同じ茶碗
姉の手紙には、二枚目がございました。
『組合の店先に、暁染めの反物が積んであるの。一反金貨三枚。侯爵家の商会が去年、暁染めの注文に付けていた値が六枚だったから、ちょうど半値ね。それでね、リーゼ。売っているのがオフィーリア様なのよ』
衣装局への出入りを禁じられた方は、王都のサロンへの出入りまでは禁じられておりません。
『サロンで反物を広げて、「本家の暁染めですわ。わたくしが見立てましたの」ですって。見立てたって、何を見立てたのかしら。リンデン伯爵家のエルザ様が、婚礼のドレスにお買いになったそうよ。四反も』
手紙を読み終えると、わたくしはそれを畳んで、前掛けの物入れに入れました。
長屋の戸口では、ユリウス様が待っておられました。王都の噂は、ハーゼルにも商人の口で届いております。
「聞いたか」
「はい」
「あなたの暁染めの名を、組合が使っている。衣装局に申し立ててもいいか。私の名で」
「どなたの名でお売りになるのも、ご自由です」
ユリウス様は、何かおっしゃりかけて、口を閉じられました。
「わたくしの名は、書庫の札に添えてございます。王都の店先に積んである布に、わたくしの名は書いてございません。でしたら、わたくしが申し立てることは、何もございません」
「あなたがそう決めたなら、私も申し立てない」
「ありがとうございます。それより、甕を見てまいります。今日は一巡目の茜でございますので」
◇
一巡目は、随員衣装の八反でした。
藍の九度は、八つの甕とも絵札どおりに済んでおります。刻みを指で一本ずつ押さえながら、染め手たちは砂時計を返し続けました。九本目を押さえた日の夕方、八反とも、夜のいちばん深いところの色になりました。
問題は、茜の灰汁媒染で起きました。
三度目の媒染を終えた朝、竿に並んだ八反のうち、一反だけ、裾の色が違っておりました。
ほかの七反は、裾へ向かって紫が赤みに寄り、白みかけております。その一反だけが、赤みを通り越して、くすんだ橙に転んでいました。しかも、ところどころ斑に。
「……あたしのです」
竿の前で、ミアが前掛けを握っておりました。十六歳、いちばん若い染め手です。字が読めて、札の文句をいちばん早く覚えた子でした。
「札のとおりにやりました。茶碗一杯に、水五杯。三度とも」
「ええ、存じております」
ティモが、その横で黙って札を見ておりました。三度とも、ミアの手元を見ていたのはティモです。
「札のとおりでした。量りも、浸す長さも」
わたくしは、媒染の甕の脇に並べた道具を見ました。柄杓、刷毛、砂時計。それに、灰汁を量る茶碗。
茶碗が、八つ。
「ミア。この茶碗は、どちらから」
「家から持ってきました。母さんの」
隣の甕の茶碗を手に取って、ミアの茶碗と並べました。
ひと回り、大きさが違いました。
水を張って、ミアの茶碗の水を隣の茶碗に移します。縁から溢れました。もうひとつ、ハンナの茶碗も比べます。ハンナの方が小さい。
「ご自分の茶碗を持ってきた方、手を上げていただけますか」
八人のうち、六人が手を上げました。工房には茶碗を二つしか用意していなかったのです。足りない分は、皆が家から持ってきておりました。
茶碗一杯に水五杯。札にはそう書いてございます。けれど、茶碗の大きさは書いてございません。
侯爵家の工房では、茶碗はひとつでした。わたくしが毎朝使う、白い縁の欠けた茶碗。三年、同じ茶碗で量っておりましたから、大きさを書く必要に気づかなかったのです。
ミアの茶碗はいちばん大きくて、灰汁がいちばん濃くなりました。濃すぎる灰汁は、茜を赤から橙へ焼いてしまいます。
「ミアのせいではございません。札が足りませんでした」
わたくしは、工程十五の札を外して、裏返しました。そこに一行、書き足します。
『茶碗は、工房の同じ茶碗を使う』
字の書けない者のために、絵札の方にも描き足しました。白い茶碗をひとつ。その横に、家の形を描いて、×。
「今日から、灰汁は工房の茶碗だけで量ります。茶碗は、館で同じ窯の同じ型のものを十二個、揃えていただきます」
ユリウス様の方を向くと、もう頷いておられました。
