百日の発注書
ハーゼル領に着いたのは、婚約破棄から六十日目の朝でした。
館の門の前で馬車を降りると、ユリウス様が封書を一通差し出されました。
「あなたより二日早く着いていた。お姉上からだ」
封を切ると、見慣れた右上がりの字が並んでおります。
『リーゼへ。侯爵家が、棚の十一反を商会に持ち込んだそうよ。でも作者の名を書けない布には、買い手がつかないんですって。査定は一反金貨二枚。無地の藍布と同じ値。三年分の暁染めが、ただの青い布になったわ。父上は笑いすぎて咳き込んでいらっしゃいます』
保証金三百枚の没収、違約金千二百枚、御用達の資格は十年。注文は三十八件が消えました。そこへ、もうひとつ数字が加わったようです。
十一反。藍を九度、茜を三度、水晒しを三日。三年かけて一反ずつ染めた布が、一反二枚。
布は何も変わっておりません。変わったのは、誰の手で染めたかを言えなくなったことだけです。
「悪い知らせだったか」
「いいえ。姉が、父の咳を心配しておりますだけです」
わたくしは手紙を畳み、外套の内に仕舞いました。
ユリウス様は、館の玄関ではなく、門の脇の小さな石段に腰を下ろされました。わたくしにも隣を勧めて、それから、指を一本立てます。
「着いたばかりで悪いが、二つ聞きたい。一つ目。婚約の届けは、いつ出したい?」
審査場で答えを差し上げてから、十日。この方は一度も、その話を急かされませんでした。
「届けは、婚礼の布を納めてからにいたしとうございます」
「理由を聞いてもいいか」
「第二王女殿下の布を、ハーゼル伯爵の婚約者が染めた、と言われたくございませんの。リーゼロッテ・ヴァイトが染めた、と言われてから、届けを出しとうございます」
「分かった。では、納めてからだ」
ユリウス様は、それ以上何もおっしゃいませんでした。二本目の指が立ちます。
「二つ目。工房は、どこに建てたい? 館の敷地なら人手はすぐ集まる。茜畑の脇なら、根を運ぶ手間がない」
「川辺に」
「川辺?」
「水晒しには、流れのある水が要ります。三日、布を流れに預けますので。溜め池では、藍が抜けきらずに残ります」
「なら、見に行こう。歩いてもいいか。馬車より、そのほうが土地が分かる」
「どうぞ」
館から川までは、茜畑の畦道を歩いて四半刻ほどでした。畑には、秋に掘る根の葉が赤く色づき始めております。川は浅く、底の小石が数えられるほど澄んでいて、流れは速すぎもせず、遅すぎもしません。
岸には、古い長屋が一棟建っておりました。壁の板は灰色に褪せ、屋根の下に竿がずらりと渡してあります。
「茜を干す小屋だ。今は使っていない」
「軒が深うございますね。雨が降っても、竿の布が濡れません」
「直して使うか。それとも建て直すか」
わたくしは長屋の戸口に立って、床と、川までの距離を歩数で測りました。二十三歩。甕から川へ、濡れた布を抱えて運べる距離です。
「直して、使わせてくださいませ。床だけ、甕を据える分を石にしとうございます」
「承知した」
◇
昼過ぎ、館に早馬が着きました。
王室衣装局の青い封蝋。宛名は、リーゼロッテ・ヴァイト。
広間の卓に広げた発注書を、ユリウス様と二人で読みました。
『第二王女殿下ご婚礼にあたり、以下を発注する。婚礼衣装用、暁染め八反。随員衣装用、暁染め四十反。合わせて四十八反。本状の着いた日より百日以内に衣装局へ納めること。代価は一反につき金貨四十枚とする』
「四十八反」
わたくしは、その数を指でなぞりました。
御前染めの一反は、四十日かけて染めました。慣れた甕でも、ひとりで手を動かせば、一反に四日と半日はかかります。四十八反なら、二百日を超えます。
「百日では足りないか」
「わたくしひとりの手では、足りません」
「では、手を増やすか」
「それを、明日から考えます」
ユリウス様は、発注書の末尾を指で押さえられました。代価の行です。一反金貨四十枚、合わせて千九百二十枚。
「侯爵家にいた三年で、あなたが染めた布の代価は、いくら受け取った?」
「一枚も。侯爵家の工房の布は、侯爵家の布でしたので」
「そうか」
