卵の殻ひとつ分
灰がなければ、灰汁が作れません。
灰汁がなければ、精練ができません。糸の脂が抜けなければ、藍は布の上を滑ってしまいます。茜の媒染もできません。暁染めの二十一工程のうち、灰汁を使わない工程は、半分もございませんでした。
長屋の板の間に、十二人の染め手とティモ、それにユリウス様が集まりました。
「王都の商人というのは」
「組合の荷車だったそうです。灰売りが、銀の徽章を見たって」
ハンナが答えました。
灰は、どこの家の竈からも出ます。けれど、樫の灰は火の持ちがよい分、値も張りますから、市でまとめて買う方が多いのです。組合はそれを知っていて、市の分を残らず押さえたのでしょう。
ユリウス様が、わたくしの方を向かれました。
「隣領のアルテンブルクには、まだ灰があるはずだ。私の金で、隣領から灰を買い戻してもいいか。荷車を十台出せば、三日で足りる」
十台の荷車。三日。間違いなく、それがいちばん早い道です。
わたくしは、少し考えてから、首を横に振りました。
「お申し出は、ありがとうございます。でも、お断りいたします」
「理由を聞いてもいいか」
「組合は、隣領の市にも荷車を回せます。ユリウス様が買い戻せば、組合はもっと高く買い占めます。そうなれば、灰の値を決めるのは組合でございます。わたくしの甕が、組合の荷車の速さ次第で止まったり動いたりいたします」
「それは、そうだが」
「それに、市の灰がなくても、灰はございます」
わたくしは、ハンナの方を向きました。
「ハーゼルの家々では、冬に何の薪を焚きますか」
「樫です。この辺りの山は樫ばっかりだから。どこの家も、竈の灰は春に畑へ撒く分を、裏の灰小屋に溜めてます」
「何戸ございますか」
「領内で、百四十戸くらい」
ユリウス様が、わたくしの顔を見ておられました。
「各家の竈の灰を、集めるのか」
「はい。代価をお支払いして、樫の灰だけを分けていただきます。それなら、組合の荷車がどれほど速くても、竈の中までは買えません」
「分かった。あなたがそう決めたなら、私の金は使わない」
ユリウス様はそれだけおっしゃって、手帳を閉じられました。
「ただ、灰小屋のある家を回る道順なら、私の方が詳しい。村の名を書き出してもいいか」
「お願いいたします」
◇
三日で、百四十戸のうち百二戸を回りました。
染め手たちが二人ずつ組になって籠を背負い、ユリウス様の書き出した道順どおりに村を巡ります。樫だけを焚いた家の灰を、一軒ずつ分けていただくのです。代価は一籠につき銅貨三枚。組合が三年、茜一束に払っていた値の半分にも足りませんが、畑に撒くはずだった灰に値がつくのは初めてだと、どの家も喜んで分けてくださいました。
二日目、わたくしもハンナと組んで、川上の村を回りました。
七軒目は、腰の曲がったお婆さまがひとりで住む家でした。裏の灰小屋の戸を開けると、灰が三つの山に分けてございます。
「どれが樫でございましょう」
「左が樫。真ん中が松。右は、去年の秋に落ち葉を焚いたもんだ」
お婆さまは、杖の先で山を一つずつ指しました。
「混ぜてないのですね」
「混ぜたら、畑に撒くとき困る。樫の灰は豆に、松の灰は芋に。落ち葉のは、どれにも効かん」
わたくしは、樫の山の灰をひとつまみ取って、指先で擦りました。きめが細かく、さらりとしております。
「樫だけ、一籠分けていただけますか。銅貨三枚で」
「灰に銭を払う人は、初めて見た」
お婆さまは、籠に灰を移しながら、わたくしの手を見ておられました。
「あんた、手が青いね」
「藍でございます」
「その手で、王家の布を染めるのかい」
「はい。この灰で」
お婆さまは、籠いっぱいに灰を詰めてから、もうひとつかみ、上に載せてくださいました。
「なら、少し多めにしとく。王家の布に、うちの竈の灰が入るんだ。孫に自慢できる」
帰り道、ハンナが籠を背負い直しながら言いました。
「あの婆さん、灰を種類で分けてたでしょう。うちもです。この辺りの家は、たいていそう」
「それは、ありがたいことでございます」
「市の灰売りは、全部混ぜて売ってましたけどね。量が多く見えるから」
わたくしは、ハンナの背の籠を見上げました。灰を混ぜずに分けておく家々の手順が、組合の荷車よりも、わたくしの甕の役に立とうとしております。
ところが、集まった灰で灰汁を作って、困りました。
強さが、家ごとに違うのです。