「窯に頼んでもいいか。同じ型を十二個。いや、割れた時の分も入れて、十五個」
「お願いいたします」
手が覚えていることは、書かなければ渡りません。御前染めの前の晩に気づいたことを、もう一度気づかされました。わたくしの手は、まだ書いていないことを覚えているのです。
ミアの一反は、精練からやり直すことにいたしました。灰汁で煮て、色を抜き、藍を九度。手間は倍になりますが、橙の斑のまま王家へ納めるわけにはまいりません。
「あたしが、やり直していいですか」
ミアが言いました。
「どうぞ。ミアの布でございますので」
昼の休みに、川辺の石に腰を下ろして黒パンをかじっていると、染め手たちが寄ってまいりました。
「リーゼロッテ様。王都で、暁染めが三枚で売られてるって、本当ですか」
尋ねたのはアンナでした。市で、行商の者から聞いたそうです。
「本当のようでございます」
「あたしらが四十枚で染めてる布と、同じものが、三枚?」
「同じものかどうかは、存じません。わたくしは、その布を見ておりませんので」
ハンナが、パンを持ったまま鼻を鳴らしました。
「同じもんが三枚で染まるなら、刻みを九本押さえてるあたしらが馬鹿みたいだ」
「では、ハンナ。七本で止めてみますか」
「……やめときます」
「ええ。わたくしも、やめておきます」
染め手たちが笑いました。ミアだけは笑わずに、自分の前掛けの橙の染みを見ておりました。
「あたし、思うんです。三枚の布は、たぶん、どこかの工程を飛ばしてる」
「どうしてそう思いますの」
「あたしは茶碗の大きさひとつで、布を一反だめにしました。工程を飛ばしたら、もっと、だめになると思う」
わたくしは、黒パンの最後のひと口を飲み込んでから、答えました。
「そうかもしれません。でも、それを確かめるのは、わたくしたちの仕事ではございません。わたくしたちの仕事は、この甕の布を、札のとおりに仕上げることです」
ミアは、こくりと頷いて、パンの残りを口に押し込みました。
昼の休みが終わると、皆、黙って甕の前に戻りました。王都の三枚の布の話は、それきり、長屋では出ませんでした。
◇
その夜、館の厨房を借りて、十五個の茶碗が届くまでの代わりを作りました。小さな木の枡です。一杯分の線を、白い縁の欠けた茶碗に合わせて刻みます。
「何をしている」
ユリウス様が、厨房の戸口に立っておられました。
「茶碗が揃うまでの、間に合わせでございます」
「手伝ってもいいか」
「では、線を刻む前に、水を量っていただけますか。わたくしが量ると、わたくしの手の癖が入りますので」
ユリウス様は袖をまくり、茶碗に水を張って、枡に移されました。三度量って、三度とも同じ線のところで止まりました。
「これで合っているか」
「合っております」
わたくしは、ユリウス様が量った線に刻みを入れました。
「王都の偽物の件だが」
「はい」
「本当に、何もしないのか」
「いたしません。わたくしがするのは、この甕の布を、札どおりに百日で四十八反染めることだけでございます」
ユリウス様は、それ以上何もおっしゃいませんでした。枡を棚に並べて、灯りを消す前に、わたくしの手を見て。
「その手で書いた一行が、あの子の布を救った」
「救ってはおりません。やり直しです」
「やり直せる布にした」
返事をする手順が見つかりませんでしたので、わたくしは枡を一つ、手に取ったまま黙っておりました。
◇
異変に気づいたのは、翌朝、灰を買いに出たハンナでした。
長屋の裏の灰置き場には、空の樽が三つ並んでおります。一巡目の精練と媒染で、樫の灰はちょうど使い切っておりました。二巡目の分は、朝の市で足す段取りでした。
ハンナは昼前に、空の背負い籠のまま戻ってまいりました。
「灰が、ない」
「売り切れでございますか」
「ハーゼルの市に、樫の灰が一俵も残ってない。灰売りが言うには、ゆうべ王都の商人が荷車で来て、ありったけ買っていったって。隣の三つの市にも、同じ荷車が回ったそうです」
ハンナは籠を下ろして、赤い筋の残る手で額を拭いました。
「樫だけです。松や雑木の灰は、残ってる。樫の灰だけが、一晩で消えた」
(第4話へ続く)




