三本の竿
審問から十日後の朝、衣装局の中庭に、竿が三本立てられました。
御前染めの仮小屋があった場所です。甕は片付けられ、石畳の上に、背丈の倍ほどの竿が日の当たる向きに並んでおります。
一本目の竿は、組合の布三反。王都の店先に積まれていた暁染めを、クレーマー様ご自身が三反、荷車で運び込まれました。
二本目は、組合の三反とは分けて、ハーゼルの工房の布一反。一巡目の竿から、ハンナが選んだ一反です。どれを出すか尋ねたら、「どれでも同じです、札のとおりだから」と言われて、結局いちばん手前の甕のものになりました。
三本目は、ティモの布でした。
「審査長に言われて、この十日で染めました。書庫の札だけで」
ティモは、竿の根元で袖を下ろしながら言いました。
「茶碗の追記も、灰汁の見立て札も、写しが書庫に届いてました。だから、それも入れて」
三本の竿に、五反の布が下がりました。
壇の上で、マグダレーナ夫人が砂時計を返されました。
「色止め試しを始めます。一日目から七日目まで日晒し。その間、四日目、五日目、六日目に水洗いを一度ずつ。洗った布は、その都度ふたたび竿に掛けます。布には誰も触れてはなりません。触れてよいのは、衣装局の者だけです」
中庭の端には、見物の人垣ができておりました。リンデン伯爵家の方々。王都の呉服屋の主人たち。組合の布を買った家の使いの者。
その人垣の後ろ、門の格子の外に、薄紅のドレスがひとつ見えました。
オフィーリア様でした。衣装局への出入りを禁じられている方です。門番の前で何かおっしゃっていましたが、門番は首を横に振るばかりで、格子は開きませんでした。
◇
一日目は、よく晴れておりました。
日が高くなるにつれて、組合の三反の裾が、少しずつ明るくなっていきました。白むのではございません。抜けていくのです。
暁染めの裾の赤みは、茜を三度の灰汁媒染で布に留めたものです。媒染が足りなければ、茜は布の上に乗っているだけで、日に当たると先に飛んでしまいます。
二日目の夕方には、組合の布の裾から、赤みがほとんど消えておりました。残っているのは、浅い藍だけ。夜明けの空ではなく、昼過ぎの曇り空の色です。
「審査長、これは日の当たり方が」
クレーマー様が、壇の前に進み出られました。
「三本とも、同じ向きに立てております。竿の高さも同じです」
夫人は、それだけおっしゃいました。
ヴァイト工房の布と、ティモの布は、二日目も、三日目も、竿に掛けた朝と同じ色でございました。裾へ向かって、空が白んでいく。
三日目の日暮れ、組合の三反は、白茶けた薄青になっておりました。
見物の人垣の中で、組合の布を買った家の使いの者が、隣の者と何か囁き合っておりました。そのうちの一人が、そっと人垣を抜けて、門の方へ走っていきました。
試しのあいだ、わたくしは王都の外れの実家に泊まっておりました。
三日目の晩、納屋の前の井戸端で手を洗っていると、父が封書を一通持ってまいりました。
「ハーゼルからだ。伯爵の早馬が運んできた」
封を切ると、几帳面な小さな字が並んでおります。グレーテの字でした。
『リーゼロッテ様。三巡目、藍九度まで済みました。八つの甕とも、札のとおり。ハンナが、刻みを押さえる手が足りないと言うので、エマが二つの甕を受け持っています。茶碗は一つも割れていません。ハンナから伝言です。「こっちは心配いらないから、竿の前で、ちゃんと最後まで見てきてください」』
手紙の端に、刻みが九本、墨で引いてありました。字の書けないハンナが、自分で引いたのでしょう。
「いい職人を雇ったな」
父が、手紙を覗き込んでおっしゃいました。
「わたくしが雇ったのではございません。あの方たちが、来ると決めたのです」
「同じことだろう」
「いいえ、父上」
父は笑って、母屋へ戻っていかれました。
入れ替わりに、門の外に馬の蹄の音がいたしました。ユリウス様でした。王都の宿から、わざわざ回ってこられたようです。
「ハーゼルから、手紙が届いただろう」
「はい。三巡目は、札のとおりだそうです」
「そうか」
ユリウス様は、門の外から中へは入ってこられませんでした。
「明日は水洗いだな。明日も、竿の前で隣に立ってもいいか」
「この三日、毎朝同じことをお尋ねでした」
「毎朝、あなたの答えが変わるかもしれない」
わたくしは、少し考えてから答えました。