同じ樫でも、生木を焚いた家と、よく乾かした薪を焚いた家とでは、灰の強さが変わります。竈の火の強さでも変わります。市の灰売りが全部混ぜて売っていたのは、量を多く見せるためだけではなく、強さを均すためでもあったのだと、そのとき気づきました。
「茶碗一杯に、水五杯。札のとおりに作ったのに、色が違います」
ミアが、二つの灰汁を並べて言いました。片方はほとんど水のように薄く、片方は指につけるとぬるりといたします。
茶碗を揃えても、灰そのものが揃っていなければ、灰汁は揃いません。
わたくしは、その晩、厨房で卵を一籠もらいました。
「何に使う」
ユリウス様が、また戸口に立っておられました。
「灰汁の強さを、見立てます」
灰汁を桶に張り、生卵をそっと沈めます。
薄い灰汁では、卵は底に沈んだまま動きません。濃くすると、少しずつ浮いてまいります。濃すぎると、殻が半分も水面に出てしまいます。
侯爵家の工房では、わたくしは灰汁を指で舐めて、舌の先の痺れ方で強さを見ておりました。三年もやれば、舌が覚えます。けれど、舌の覚えたことは、札に書けません。
卵なら、誰が見ても同じでございます。
わたくしが舐めて「ちょうどいい」と思う灰汁に卵を沈めると、殻が水面から小さく丸く出ました。その丸を、懐の銅貨と並べて見ます。
ちょうど、銅貨一枚ぶんでした。
「卵の殻が、銅貨一枚ぶん水面に出れば、ちょうどよい強さでございます。それより沈むなら灰を足し、それより出るなら水を足します」
「銅貨一枚ぶん」
「どの家にも、卵と銅貨はございますので」
ユリウス様は、卵の浮いた桶を、しばらく見下ろしておられました。
「あなたは、自分の舌の代わりを作ったのか」
「わたくしの舌は、一つしかございませんので」
◇
新しい札は、『灰汁の見立て札』と名づけました。
字の札には、こう書きます。灰汁を桶に張り、生卵を沈める。殻が銅貨一枚ぶん水面に出れば適正。沈めば灰を足す。出すぎれば水を足す。
絵札には、桶と卵と、その横に銅貨の丸をひとつ。字が読めなくても、丸の大きさは比べられます。
翌朝、ハンナが見立て札を甕の縁に立て、灰汁の桶に卵を沈めました。殻が、銅貨より大きく出ます。水を柄杓に一杯足して、もう一度。今度は、銅貨とぴったり同じ丸になりました。
「これなら、あたしでも分かる」
「ハンナの灰汁で、二巡目を始めます」
灰が止まってから、九日目のことでした。遅れは、九日で止まりました。
その日の昼、ティモが二巡目の精練を見て回り、見立て札と卵の桶を一つずつ確かめてから、衣装局へ報せを書きました。工程に追加の札あり。写しを書庫へ送る、と。
夕方、王都から来た荷馬車の御者が、市で噂を落としていきました。
組合は、樫の灰の買い占めに金貨百二十枚を使ったそうです。ハーゼルの職人が泣きついて、言い値で買い戻しに来るのを待っていたのでしょう。
ところが、誰も買いに来ません。ハーゼルの竈には、冬の灰がいくらでもございますので。
組合の倉に積まれた灰は、秋の長雨で湿り、固まって、灰汁にも肥やしにもならなくなったそうです。金貨百二十枚が、倉の中で泥になりました。
お気の毒に、とは申しません。灰は火から出て、雨で土に還るものでございます。
◇
灰汁の件が片づいた晩、長屋の戸締まりをしていると、二人の染め手が残っておりました。
ドーラとイルマ。どちらも、字の読めない六人のうちの二人です。
「リーゼロッテ様。言っておかなきゃいけないことがあって」
ドーラが、前掛けの端を握って言いました。
「今日、市で組合の人に声を掛けられたんです。王都の組合の工房へ来ないかって。日当、ここの三倍出すって」
「三倍」
「銀貨三枚です。あたしの家、子どもが四人で」
イルマは、何も言わずに下を向いておりました。
引き止める言葉なら、いくらでもございます。組合が欲しいのは、二人の手ではなく、二人が覚えた手順でしょう。二人が覚えたのは、工程のほんの一部です。三倍の日当が、いつまで続くかも分かりません。
でも、それを決めるのは、わたくしではございません。
「お話しくださって、ありがとうございます」
わたくしは、戸の閂を下ろす手を止めました。
「どうぞ、選んでくださいませ」
(第5話へ続く)
卵が液体の濃さで浮き方を変える性質は、塩水などでも見られる身近なものです。作中ではこれを灰汁の見立てに使い、舌の感覚を誰でも比べられる「銅貨一枚ぶん」へ置き換えました。お読みいただきありがとうございます。




