戸を閉める手
クレーマー様の長靴が、土間に一歩ぶんの泥を落としました。
戸は開いたままでございました。川霧が敷居を越えて流れ込み、甕の並びの手前で薄く広がります。白いものが床を這って、藍の匂いの上に、川の水の冷たい匂いを一枚かぶせてゆきました。工房の奥では、予備の甕が藁の覆いの下で冷えに耐えておりました。裏戸の側には戸板二枚の風よけを立ててございますが、表の戸口から入る風は防げません。
一番近くにいたエマが、絞りかけの布を桶に置きました。何も申さず、クレーマー様の背中の後ろへ回り、戸を閉めました。閂の落ちる音が一つ。エマはそのまま桶へ戻り、濡れた手を一度だけ振って、布の続きを絞りはじめました。滴が桶の水を打つ音が、また規則正しく続きます。
組合の染め場でも、戸は閉めるものだったはずでございます。閉めるのは、きっと下の者の仕事でしたのでしょう。
「ヴァイト嬢」
クレーマー様は甕の列に目をやったまま、わたくしを呼ばれました。外套の裾から霧の雫が落ち、土間に小さな黒い点を作っております。
「建った甕を一つ、譲ってもらいたい。金貨三十枚出す」
わたくしは二反目の結び目から指を離さずにおりました。一つ目を数え終えたところでございましたので。糸の締まり具合は、指を離すと分からなくなります。
「甕は、お譲りいたしません」
「札は書庫で写させた。二十一枚、一字残らずだ。灰汁も麩も同じものを揃えた。それでも甕が三つ続けて建たん。札が足りんのだ。ここで建った甕なら、そのまま運べば」
「運べば、温みが逃げます」
クレーマー様の口が、途中で止まりました。
「甕は、建てた場所で使うものでございます。札の三枚目のとおり、手首まで沈めて十数え、温みが逃げなければ布を入れます。十まで数えられない朝は、入れません。工房では、それだけでございます」
札は、どなたが写しても同じ字でございます。同じ字を読んで、同じように待てるかどうかだけが違います。
組合では、十まで数える前に布を入れていたのでございましょう。藍を五度で上げるよう命じる方々が、十を待つとは思えません。
クレーマー様は、しばらく黙っておられました。甕の縁に浮いた藍の華を、睨むように見ておいででした。それから、茜干し場のほうへ顎を向けられました。
「では茜だ。一束銅貨二十二枚で、来年の掘り分を」
お答えしたのは、わたくしではございませんでした。
甕の向こうで、ハンナが大きな手を前掛けで拭いておりました。土の色が爪の際まで沁みた、掘る者の手でございます。
「来年の茜は、掘る女たちで決めました。先週、二十三人で」
ハンナは前掛けの紐に下げた木切れを、指でなぞりました。刻み目が二十三本、どれも横に一本の線で消してございます。一人が頷くごとに、一本ずつ消したものでございました。
「あなた様には、一束も参りません。三年、銅貨八枚でございましたので」
それ以上、ハンナは何も申しませんでした。声を荒らげることも、目を伏せることもなく、藍甕の前に戻り、次の布を手首に掛けました。
二十二枚と八枚の間にある十四枚を、三年ぶん数えれば、言葉はいらないのでございましょう。
クレーマー様は外套の胸元に手をやりかけて、そこに徽章がないことを思い出されたようでございました。留め跡の白い布地を、指が一度だけ撫でました。そこだけ日に焼けていない四角が、霧の湿りで少し濃く見えました。
「組合は、もう私の言うことでは動かん」
どなたに向けたお言葉かは、分かりかねました。わたくしに向けたものでないことだけは、分かりました。
クレーマー様がご自分で話されたところでは、王都の問屋十四軒が寄り合いを開き、十一軒がクレーマー様を寄り合いから外すことに手を挙げたそうでございます。年に金貨三十枚の組合長の手当は、組合長職を解かれた判定の月で止まっておりました。空の荷馬車二台の雇い賃の銀貨四十八枚と、見本の手間賃と馬車代の銀貨二十枚、合わせて銀貨六十八枚は、組合の持ち出しのまま残りました。ハイネ家への違約金の金貨六枚も、組合がハイネ家に払わされたものでございます。
金貨三十枚で甕を買うと仰ったのは、ちょうど一年ぶんの手当でございました。もう入ってこない金貨を、数えるだけは数えておいでだったようです。
組合を名乗らずにいらしたのは、名乗れる組合がもうないからでございました。
「お帰りの際は、戸をお閉めくださいませ」
わたくしは結び目の二つ目に指を移しました。
クレーマー様は戸口まで歩き、閂に手を掛けて、少し迷われました。開けて、出て、それから振り向かずに去られました。長靴の音が、霧の向こうで小さくなってゆきます。戸は半分だけ開いたまま、霧を吸い込んでおりました。
今度は、グレーテが閉めました。閂を落としてから、グレーテは土間の泥を草箒で二度掃き、戸口の外へ払いました。
◇
翌朝、予備の甕の見立ては、わたくしがいたしました。
藁の覆いを外すと、甕の口から、わずかに甘い発酵の匂いが立ちました。まだ死んではおりません。手首まで沈めて、数えます。一、二、三。四つ、五つまでは、肌に寄り添う温みがございました。六つ。七つ目で、指の間から温みが抜けてゆくのが分かりました。八つ。九つの手前で、湯は人肌よりはっきりと冷たくなっておりました。
