ご自分の手で
ティモが王都から戻ってきたのは、婚礼の八反を届けて四日後の夕方でした。
荷馬車から飛び降りるなり、衣装局の青い封蝋の書状を差し出します。
「審査長からです。リンデン伯爵家が、衣装局に訴え出ました」
姉の話で、雨の聖堂のことは知っておりました。青い手の花嫁。そう囁かれたエルザ様のお父上が、黙っていらっしゃるはずもございません。
書状は、短いものでした。
『暁染めの作者リーゼロッテ・ヴァイト殿。リンデン伯爵家より、暁染めの名で買い求めた布の色が落ちたとの申し立てあり。作者として、自ら染めた布一反を持参のうえ、衣装局まで出頭されたし』
「わたくしが、呼ばれたのでございますか」
「作者だからです。訴えられたのは、リーゼロッテ様じゃありません」
ティモはそう言ってから、少し言い直しました。
「リーゼロッテ様を訴えた人は、誰もいないです。リンデン伯爵家は、衣装局に聞いたんです。書庫に作者の名と一緒に札が納めてある布なのに、どうして色が落ちるのかって」
長屋の板の間で、ハンナが腕を組んでおりました。
「行ってらっしゃいまし。三巡目は、札があればあたしらで回せます」
「ハンナ」
「刻みを押さえるだけでしょう。いちばん難しいって、言ってたやつを」
わたくしは、三巡目の段取りを絵札の端に描き足して、ハンナに預けました。ユリウス様は、その様子を戸口で見ておられました。
「王都まで、同行してもいいか」
「お願いいたします」
◇
王都まで、馬車で二日かかりました。
衣装局の広間には、御前染めの審査場と同じように、正面の壇に審査官が三名並んでおりました。中央に、マグダレーナ・ロス夫人。白髪をきっちりと結い上げたお姿は、御前染めの日と少しも変わりません。
壇の前の卓に、白い絹の手袋が一対、置かれておりました。指先から手首まで、まだらに青く染まっております。
その脇に、リンデン伯爵ご本人が立っておられました。
「娘は婚礼の席で、青い手の花嫁と呼ばれた。この布を売った者の名を、衣装局はどう考えておられるのか」
夫人は手袋に目を落とし、それから、手元の規則集を開かれました。
「規則を読み上げます」
広間の端まで届く、大きくはない声でした。
「暁染めの名は、作者リーゼロッテ・ヴァイトの工程札とともに、衣装局の書庫に納められております。衣装局の書庫に工程札の納められた染めの名で布を売る者は、その布が札のとおりの色を保つことを示さねばなりません」
夫人は、頁をめくられました。
「よって、暁染めの名で売られた布は、すべて売り手が自ら持参し、衣装局の中庭で公開の色止め試しを受けること。日晒し七日、水洗い三度。作者の布も、同じ竿に並べます」
広間の後ろの方で、誰かが咳払いをいたしました。銀の徽章の男。クレーマー様でした。
「審査長。組合の布が暁染めでないと、まだ決まったわけでは」
「ええ、決まっておりません。ですから試すのです。布は嘘をつきませんが、人はつきます。だから手で確かめます」
夫人は、わたくしの方を向かれました。
「ヴァイト嬢。作者として、ご自分の布を一反、竿に出していただけますか」
わたくしが求められたのは、それだけでした。誰かを訴えることも、組合の布を検めることも、求められてはおりません。
「かしこまりました。ハーゼルの工房の布を、一反お出しいたします」
「試しは十日後から。売り手には、それまでに布を持参させます」
夫人は規則集を閉じ、壇の上で砂時計をひとつ返されました。御前染めの朝と、同じ仕草でした。
衣装局を出たところで、リンデン伯爵に呼び止められました。
「ヴァイト嬢。少しだけいいか」
「どうぞ」
「娘の手袋のことで、あなたを恨む筋合いはないと分かっている。だが、ひとつ聞いておきたい。本物の暁染めは、雨で落ちないのか」
「落ちません。藍を九度重ね、一度ごとに風に当て、最後に流れのある水に三日預けます。そこで落ちる分は、先に川へ流してしまいますので」
伯爵は、しばらく黙っておられました。
「娘は、本物を着たつもりで、石段を上がった」
「存じております」
わたくしは、それ以上は申しませんでした。売った方の名も、偽物という言葉も、口にはいたしませんでした。それを決めるのは、十日後の竿でございます。
伯爵は一礼して、去っていかれました。
◇
