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【連載版】「青い手の女など要らない」と婚約破棄されたので、御前染めでは新しい婚約者様ご自身の手で夜明け色をお出しください  作者: ろくさんだ


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取り入れ口の試し布

 水車小屋の話を聞いた晩、わたくしは水晒しの札を、館の客間の卓に並べました。


 燭台の灯りが、札の角を黄色く縁取っておりました。流れのある水に一日ずつ、三日。札に書いてあるのは、それだけでございます。侯爵家の工房にいた三年のあいだ、裏手の流れが濁った朝は一度もございませんでした。ですから、書く必要がなかったのでございます。


 書いていないことは、誰にも確かめられません。確かめられないものは、手順とは申しません。運と申すのでございます。


 わたくしは札を箱へ戻し、白い布を一反、膝の上にひろげました。精練を済ませただけの、藍も茜も入れていない布でございます。指でなぞると、灰汁で煮た布のわずかなざらつきが残っておりました。何も足していない色でございます。ですから、何かが足されれば、誰の目にも分かります。


◇


 翌朝、工房の戸の前で、ユリウス様はいつものように足を止められました。坂の下から、川の音が低く上がってきておりました。


「入ってもいいか」


「どうぞ」


 閂を外しながら、わたくしは申しました。


「川上で何が流されても、わたくしは声を上げに参りません。止めにも参りません。ここで、水を見るだけでございます」


 ユリウス様は、少しのあいだ黙っておいででした。閂の木が、わたくしの手の中でまだ夜の冷たさを残しておりました。


「隣の領の主へ、私から書状を出してもいいか。あの村は、ハーゼルの境の外だ」


「いいえ。まだ何も流れてきておりません。流れてきていないものについて、書くことはございません」


「分かった」


 ユリウス様はそれ以上何もおっしゃらず、戸の内側の、ご自分の立つ場所へ移られました。壁際の、甕の列にも作業台にもかからない、板一枚ぶんの場所でございます。


 染め手たちが揃ってから、わたくしは白い布を作業台に置きました。同じ一反から、手のひら二枚ぶんの細布を二本切り出します。鋏の音が、朝の工房に二度だけ響きました。一本の端には切り込みを一本。もう一本には、何も入れません。


「切り込み一本は、左の耳から採った印でございます」


 ミアが、布幅の絵札を壁から外して見せてくれました。布の左の耳のところに、小さく一本、刻みが描いてございます。中央に二本、右の耳に三本。試し布の切り込みは、布幅のどこから採ったかを、絵札の印と揃えることにしております。


「切り込みのある布を、取り入れ口の流れに、砂時計ひとつ分浸けます。上げたら、切り込みのない布と並べて、晒し台の白い板の上に置きます。二人で見ます。先に見た者は何も言わず、あとの一人が、白なら『白』と声に出します」


 ハンナが、大きな手で二本の細布をつまみ上げました。節の太い指のあいだで、布は頼りないほど薄く見えました。


「白って言えなかったら」


「堰板は上げません。布は日陰に畳んだまま、その日は晒しません。晒しの刻みに紐を掛けるのは、『白』と声に出した朝だけでございます」


「三日の数が、伸びるってことだね」


「伸びます。縮めることは、いたしません」


 ハンナは頷き、二本を並べて目の高さにかざしました。窓からの光が、二本を同じように透かしておりました。字の読めない者にも、白と白でないものの違いは分かります。それが分かれば足ります。


 ミアがその場で、新しい絵札を描きました。細布が二本並んだ絵。並んで同じ色なら丸、片方だけ色が付いていれば罰と、下ろしたままの堰板。その下に、刻みが三本。墨が乾くまで、ティモが札の端を押さえておりました。


 わたくしは館へ戻ってから、水晒しの札に一行を書き足しました。


 ――晒しの朝は、取り入れ口の水を試し布で見てから堰板を上げる。


 三年、書かずに済んでいた一行でございます。書かずに済んでいたことを、手柄と思ったことは一度もございません。


◇


 その翌朝、工房へ向かう坂の途中で、わたくしのほうからお尋ねいたしました。


「戸を閉めていただく前に、取り入れ口まで、ご一緒いただけますでしょうか」


 ユリウス様は歩みを止めて、こちらをご覧になりました。


「私が、見る側でいいのか」


「声に出す側でございます。わたくしが先に見て、何も申しません。ユリウス様があとから見て、白なら白と、おっしゃってくださいませ」


「白でなかったら」


「何もおっしゃらないでくださいませ。それで分かります」


 ユリウス様は、坂の下の川を一度ご覧になりました。


「あなたが先に見て、私があとに言う。それでいいか」


「はい」


 取り入れ口の流れは、まだ朝の冷たさを残しておりました。指先を浸すと、骨の奥まで冷えが届きます。切り込み一本の細布を流れに沈め、砂時計を返します。砂が落ちきるまで、二人とも黙っておりました。水が石に当たる音と、遠くで鳥が一度鳴いた声のほかには、何もございませんでした。上げた布を絞らずに晒し台へ運び、乾いたほうの細布と並べます。


