たちが布を引き上げました。流れから上がった八反の裾が、空と同じ色をしておりました。
「ユリウス様」
「うん」
「夜明け工房、といたします」
ユリウス様は、川の方を見て、それから、わたくしの顔を見られました。
「いい名だ」
「それから、衣装局の札箱の作者欄には、わたくしの名だけでなく、染め手の皆の名も並べて書きとうございます。ハンナ、グレーテ、ミア、ベルタ、ローザ、アンナ、カティ、ゾフィー、リーナ、エマ。十人分」
竿の前で、ハンナが振り返りました。
「あたしらの名を、ですか。王家の書庫に」
「ハンナの甕の布が、王家の婚礼に出ますので。染めた方の名を書かないのは、侯爵家のやり方でございます」
ハンナは、何も言わずに、自分の赤い筋の残る手を見下ろしておりました。
その晩、長屋の板の間で、ハンナがわたくしを呼び止めました。
「リーゼロッテ様。ひとつ、頼んでもいいですか」
「どうぞ」
「書庫に、あたしの名前を書くんでしょう。その字を、あたしに教えてもらえませんか。自分の名前くらい、自分で書けるようになりたい」
ハンナの後ろに、ベルタとローザとカティが並んでおりました。字の読めない四人です。
「あたしらも」
カティが言いました。
わたくしは、絵札を描くときの板と墨を出しました。まだ長屋に残っていたグレーテとミアも、灯りを寄せてくれました。
板に、大きく「ハンナ」と書きます。三つの字。ハンナは、それを指でなぞってから、自分で筆を取りました。
一字目が、板の端からはみ出しました。
「大きすぎますね」
「刻みより難しい」
「刻みも、最初は九本数え損ねる方がいらっしゃいました」
ハンナは笑って、二度目を書きました。今度は板に収まりましたが、二字目が少し傾いております。三度目で、三つの字が並びました。
ベルタは五度目で、ローザは四度目で、カティは七度目で、自分の名を書きました。
灯りが短くなるまで、四人は板の上で、自分の名前を何度も書いておりました。
翌朝、衣装局へ送る工房の届けに、染め手十人の名を並べました。字の読める六人は、それぞれ自分で書きました。ハンナとベルタとローザとカティの名も、四人がそれぞれ自分の手で書きました。
少し傾いた字でした。けれど、誰の字か、一目で分かる字でございました。
◇
残りは三巡、二十四反でした。
判定の朝からハーゼルへ戻るまでのあいだに、わたくしは一枚、札を書き足しておりました。
『予備の甕を建てておく』
藍は、建てるのに五日かかります。甕がひとつ割れたら、新しく建て直すまで、その甕の布は五日止まります。残り三巡では、五日の遅れは取り戻せません。
でしたら、割れる前に、建てておけばよろしいのです。
八十六日目、ハンナが九つ目の甕に藍を仕込みました。どの甕の代わりにもなるように、長屋の端に据えて、毎朝ほかの甕と同じように手を沈めて温みを見ます。
「使わないかもしれない甕に、毎朝手を入れるんですか」
ミアが尋ねました。
「使わなければ、それがいちばんよろしいのです」
九十一日目の朝でした。
四つ目の甕から、ぴしり、と乾いた音がいたしました。
夜のうちに冷え込んで、甕の胴に細いひびが入っていたのです。ひびから藍がしみ出して、石の床に青い筋を作っておりました。
「布を上げて!」
ハンナの指図で、甕の中の布が引き上げられました。七度目の藍を終えたところの布です。
わたくしは、長屋の端の九つ目の甕へ向かいました。蓋を取り、手首まで沈めます。十数えて、温みは逃げません。泡は紫。五日前から、毎朝見てきた甕です。
「建っております。八度目から、こちらで続けます」
七度目までの布は、九つ目の甕で八度目、九度目と続けて、何事もなかったように藍を上げました。
遅れは、半日もございませんでした。
ティモが、その日の夕方、札の束の裏に何か書きつけておりました。覗いてみると、衣装局への報せの下書きでした。追記の札あり、予備の甕、九十一日目に使用、遅れなし。
◇
九十七日目の夕方、四十八反目が水晒しを終えました。
最後の一反は、ミアの甕の布でした。一巡目に茶碗の大きさで橙に転んで、精練からやり直した、あの子の甕です。
ティモが、札の束を手に、最後の一反を一工程ずつ照らし合わせていきます。精練。藍九度。藍止め。茜。媒染三度、工房の茶碗で。仕上げ浸し、裾から膝の高さまで。水晒し三日。
ティモは、札の束を閉じました。
「全部、札のとおりです」
長屋の中で、誰かが声を上げて、それから皆が笑いました。ミアは泣いておりました。ハンナは、ミアの頭を大きな赤い手で一度だけ撫でて、それからまた竿の布を見上げておりました。
四十八反。百日の発注に、三日を残して揃いました。
その同じ週、王都では、グラーフェン侯爵家の十一反が競りにかけられたそうです。
商会に持ち込んでも買い手のつかなかった布を、侯爵家は、御用達を失った商会の穴埋めに、競り市へ出したのだとか。競りの札には、作者の欄がございませんでした。作者不明の藍布、十一反。
落札額は、十一反で金貨二十二枚でした。
四十八反の代価は、一反につき金貨四十枚でございます。
◇
翌朝、ティモが残り四十反を荷馬車に積んでいるところへ、衣装局からの早馬が着きました。
青い封蝋の書状は、わたくし宛てでした。夜明け工房、リーゼロッテ・ヴァイト殿、とございます。
工房の名が、初めて宛名に書かれておりました。
書状を開くと、マグダレーナ夫人の几帳面な字が並んでおります。第二王女殿下のご婚礼の式次第について。そのうちの一行に、目が留まりました。
『婚礼の式において、殿下のご衣装の布の作者を、名をもって読み上げる』
(第10話へ続く)
今回登場した予備の甕は、器をひとつ余分に置くだけでは役に立ちません。作中では、藍を仕込んで待つあいだも、ほかの甕と同じように毎朝の温みを確かめています。使わない日にも手をかけておくことが、布を止めずに染め続ける備えになるのでございます。