十までは、届きませんでした。
戸が開いていたのは、合わせても百を数えるほどの間でございます。それだけで、五日かけて戻した温みが、また一つ欠けました。甕は、だれが戸を開けたかを問いません。冷えた分だけ、冷えるだけでございます。
御前染めの七日間、わたくしたちが守り通したのも、結局はこの十でございました。
「今朝は、布を入れません」
わたくしがそう申しますと、ミアが朝日の刻みの板を持ってまいりました。紐を掛ける場所は、空いたままにしておきます。三朝続けて十まで残るまで、予備の甕には布を入れない。決まりは決まりでございます。誰も残念そうな顔はいたしませんでした。ミアは板を元の釘に掛け直し、藁の覆いを、わたくしと二人で甕へ戻しました。
その日の昼、ハンナとティモとわたくしで、一つ手順を足しました。
外の方を工房に入れるときは、入れる前に、戸を閉める者を一人決めておく。決めた者は、客の背中が敷居を越えたらすぐに閂を落とし、客が出たらまた落とす。客が自分で閉めるのを待たない。
「お客様に閉めてもらうのを待つと、昨日のようになりますね」
ハンナが申しました。責める口ぶりではございません。昨日の霧の量を、ただ量っているような声でございました。
「札のとおりに、ですね」
ティモが申しました。爪の際の青い指で、工程札とは別の、工房の決まりを書く板に、一行を書き足しました。炭の字は少し右へ傾いておりましたが、読み違える字ではございません。字の読めない六人のためには、ミアが絵札を描きました。戸の絵に閂の横棒、その脇に人の形を一つ。刻み目は二本。入るときに一度、出るときに一度でございます。
ハンナは絵札を手に取り、刻み目を親指で二度押さえました。
「これなら、霧の朝でも分かります」
絵札は、甕の並びの手前、戸口から一番よく見える柱に掛けられました。
◇
その夕方、工房の戸締まりの前に、ユリウス様が敷居の外でお尋ねになりました。毎朝のお約束は朝のものでございますが、夕方も同じようになさいます。
「入ってもいいか」
「どうぞ」
ユリウス様は一歩入られ、ご自分の後ろで戸を閉められました。閂の落ちる音を聞いてから、甕のほうへ目を向けられました。柱の新しい絵札にも、目が留まったようでございました。
「昨日の朝、あなたは首を振った。出るな、という意味でよかったか」
「はい」
クレーマー様が戸口に立たれたとき、ユリウス様は壁際におられました。わたくしは、首を一度横に振っただけでございます。ユリウス様は、それで最後まで出ていらっしゃいませんでした。
「では、次もそうしたい。あなたが首を振れば、私は動かない」
ユリウス様は、少し間を置かれました。
「頷いたときは、動いてもいいか」
わたくしは、青い手を前掛けの上で重ねました。
首を振るだけの合図でしたら、どなたとでも作れます。頷いたときに何が起きるかを先に尋ねてくださる方は、多くございません。
「頷いたときは、お願いいたします」
「分かった」
ユリウス様は、それからもう一つだけお尋ねになりました。
「戸を閉める者を、朝のあいだ、私にしてもいいか。客が来るのは、たいてい朝だから」
わたくしは、少し考えました。染め手たちの朝は、甕の見立てと布の仕込みで手が塞がっております。昼からは、手の空く者がおります。
「朝だけ、お願いいたします。昼からは、染め手の誰かが」
「朝だけ」
ユリウス様は同じ言葉を繰り返して、絵札の前に立たれました。ミアの描いた人の形を、しばらく眺めておいででした。ご自分がその小さな人の形になることを、確かめていらっしゃるようにも見えました。それから、予備の甕の藁の覆いを指さされました。
「紐を、結び直してもいいか。戸口と反対の側のまま」
「どうぞ」
覆いの紐は、決まりどおり戸口と反対側で結んでございました。けれど戸が開くたび、風にあおられて結び目が緩んでいたのかもしれません。
ユリウス様の結び目は少し固うございましたが、ほどけない結び目でございました。わたくしは直さずにおきました。
◇
ティモが町の市から駆け戻ってきたのは、それから二日後の昼でございます。予備の甕は二朝続けて十まで温みが残り、刻みには紐が二本掛かっておりました。三本目を掛ける場所だけが、まだ空いております。
ティモは戸口で足を止め、昼の戸番のローザが閂を落とすのを待ってから、息を整えて申しました。走ってきたせいで、頬が赤く、肩が上下しておりました。
「川上の、馬車で半日の村です。古い水車小屋を、クレーマー様がご自分の名で借りられたそうです。荷車に、藍の甕が十二」
工房の中が、少しだけ静かになりました。エマの絞る手が止まり、ハンナが布を手首に掛けたまま、顔を上げました。
工房の水晒しは、流れのある水に一日ずつ、三日でございます。その水は、川上から来ております。
(第24話へ続く)
今回登場した藁の覆いは、藁の隙間に含まれる空気で、熱を逃がしにくくするものです。作中では、覆いを掛けるだけでなく、戸口の風を防ぐことも温みを守る手順にしております。戸を閉める手にも、染める手と同じくらい目を留めていただけましたら幸いです。