 わたくしは見て、何も申しませんでした。ユリウス様がかがみこみ、二本の端から端までを、ゆっくり目で追われました。


「白」


 低い、乾いた声でございました。それから戸口へ上がり、ご自分の場所に立たれました。


 次の朝も、白でございました。ハイネ家の二反目は、まだ茜の仕上げ浸しの途中でございましたので、晒しの刻みはどちらの朝も空いたままでした。白でも紐は掛けません。白と声に出す朝を、手と口に覚えさせておくだけでございます。覚えた手順は、要らない朝にも同じように回してこそ、要る朝に回るものでございます。


◇


 三日目の夕方、館に隣領からの書状が届きました。差し出し人は、あちらの家令の方でございます。宛名はハーゼル伯爵、ユリウス様。


 客間で、ユリウス様は封を切る前に、わたくしのほうをご覧になりました。


「あなたの前で、読んでもいいか」


「どうぞ」


 封蝋の割れる小さな音がいたしました。書状は短いものでございました。


 一昨日の夜、川上の水車小屋の裏から、藍の甕の澱が川へ流された。小屋から三百歩ほど下の村の洗い場で、翌朝洗っていた敷布十一枚と産着四枚が、灰をかぶったような青に染まった。


 水車小屋の貸し手は、村の長と相談のうえ、借りの約定を解いた。約定には、小屋の水は粉を挽くためだけに使うと書いてあったそうでございます。前払いの半年分の借り賃、金貨六枚は返さない。染まった十五枚の弁償は一枚銀貨三枚、合わせて銀貨四十五枚を、クレーマー様ご自身が払う。甕十二は五日のうちに運び出すこと。この先、村のどの家も、クレーマー様に納屋ひとつ貸さない、と。


 書状の最後には、澱が川下のハーゼルまで流れたおそれがあるので念のため知らせる、とございました。


 ユリウス様は書状を畳み、卓に置かれました。燭台の火が、畳み目の影を一本だけ揺らしておりました。


 川上に甕を並べれば、川下の工房の晒しが止まる。そうお考えになったのでしょう。川上にも川の水で産着を洗う家があることは、お考えにならなかったようでございます。川は、流した方の都合で曲がってはくれません。


「返書を書く」


 ユリウス様はそうおっしゃってから、言い直されました。


「返書に、ハーゼルの工房では晒しの朝ごとに取り入れ口の水を見ている、と書いてもいいか」


 わたくしは、膝の上で青い手を重ねました。流れてきていないものについては書かない、と申したのはわたくしでございます。けれど、毎朝水を見ていることは、ここで本当に起きていることでございます。絵札にも、札の一行にも、ハンナの手にも残っていることでございます。


「それは、お書きくださいませ。見ていることは、本当でございますので」


「書くのは、それだけにする」


「はい」


 ユリウス様は、ペンを取られました。わたくしは、ご自分の字で一行だけ書かれるのを、隣で黙って見ておりました。ペン先が紙を擦る音は、砂時計の砂が落ちる音に、少し似ておりました。


◇


 四日目の朝、ハイネ家の二反目が茜を上がりました。膝の高さに渡した紐で三か所を確かめ、結び目と棒の刻みも数え合わせてございます。あとは流れに一日ずつ、三日。納めの日までの余白は、多くございません。


 坂を下りながら、ユリウス様がお尋ねになりました。


「今朝も、ご一緒してもいいか」


「お願いいたします」


 取り入れ口で細布を沈め、砂時計を返しました。川霧が低く流れていて、向こう岸の柳がかすんでおりました。霧のせいで、川の音がいつもより近くに聞こえました。砂が落ちきるのを待って布を上げ、絞らずに晒し台へ運びます。籠の脇では、畳んだ二反目が、晒しの一日目を待っておりました。


 白い板の上に、二本を並べました。


 切り込み一本の細布の、水に浸かっていた下の半分が、灰をかぶったような薄い青でございました。


 わたくしは何も申しませんでした。ユリウス様はかがみこみ、端から端まで目で追われ、それから身を起こされました。


 白、とはおっしゃいませんでした。


 わたくしは堰板の縁に手を掛けたまま、上げずにおりました。濡れた板の冷たさが、掌にゆっくり移ってまいりました。


(第25話へ続く)

今回の試し布は、どちらも同じ一反から切り出しております。作中では、水に浸けない一枚を残すことで、記憶の中の白さではなく、目の前の布と比べられるようにいたしました。何もしていない一枚にも、確かめるための役目がございます。お読みいただきありがとうございます。

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