ユリウス様はそれだけおっしゃって、発注書を丁寧に畳み、わたくしの前へ戻されました。
発注書を読み終えると、わたくしはユリウス様にひとつお願いをいたしました。
「茜の蔵を、見せていただけますか」
「今からか」
「四十八反に、茜が何束要るか。数えませんと、明日から何も決められません」
館の裏手の蔵には、去年の秋に掘った根が、束になって天井近くまで積まれておりました。乾いた土と、ほのかに甘い根の匂いがいたします。
わたくしは、手前の束をひとつ下ろして、紐をほどきました。根を一本ずつ指で測ります。親指ほどの太さのものが七割、それより細いものが三割。
「侯爵家に届けていただいていた束と、同じでございますね」
「同じ畑の根だ。違うのは、届け先だけだ」
一反の茜に、太い根の束がおよそ三つ。四十八反なら、百四十と少し。媒染の失敗や染め直しの分を見込んでも、二百束あれば足ります。今年の四百束のうち、半分を残せる勘定でした。
「残りは、どうする」
「来年の春まで、蔵で寝かせていただけますか。茜は一年寝かせた方が、赤みが落ち着きますので」
「承知した。蔵の鍵を、あなたにも一本渡してもいいか」
ユリウス様は、そうお尋ねになってから、腰の鍵束から一本を外されました。
「お預かりいたします」
鉄の鍵は、手のひらに載せると、思ったより重うございました。三年、侯爵家の工房の鍵は、毎晩家令に返しておりましたから。
◇
午後、長屋の床を見に戻ると、川辺に見慣れない馬車が停まっておりました。
王都の紋が入った黒塗り。御者台の脇に、太った男が立っています。仕立てのよい上着の襟に、組合の銀の徽章。
「ヴァイト嬢かね」
「はい」
「王都染物問屋組合の組合長、オスヴァルト・クレーマーだ」
クレーマー様は、長屋の壁板を靴の先で突かれました。
「ここで、王家の婚礼布を染めると聞いた」
「お耳がお早うございますね」
「衣装局の発注は組合を通るものでね。それがどうだ。侯爵家に捨てられた青い手の女の納屋仕事に、王家の婚礼を任せられるか」
納屋。たしかに十日前まで、わたくしの甕は父の農具小屋にございました。そこで染めた一反が、王家の布に選ばれたのです。
納屋の方が、侯爵家の工房より上等だったということでしょうか。とても申し上げられませんけれど。
「ご用件は何でございましょう」
「話が早くていい。工程札を組合に売れ。金貨五十枚出そう。染めは組合の職人がやる。あんたは名前だけ貸せばいい。四十八反、百日で染められる職人を、組合はいくらでも抱えている」
五十枚。発注の代価は千九百二十枚です。
札を書いたのはわたくしで、職人を抱えているのは組合。染めるのは組合で、名前はわたくし。
どこかで聞いた勘定です。侯爵家の工房で染めたものは侯爵家のもの。名前だけ、手柄だけ、別の方の懐へ入る仕組みですわね。
「札は衣装局の書庫にございます。お売りできるものはございません」
「写しがあるだろう」
「ございません。札は、作者の名を添えて書庫に納めるのが規則でございましたので」
クレーマー様の頬が、ぴくりと動きました。
「では、書き直せばいい」
「書き直したものは、わたくしの工房で使います」
「工房? この壊れかけの干し小屋がか」
クレーマー様は、長屋の奥を覗き込みました。甕はまだ一つもございません。竿と、埃と、去年の茜の葉が数枚落ちているだけです。
わたくしが黙っておりますと、背後で砂利を踏む音がしました。ユリウス様が、畦道から下りてこられたところでした。
「お客人か」
「王都染物問屋組合の組合長様でいらっしゃいます。お帰りになるところでございます」
クレーマー様はユリウス様に一礼なさいましたが、帽子は取られませんでした。
「伯爵。茜の件では、ずいぶんな契約をなさったそうですな。四百束、全部この娘の工房へ」
「私の領の茜だ。どこへ届けるかは私が決める。届け先は、この人が決めた」
「ほう」
クレーマー様は馬車の踏み台に足を掛け、振り返りました。
「ハーゼルの茜は三年、組合が一束銅貨八枚で買ってきた。百日後に泣きつくのはお前だ」
(第2話へ続く)




