刻み九本
発注書が届いた翌朝、わたくしは館の勝手口で、領内の村へ持たせる言付けを書きました。
ユリウス様が、すぐに使いを出してくださったのです。
『川辺の工房で、染め手を雇います。日当は銀貨一枚。百日。手が青くなります』
最後の一行は要らないのでは、とユリウス様はおっしゃいましたが、わたくしは残しました。あとで知らなかったと言われるより、先に書いておく方が、互いに楽です。
昼過ぎには、勝手口の前に十二人が並びました。
いちばん前に、背の高い女がおりました。肩幅が広く、日に焼けた手が大きい。指の節に、茜の根の赤い汁が筋になって残っております。
「ハンナといいます。茜掘りの組の頭をやってます。手が青くなるってのは、どのくらい」
わたくしは手袋をしておりませんでしたので、そのまま両手を見せました。爪の際まで藍の染みた手です。
「このくらいでございます。洗っても落ちません」
ハンナは、わたくしの手をしばらく眺めてから、自分の手を広げました。
「こっちは赤いんで。ちょうどいい」
後ろの女たちが笑いました。
「お雇いいただけるなら、名前を帳に書いてもらえますか」
「ええ、ご自分で書いていただけますか」
帳を回すと、半分の六人が筆を受け取らずに首を振りました。ハンナも、そのひとりです。
「読み書きは、からきしで。数なら、刻みで数えられます」
わたくしは、六人の名を代わりに書きました。ハンナ、ベルタ、ローザ、カティ、ドーラ、イルマ。字の書ける六人が自分で書いた名は、グレーテ、ミア、アンナ、ゾフィー、リーナ、エマ。
十二人。
困ったことになりました。
わたくしの工程札は、字でございます。二十一枚、全部が字です。
◇
その晩、館の客間の机に、書き直した札を二十一枚並べました。
字は読めない。けれど数は刻みで数えられる。でしたら、刻みで書けばよろしいのです。
工程三、藍甕の見立て。手首まで沈めた手の絵を描き、その下に刻みを十本。十数えて温みが逃げなければよし。泡の絵には、紫の顔料を少しだけ差しました。
工程四から十二、藍浸し。甕に浸かる布の絵の横に、刻みを九本。一回浸すごとに、一本ずつ指で押さえていけばよいように。十五分は、砂時計ひとつ分の絵。浸すのに砂時計ひとつ、風に当てるのに砂時計ひとつ。
工程四の札の隅には、柄杓が甕の底に届く手前で止まっている絵を描き、底に大きく×を付けました。甕の底は決してかき回さない。字が読めなくても、×は読めます。
夜明け前に描き終えて、二十一枚を眺めておりましたら、扉が叩かれました。
「灯りが見えた。入ってもいいか」
「どうぞ」
ユリウス様は机の上を見て、刻みの札を一枚、手に取られました。
「字を読めない人のための札か」
「絵札と呼ぼうと思っております。ただ、まだ使えるかどうか、分かりません」
「どうやって確かめる」
「わたくしが手を出さずに、絵札だけで、どなたかに甕を見ていただきます。札に描いていないことを、わたくしの手がしていないか。それを確かめませんと」
御前染めの前の晩、字の札でも同じことをいたしました。手が覚えていることは、書かなければ誰にも渡りません。
◇
翌日の昼、川辺の長屋に、ユリウス様が荷車で甕を八つ運び込まれました。領内の窯から買い集めた、侯爵家の工房のものと同じ大きさの甕です。
床の石は、前の日のうちに職人たちが敷いてくれておりました。
ユリウス様は、荷車から甕を下ろす前に、地面に棒で線を引かれました。川に向かって、甕を二列に四つずつ。
「この並びでいいか」
「入口から見て、二列はよろしゅうございます。ただ、川に向かって縦に並べるより、横に並べとうございます」
「理由は」
「藍浸しのあいだ、布は十五分ごとに甕から上げて、風に当てます。縦に並べると、奥の甕の布を上げる人が、手前の甕の前を通らねばなりません。濡れた布の滴が、隣の甕に入ります」
ユリウス様は、棒の線を足で消して、横に引き直されました。
「これでいいか」
「ええ。それから、甕と甕の間は、布を抱えて二人がすれ違える幅に」
「分かった」
