名を読み上げる日
第二王女殿下のご婚礼は、四十八反を納めてから十二日後、冬の初めの晴れた朝でした。
夜明け工房の染め手十人は、その三日前にハーゼルを発ちました。王都へ来るのは、皆、初めてでございます。
「石の道ばっかりだ。土がない」
王都の門をくぐったとき、ハンナが荷馬車の上で言いました。ミアは道の両側の店の看板を、ひとつ残らず声に出して読んでおりました。
大聖堂の回廊の端、柱の陰に、衣装局が染め手のための席を用意してくださいました。席といっても、立ち見の場所です。けれど、殿下のご衣装が通る道が、真正面に見えます。
姉と父も、隣におりました。
「リーゼ、あなた手袋は」
「いたしません」
「そうよね。聞いてみただけ」
姉はそう言って、わたくしの青い手を、自分の手で一度だけ握りました。
式の始まる前、回廊の柱の陰に、ティモが駆けてまいりました。衣装局の見習いの青い上着を着て、髪をきちんと撫でつけております。
「リーゼロッテ様。審査長が、これを」
差し出されたのは、細長い木の札でした。工程札と同じ大きさの、白木の札です。表に、衣装局の印と、短い一行。
『夜明け工房 染め手一同 回廊東列』
「席の札です。これがあれば、回廊の東の列に立てます。審査長が、ご自分で書いたんです」
「ありがとうございます。審査長に、よろしくお伝えくださいませ」
「審査長は、今日は祭壇の脇です。布奉行の隣」
ティモは、そう言ってから、少しためらうように自分の手を見下ろしました。爪の際が、ハーゼルに来る前より、ずっと青くなっております。
「僕、ハーゼルで百日、札と布を照らし合わせてきました。四十八反、全部」
「存じております」
「一反も、札と違うところがなかったんです。十人が染めて、一反も」
ティモは、顔を上げました。
「手順さえ守れば誰でも同じ色が出せるって、審査長は御前染めのときに言いました。僕、あれは、僕ひとりのことだと思ってたんです。僕が札のとおりにやったから、同じ色が出たって。でも、十人でも同じでした」
「十人でも、百人でも、同じでございます。札のとおりでしたら」
「百人」
ティモは、その数を口の中で繰り返して、少し笑いました。
「そんな工房、見てみたいです」
それだけ言って、ティモは祭壇の方へ駆け戻っていきました。
わたくしは、白木の札をハンナに渡しました。ハンナは、札の字は読めません。けれど、一行目の「夜明け工房」の四つの字の形だけは、ハーゼルを発つ前の晩に、板の上で覚えておりました。
「あたしらの工房の名だ」
ハンナは、札を両手で胸の前に持って、東の列の先頭に立ちました。
◇
鐘が鳴り、回廊の扉が開きました。
最初に、随員の方々が二列になって進んでこられます。四十反の暁染めで仕立てた衣装です。肩は深い藍、裾へ向かうほど赤みが差し、白んでいく。二十人の衣装が、回廊の窓から差す朝の光の中を、ひとつの夜明けのように通っていきました。
「あれ、あたしの甕のだ」
ベルタが、口を押さえて囁きました。
「どうして分かるの」
「裾の赤みが、膝のところで止まってる。仕上げ浸しの札どおり」
「全部そうでしょう」
「……全部そうだね」
随員の列が過ぎると、回廊の空気が、ひとつ深く沈みました。
第二王女殿下が、お見えになりました。
八反の暁染めで仕立てたご衣装は、肩から胸へ、夜のいちばん深い藍。腰から下へ、紫が差し、赤みに寄り、裾は、ほとんど白に近い淡い光の色。長い引き裾が石の床を滑るたびに、回廊に、夜明けがもう一度通っていくようでございました。
婚礼の八反は、五十八日目に、ハンナの甕とミアの甕と、ほかの六つの甕から上がった布でした。
わたくしの隣で、ハンナが、息を止めておりました。
◇
式次第の読み上げは、聖堂の祭壇の前で、衣装局の布奉行が務められました。
殿下のご衣装について。仕立て、王室衣装局。刺繍、王都の刺繍工房。それから。
「染め」
布奉行は、手元の紙から顔を上げて、聖堂の隅々まで届く声で読み上げられました。
「ハーゼル領、夜明け工房。リーゼロッテ・ヴァイト」
三年間、どの書類にも書かれなかった名前でした。
