札は工房に
ドーラとイルマが工房を去ったのは、その三日後の朝でした。
二人は、長屋の戸口で前掛けを外し、畳んで板の間に置きました。それから、甕の縁に立てかけてあった絵札の前で、少しだけ足を止めました。
「これ、持っていっちゃいけないですよね」
ドーラが、刻み九本の札を指さしました。
「札は工房のものでございます。でも、写したいとおっしゃるなら、止めはいたしません。中身は衣装局の書庫にも、同じものがございますので」
「いいです。あたしたち、字も絵も、写せないから」
ドーラは札に触れずに手を引っ込め、イルマと並んで頭を下げました。
「お世話になりました」
「どうぞ、お元気で」
ハンナは、二人の背中が畦道の向こうへ消えるまで見送っておりました。それから振り返って、残った皆に言いました。
「八つの甕に、十人。二人減ったら、二人分働けばいいだけだ」
◇
二人がいなくなって、二巡目の段取りを組み直しました。
八つの甕を、十人で回します。藍を浸す者、砂時計を返す者、布を竿に掛ける者。一人が二つの甕を受け持つ時間帯ができますから、浸しの始まりを甕ごとに砂時計半分ずつずらしました。そうすれば、上げる時刻が重ならず、一人で二つの甕を見られます。
ずらしの順番は、絵札の端に甕の番号の刻みで描き足しました。一つ目の甕は刻み一本、二つ目は刻み二本。
二巡目は、婚礼衣装の八反です。第二王女殿下ご自身がお召しになる布でした。
「婚礼の方だからって、何か変えるんですか」
ミアが尋ねました。
「何も変えません。札のとおりに」
わたくしがそう答えると、横でティモが、少しだけ口の端を上げました。
二巡目の四日目、ドーラとイルマが受け持っていた七つ目と八つ目の甕を、グレーテとカティが引き継ぎました。
グレーテは字が読めます。カティは読めません。二人は、字の札と絵札を甕の縁に並べ、ドーラたちと組んでいたときと同じように、読み上げと刻みで確かめ合いながら手を動かしました。
「この甕、底の澱が少し多いね」
カティが、甕の縁から覗き込んで言いました。
「ハンナが、昨日の朝に麩を足してたから。手順にはあったっけ」
グレーテが字の札をめくります。藍の甕を養う工程、麩は七日に一度、握りこぶしひとつ。
「七日に一度。ハンナが足したのは、前に足してから五日目だった」
二人は、わたくしを呼びに来ました。
甕の面には、紫の泡がまだ立っておりました。手首まで沈めて十数えると、温みは逃げません。建ってはいるのです。ただ、底の澱は、いつもより指一本分厚くなっておりました。
「藍は大丈夫でございます。ただ、今日は布を沈めるとき、いつもより拳ひとつ上で止めてくださいませ。底に近づけますと、澱を拾います」
「拳ひとつ上」
カティが、自分の拳を甕の縁に当てて、高さを測りました。
「それも、札に描きますか」
「いいえ。今日だけのことですので。それより、麩を足した日を、甕ごとに刻みで残すことにいたしましょう。次に足すのが何日目か、誰が見ても分かるように」
その日から、甕の脇の柱に、麩を足した日の刻みが入るようになりました。七本目の刻みが入ったら、麩を握りこぶしひとつ。
ハンナが悪かったのではございません。足した日をどこにも残していなかったのは、札の方でした。
◇
王都から噂が届いたのは、二巡目の藍が七度目に入った日でした。
組合の工房へ移ったドーラとイルマは、着いた翌日から、組合の職人頭に手順を問いただされたそうです。暁染めの藍は何度浸すのか。何分浸すのか。灰汁はどれほど薄めるのか。
二人が覚えていたのは、藍浸しの一部だけでした。
十五分浸して、十五分風に当てる。それは、砂時計を返し続けた手が覚えております。けれど、茜の媒染も、水晒しも、二人は受け持っておりませんでした。藍甕の見立ても、灰汁の見立ても、札を見ながらやっていたのです。札を見なければ、刻みの数は思い出せません。
「札を持ってこい」
職人頭はそう言ったそうですが、二人は持ってきておりません。わたくしも、取り返しに行く必要がございません。
組合は、二人を雇い入れるのに、前金で金貨二十枚を払っていたそうです。けれど王都の店先に積まれた暁染めの色は、二人が移る前と、少しも変わりませんでした。藍が浅く、茜が濃い。夜明けというより、夕焼けの残りのような色。