帰りの馬車で、ユリウス様は長いこと窓の外を見ておられました。
「さっき、何か言いたそうでいらっしゃいました」
「分かったか」
「ずっと、手帳を開いたり閉じたりなさっておいででしたので」
ユリウス様は、膝の上の手帳を閉じて、わたくしの方を向かれました。
「あなたは、怒らないのか。あなたの名で売られた布が、花嫁の手を青くした」
「わたくしの名では、売られておりません。本家の暁染め、と売られたのです」
「同じことだろう」
「いいえ。わたくしの名が付いた布は、書庫の札と、ハーゼルの甕から出た布だけでございます」
ユリウス様は、少し考えてから、もう一度尋ねられました。
「では、悔しくはないのか」
悔しい。その言葉を、わたくしは手のひらの上で転がすように考えました。
「昨年の春でしたら、悔しかったかもしれません。侯爵家の夜会で、わたくしの一反が広げられて、どなたも作者を尋ねなかったとき。あのときの方が、ずっと」
「今は」
「今は、十日後が楽しみでございます。布は、嘘をつきませんので」
ユリウス様は、それを聞いて、ようやく手帳を上着の内に仕舞われました。
◇
ハーゼルに戻った翌々日の昼のことです。
長屋の前の畦道を、立派な四頭立ての馬車が下りてまいりました。扉に、グラーフェン家の紋。
降りてこられたのは、セドリック様でした。
八十日ほど前、審査場の外の水路で、わたくしの袖を掴んだ方です。上着は相変わらず仕立てがよく、手は相変わらず白うございました。
「リーゼロッテ」
「どちら様の御用でございましょう」
「顧問としてだ。王都染物問屋組合の」
セドリック様は、長屋の中を一瞥されました。八つの甕。竿に掛かった三巡目の布。甕の縁に立てかけた絵札。甕の前で砂時計を返している、ハンナとミア。
「こんな納屋で、百日で四十八反か。噂は本当だったのだな」
「ご用件を、伺えますか」
「話は簡単だ。組合は君に、金貨五百枚を払う」
五百枚。クレーマー様は五十枚でしたから、値が十倍になりました。
「代わりに、工程札の写しを組合に渡すこと。それから、組合の布に、ヴァイトの名を貸すこと。暁染め、作者リーゼロッテ・ヴァイト。そう書いた札を組合の布に付ける。それだけでいい」
「それだけ、でございますか」
「色止め試しで組合の布が落ちれば、組合は困る。だが君の名が付いていれば、作者の布だ。衣装局も、作者の布を偽物とは言えないだろう」
戸口の脇に、いつの間にかユリウス様が立っておられました。茜畑から戻られたところらしく、靴に赤い土がついております。
ユリウス様は、セドリック様ではなく、わたくしの方をご覧になりました。
「私が口を挟んでいいか」
セドリック様が、何か言いかけて、ユリウス様の顔を見て黙られました。
わたくしは、少しだけ考えました。この方に任せれば、この場は楽に終わるでしょう。伯爵の言葉は、侯爵家の顧問の言葉より重うございます。
けれど、これは、わたくしの名の話です。
「いいえ。わたくしが答えます」
「分かった」
ユリウス様は、一歩下がられました。戸口から離れはなさいませんでした。
わたくしは、セドリック様に向き直りました。
「侯爵家の工房で染めたものは侯爵家のもの、でございましたね」
「何の話だ」
「セドリック様がおっしゃったことでございます。三年分の布も、甕も、侯爵家の財産だと。でしたら、組合の工房で染めたものは、組合のものでございましょう」
セドリック様の顔が、赤くなりました。
「組合の布は組合のもの。組合の名で、組合の手で、竿にお掛けくださいませ。わたくしの名をお貸しする理由は、ございません」
「五百枚だぞ」
「どうぞ、ご自分の手で」
セドリック様は、しばらくわたくしを睨んでおられました。甕の前では、ハンナが砂時計を返しました。ミアが刻みを一本、指で押さえました。誰も、こちらを見ておりませんでした。
セドリック様は踵を返して、馬車の踏み台に足を掛けました。そこで振り返って、吐き捨てるようにおっしゃいました。
「試しで落ちるのは、君の布も同じだ。藍は落ちるものだろう」
(第7話へ続く)
藍染めは、染めた直後に布へ残った余分な色をよく洗い落とすことも大切です。作中の暁染めでは、仕上げに流れのある水へ三日預け、先に落ちる色を流し切ります。だからこそ、衣装局の試しでは言葉より布そのものが答えになるのでございます。