侯爵家の工房の布は、侯爵家の布でした。昨年の春の夜会で一反が広げられたときも、拍手は起こりましたが、誰も作者の名を尋ねませんでした。
その名前が、王家の婚礼の式で、声に出して読まれております。
布奉行は、続けられました。
「染め手。ハンナ。グレーテ。ミア。ベルタ。ローザ。アンナ。カティ。ゾフィー。リーナ。エマ」
十人の名が、ひとつずつ、聖堂の高い天井に響きました。
ハンナが、大きな赤い手で口元を覆っておりました。ハーゼルで雇った日に字の読めなかった四人は、自分の名の字だけは書けるようになりました。けれど、布奉行の手元の式次第は、まだ読めません。それでも、読み上げられた名は、聞こえます。
「……あたしの名前だ」
ハンナが言いました。誰に言うでもなく、もう一度。
「あたしの名前が、王家の式で」
ミアは、ハンナの袖を掴んで泣いておりました。グレーテも、ローザも、カティも。泣いていないのはエマだけで、エマは、天井を見上げて、読み上げられた順番を指で数えておりました。
わたくしは、泣きませんでした。泣く手順を、まだ思い出せなかったのです。
◇
式が終わり、聖堂の前の広場に人が溢れました。
王都の呉服屋の主人たちが、夜明け工房はどこにあるのかと、衣装局の役人に尋ねて回っております。ハーゼル領の名が、広場のあちこちで聞こえました。
姉が、人混みの中でわたくしの耳元に囁きました。
「父上が数えたのよ。グラーフェン家と組合が、この半年で失った金貨。御前染めの千五百枚。組合の返金と違約金で二千六百三十六枚。灰の買い占めで百二十枚。メルツ家の賠償が百五十枚。合わせて四千四百六枚ですって」
「父上は、そういうことだけはお早いのですね」
「御用達の資格は、残り九年と八か月。それから、セドリック様のお手当は、もう一枚も出ないそうよ」
姉はそれだけ言って、ハンナたちの方へ行ってしまいました。
広場の端の、噴水の縁に、ユリウス様が立っておられました。
わたくしが近づくと、ユリウス様は上着の内から、一枚の紙を出されました。四つに畳まれた、白い紙です。
「約束したことを、覚えているか」
「はい。届けは、婚礼の布を納めてから」
「四十八反は、納めた」
ユリウス様は、畳んだ紙を差し出したまま、開きはなさいませんでした。
「婚約の届けを、出してもいいか」
この方は、ハーゼルに着いた朝から、一度も急かされませんでした。工房の場所も、甕の並びも、灰のことも、セドリック様への答えも、工房の名も、全部わたくしに尋ねて、わたくしが答えるのを待っておられました。
わたくしは、紙を受け取りました。
自分で広げます。噴水の縁に紙を置いて、上着の物入れから、工程札を書くときのペンを出しました。
届けの欄は、二つございました。
わたくしは、先に、自分の名を書きました。リーゼロッテ・ヴァイト。藍の染みた指で、一字ずつ。
それから、ペンをユリウス様に差し出しました。
「わたくしが選びました。次は、あなたのお名前を」
ユリウス様は、ペンを受け取る前に、わたくしの手を見ておられました。
「手に触れても?」
「どうぞ」
ペンと一緒に、ユリウス様はわたくしの青い手を一度だけ包んで、それから離して、隣の欄に名を書かれました。ユリウス・ハーゼル。
インクが乾くまで、二人で噴水の縁に座っておりました。
◇
ハーゼルへ戻って五日目、衣装局からの書状が届きました。
マグダレーナ夫人の字ではなく、書庫の司書の、小さく揃った字でございました。
十年の剥奪のあいだ、グラーフェン家の商会が受けていた王都の注文は、宙に浮いたままです。御用達の資格を持つ染めの家が、王都にひとつ欠けている。その穴を、まだどの工房も埋めておりません。
書状の最後に、こうございました。
『暁染めの工程札の閲覧を、他領の染め手に許したい。作者の同意を求めます』
(第11話へ続く)
書いたばかりの紙をすぐに畳むと、向かい合う面にインクが移ることがございます。噴水の縁で乾くのを待つ二人には、そんな紙とインクの都合もありました。名を書くのは一人ずつでも、乾くのは一緒に待てるのですね。お読みいただきありがとうございます。
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