甕が据わると、わたくしは藍を建てる手順を、絵札を見せながら十二人に説明しました。すくもに灰汁と麩。毎朝、手首まで沈めて温みを見る。泡が紫になるまで、五日。
五日目の朝、八つの甕のうち七つに、紫の泡が立ちました。
「試しに、ハンナにやっていただけますか。わたくしは後ろを向いております」
「札を見て、ですか」
「はい。絵札だけで」
ハンナは工程三の札を甕の縁に立てかけました。手の絵。刻み十本。紫の泡の絵。
わたくしは本当に後ろを向いて、川の方を見ておりました。背中で、水の音がいたします。
「一、二、三……」
ハンナの低い声が、刻みを数えていきます。十まで数えて、止まりました。
「温みは逃げない。泡は紫。……建ってる、で、いいんですか」
「八つ目の甕は、いかがでございますか」
しばらく音がして、それから声がしました。
「温みが、七つ数えたところで抜けます。泡も紫じゃない。茶色っぽい」
わたくしは振り返りました。八つ目は、わたくしも朝のうちに見て、まだ建っていないと思った甕です。
「それで合っております。八つ目は、あと二日かかります」
ハンナは自分の手を見下ろしました。手首まで、浅葱色に染まっておりました。
「刻みで、分かるもんですね」
「札に描いてございますので」
その日の夕方、長屋の戸口に、懐かしい顔が立っておりました。
袖をまくった細い腕。爪の際だけが、少し青い。
「ティモ様」
「衣装局から、検め役として来ました。納める布が札のとおりに染められているか、一工程ずつ見るようにと、審査長に言われています」
ティモは長屋の中を見回して、甕の縁に立てかけた絵札に目を留めました。
「これ、刻みの札ですか」
「字の読めない方のために描き足しました」
「書庫の札と、中身は同じですか」
「同じでございます。確かめていただけますか」
「はい。札のとおりに」
その晩から、ティモは染め手たちの手元を一工程ずつ見て回りました。口は出さず、札と手を見比べて、合っていればうなずき、違っていれば札を指さすだけです。御前染めの七日間、わたくしの札を一枚ずつそうして読んでくれたように。
八つ目の甕が建った朝、十二人を二人ずつの組に分けました。
字の読める者と、読めない者を、ひと組に。グレーテとハンナ、ミアとベルタ、アンナとローザ、ゾフィーとカティ、リーナとドーラ、エマとイルマ。
「字の札と絵札を、二枚並べて甕の縁に立ててください。字の読める方が字の札を読み上げ、読めない方が絵札の刻みを指で押さえます。二人の言うことが違ったら、手を止めて、わたくしかティモ様を呼んでくださいませ」
「違うことなんて、あるんですか。同じ札の字と絵でしょう」
ミアが首を傾げました。
「あるかもしれません。わたくしが描き損じていれば」
昼までに、一度だけございました。
リーナが字の札を読み上げて「藍浸し、九度」と言い、ドーラが絵札の刻みを数えて「八本しかない」と言ったのです。
見に行くと、たしかに刻みが八本でした。九本目を、わたくしが絵の布の端に重ねて描いてしまい、墨に埋もれて見えなくなっておりました。
「描き直します。見つけてくださって、ありがとうございます」
ドーラは、照れくさそうに鼻の頭を掻きました。
「数えただけです」
「数えるのが、いちばん大事でございます」
その晩、ユリウス様が長屋の戸口から、甕の前に並んだ二十一枚の絵札を眺めておられました。
「字の札と絵札で、互いに確かめ合わせるのか」
「札を書いた者がいなくても、札同士で間違いが見つかるようにしとうございます。わたくしが風邪をひいても、甕は止まりませんように」
「あなたが風邪をひいたら、甕より先にあなたの心配をする」
「それは、札には書けませんね」
ユリウス様は笑って、それ以上はおっしゃいませんでした。
◇
十日目の夕方、館に姉からの手紙が届きました。
ユリウス様が、封を切らずに長屋まで届けてくださいました。開けると、一行目から字が乱れております。急いで書いたのでしょう。
『リーゼ、大変よ。組合の顧問になったセドリック様が、暁染めを売り出すそうよ。半値で』
(第3話へ続く)