二十枚で買えたのは、十五分の砂時計の使い方だけでした。それなら、町の瀬戸物屋で銅貨二枚で売っております。
◇
五十八日目の朝、婚礼衣装の八反が、三日目の水晒しを終えました。
川の杭に一反ずつ渡しておいた布を、染め手たちが二人がかりで引き上げます。流れから上がった布は、水を含んで重く、裾から肩へ、夜明けの空がそのまま映っておりました。
ハンナが、一反目を竿に掛けて、黙って見上げていました。
「……あたしが染めたんですか、これ」
「ハンナの甕の布でございます」
「刻みを、九本押さえただけなのに」
「九本押さえるのが、いちばん難しいのでございます。途中で八本で止めたくなりますので」
ティモが、八反を一反ずつ見て回りました。札の束を手に、工程を一枚ずつめくりながら、布の色と照らし合わせていきます。精練。藍九度。藍止め。茜。媒染三度。仕上げ浸しは裾から膝の高さまで。水晒し三日。
八反目の裾を指でなぞって、ティモは札の束を閉じました。
「八反とも、札のとおりです」
その日の昼、ティモは八反を油紙で包み、衣装局の荷馬車に積んで王都へ発ちました。荷台の上で振り返って、手を振っておりました。爪の際の青が、少し濃くなっておりました。
◇
その夜、わたくしは川辺に出ておりました。
空になった杭に、流れが当たって白く割れております。月が出ていて、水面に映る自分の手が、黒く見えました。
「ここにいたのか」
ユリウス様が、畦道から下りてこられました。
「お祝いを言いに来た。八反、おめでとう」
「まだ四十反ございます」
「知っている。それでも、今日は八反だ」
ユリウス様は、わたくしの隣の石に腰を下ろされました。少し離れて。手を伸ばしても届かないくらいの間を、いつも空けておられます。
「ドーラとイルマのことを、引き止めなかったな」
「引き止めるのは、わたくしの役目ではございません。選んだのは、あのお二人でございます」
「あなたらしい」
「ユリウス様も、わたくしを引き止めたことはございませんでした。王都に残っても、断っても、茜は届けると」
ユリウス様は、少し笑われました。
「あれは、本心だった」
「存じております」
しばらく、川の音だけがしておりました。
それから、ユリウス様は、石の上で少しだけこちらへ向き直られました。
「手に触れても?」
御前染めの前、灰汁媒染の二度目の朝に、同じことを尋ねられました。あのときは、足を滑らせかけたわたくしを支えるためでした。
今は、誰も足を滑らせてはおりません。
「どうぞ」
わたくしは、青い手を差し出しました。
ユリウス様の手は、茜畑の土の匂いがいたしました。わたくしの指を、一本ずつ確かめるように包んで、それから、それ以上は何もなさいませんでした。
「冷たいな」
「川の水に、一日浸けておりましたので」
「明日も浸けるのか」
「はい。三巡目でございます」
「なら、明日の夜も、ここに来てもいいか」
「……どうぞ」
手を預けたまま、わたくしは川を見ておりました。夜明け前の空の色だと、この方は言いました。手を握られて、わたくしは初めてそれを、悪くないと思いました。
◇
同じ夜、王都は雨だったそうです。
後になって、姉から聞いた話でございます。
リンデン伯爵家の婚礼は、王都の聖堂で、夕刻から執り行われました。花嫁のエルザ様は、サロンでオフィーリア様から買った四反の暁染めで仕立てたドレスをお召しでした。裾へ向かって白む、本家の暁染め。そう聞かされて、お選びになった布です。
聖堂の石段で、雨が降り出しました。
付き添いの侍女が慌てて傘を差しかけましたが、裾はもう濡れておりました。濡れた裾から、藍が流れ出します。白い石段に、青い筋が何本も伝っていきました。
エルザ様は、裾を持ち上げようとなさいました。
白い絹の手袋で。
祭壇の前に着いたとき、花嫁の両手は、指先から手首まで、真っ青に染まっておりました。
参列者の誰かが、それを見て、ひそひそと囁いたそうです。
青い手の花嫁、と。
(第6話へ続く)
藍甕の底には、灰汁や麩などの澱が沈みます。作中で布を拳ひとつ上に止めたのは、その澱を巻き上げて布に拾わせないためでした。甕の深さにも、手順がひとつ隠れております。
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