「明日からは、尋ねていただかなくても結構でございます。竿の前の隣は、ユリウス様の場所にいたしましょう」
ユリウス様は、しばらく黙っておられました。それから、帽子のつばに手をやって、ひとこと。
「ありがとう。では、明日」
去っていく背中を見送ってから、わたくしは自分の言ったことを思い返して、井戸の水をもう一度手にかけました。顔が熱いのは、きっと三日の日晒しのせいでございます。
◇
四日目の朝は、日晒しの前に水洗いでした。
衣装局の下働きが、中庭に桶を三つ並べ、井戸から汲んだ水を張ります。布を一反ずつ竿から下ろし、桶に沈めて、決まった数だけ揺すります。洗い終えた布は、ふたたび竿に掛けて日に晒します。
最初に、組合の布が沈められました。
水が、青くなりました。
桶の底まで、透けて見えていた水が、布を揺するたびに濁っていきます。十も揺すらないうちに、桶は藍甕のような色になっておりました。
人垣が、ざわめきました。
続いて、ヴァイト工房の布。水は、澄んだままでした。最後にティモの布。これも、澄んだまま。
夫人は、三つの桶を壇の上から見比べてから、審査官のひとりに何か書き留めさせました。
「審査長」
クレーマー様の声が、少し上ずっておりました。
「藍は落ちるものだ。どの布も、最初の水洗いでは多少は落ちる」
「ヴァイトの布と見習いの布は、落ちておりません」
「それは……」
クレーマー様は、言葉を探しておられるようでした。
わたくしには、桶の色の理由が分かっておりました。
藍は、九度重ねて、一度ごとに風に当てることで、布の奥へ留まります。五度で止めれば、色は浅くなる。浅い色を濃く見せようとすれば、一度に長く浸けるしかございません。長く浸けた布は、糸の奥ではなく、表に余分な藍を抱えたまま上がります。
その余分を抜くのが、水晒しの三日です。流れのある水に一日ずつ預けて、留まらなかった藍を川へ流してしまう。
組合の布は、藍を五度で止めて、水晒しを省いておりました。余分な藍を抱えたまま、店先に積まれていたのです。雨の日の聖堂で、花嫁の手袋に移ったのは、その余分でした。
わたくしは、それを誰にも申しませんでした。申す必要が、ございません。桶の水が、もう申しておりますもの。
五日目の水洗いで、組合の布の桶は、また青く濁りました。四日目ほどではございませんが、白い桶の底は見えません。
六日目の三度目で、ようやく桶の底が透けました。そのときには、組合の三反は、竿に掛けた朝とは別の布になっておりました。藍は薄れ、茜は抜け、ところどころ斑に白い。
ヴァイト工房の布と、ティモの布の桶は、三度とも澄んだままでした。
◇
七日目は、朝から日に当てて乾かしました。
昼過ぎ、乾いた五反が竿に並びます。
見物の人垣は、初日の倍ほどに膨らんでおりました。噂を聞きつけた呉服屋や、組合の布を買った家の当主までが、ご自分で足を運んでおられます。
ティモが竿の根元で、自分の布を見上げておりました。
「僕の布と、リーゼロッテ様の工房の布。並べると、同じ色ですね」
「札が同じでございますので」
「茶碗の一行がなかったら、たぶん僕の布も、橙に転んでました。衣装局でも、追記どおり同じ茶碗ひとつで量りました」
ティモはそう言って、少し笑いました。
門の格子の外には、七日間、薄紅のドレスが立っておりました。一日目は門番に何かおっしゃって、二日目からは、格子の外で人垣の背中を眺めておいででした。
格子は、一度も開きませんでした。誰も、中へ入れてはおりません。
セドリック様は、一度もお見えになりませんでした。
日が傾き始めた頃、マグダレーナ夫人が壇から降りられました。
夫人は、三本の竿の前を、一本ずつ、規則どおりの歩幅で歩かれました。組合の三反。ヴァイト工房の一反。ティモの一反。その順に、それぞれの裾を、指先で一度ずつ撫でて、壇に戻られます。
中庭が、しんとしておりました。
「判定は明朝、処分とあわせて読み上げます」
夫人がそうおっしゃったとき、衣装局の塔で、夕刻の鐘が鳴り始めました。
クレーマー様は、鐘が鳴り終わるまで、白茶けた三反の前から動かれませんでした。
(第8話へ続く)
作中の色止め試しでは、竿の高さや向きだけでなく、水の中で布を揺する回数も揃えております。布そのものの違いを見るためには、試す側の手加減が紛れ込まないことも大切なのです。三本の竿をご覧になる際は、布を扱う人たちの手順にも、少し目を留めていただけましたら。




