七つ目の刻み
セドリック様の指が、棒の一本を木釘から外されました。
物差しは、壁の木釘に一本ずつ紐で掛け、床に立てかけてございます。抜き取られたのは、右から七つ目の棒でございました。棒の頭に、ハンナの小刀の刻みが七つ並んでおります。
「これが、膝までの物差しか」
セドリック様は棒を逆さに持ち、刻みを見もせずに、ご自分の腰へ当てられました。棒の先は、外套の裾よりずっと下で止まりました。
「短いな」
「その一本は、七人目の方の膝の高さでございます」
わたくしは、甕の前から動かずにお答えしました。十二本は、十二人の丈のとおりに長さが違います。どなたの腰に当てても、短いのは当たり前でございます。
物差しのほうが、ご自分に合わせるとお思いなのでしょうか。ずいぶん忙しい木でございます。
戸口の内側で、ユリウス様の外套が小さく揺れました。
「出てもいいか」
「いいえ。そこにいてくださいませ」
「分かった」
ユリウス様は、それきり敷居の内から一歩も動かれませんでした。
「この棒があれば、組合の職人にも膝の高さは分かる。十二反は組合が先に受けた注文だ」
「その注文は、あちらのお家が取りやめておいでです」
セドリック様は何もおっしゃらずに、棒を外套の下へ入れられました。坂を下る車輪の音が川霧に紛れるまで、染め手たちは誰も手を止めませんでした。
ローザは水を切った布を竿に渡し、ミアは茶碗を伏せました。布から落ちる雫の間隔が、少しずつ長くなってまいります。お待ちする必要があるのは、そちらでございました。
ハンナが、空いた木釘を見上げて言いました。
「取りに行くことはないよ。もう一本刻むだけで済む」
「はい。取りには参りません」
取り返しに行けば、半日が坂道に消えます。刻めば、昼前に済みます。
◇
壁には、木釘が一つだけ空いておりました。綴じた絵札の七枚目の角には、刻みが七つ。甕の脇に積んだ反物のうち、端の紐に結び目が七つある一反だけが、当てる棒を持っておりません。どれが無くなったかは、字の読めない者にも、ひと目で分かりました。
ハンナは、残っていた細い木材を卓へ載せました。節の張り出したところを避け、布に引っかかるささくれを小刀で落とします。削り屑が、足元に三つ、丸く縮れて落ちました。
「刻みさえあればいい、というものでもないからね」
ハンナは木の表を古い端切れで拭いました。端切れが引っかからずに滑るのを確かめてから、ティモの前へ置きました。
作り直しは、先日の手順をそのまま繰り返しました。わたくしが寸法書きの七人目の丈を読み上げ、ティモが巻き尺を当て、ハンナが膝の印を刻み、頭に刻みを七つ入れます。ティモが巻き尺で測り直し、寸法書きと並べて頷きました。
「寸法書きのとおりに。狂いはございません」
ここで、一つだけ手順を足しました。
「寸法書きは、今日から工房に置きません。館の客間の箱に納めます。棒が一本でも欠けたら、残りの棒から写さず、必ず寸法書きから作り直します」
棒から棒を写せば、端を合わせ損ねるたびに、麦一粒ほどのずれでも重なってまいります。元の寸法に戻って測れば、そのずれを引き継がずに済みます。欠けたときの拠り所が工房の外にあれば、工房で何が起きても、丈は失われません。
「箱を開けるのは、あんたがいる日だけかい」
「いいえ。必要になった方が、館で受け取ってくださいませ。わたくしの帰りを待つ手順にはいたしません」
棒一本のために、わたくしまで壁に掛けておくわけにはまいりません。
ミアが絵札を描きました。木釘が一つ空いた壁、矢印、館の箱、矢印、新しい棒。棒の絵から棒の絵へは、×をひとつ。ハンナが絵札の角に刻みを入れ、綴じた札の最後に加えました。
工程札二十一枚とは別の、道具を戻すための札でございます。染める順序の途中へ紛れ込まないよう、ミアは綴じ紐も分けました。
ローザが、その一枚だけを手に取りました。ローザは字を読みません。札を見て壁の前に立ち、空いた木釘を指で示し、館の方角を指し、それから巻き尺をティモへ差し出してみせました。棒の絵から棒の絵へは、手を伸ばしませんでした。
「札のとおりに」
ティモが小さく申しました。
わたくしが説明を添えなくても、ローザの手は必要なものに届きました。ミアは描き足そうとしていた筆を置き、絵札を乾かしました。
寸法書きを箱へ移す前に、わたくしは残りの十一本も巻き尺で確かめることにいたしました。ティモが巻き尺を繰り出し、棒の端に合わせます。もう一方の端を押さえる手が要りました。
「ユリウス様。巻き尺の端を、押さえていただけますか」
「巻き尺に触れてもいいか」
「どうぞ。棒の裾の側を」
ユリウス様は巻き尺の端を、棒の裾にぴたりと押さえてくださいました。わたくしは反対の端を膝の刻みに合わせます。二人の手のあいだには、巻き尺が一本、まっすぐに張っておりました。それより近づくことは、どちらからもございませんでした。
一本を確かめるごとに、ティモが壁へ戻しました。長い棒の隣に短い棒、その隣にまた長い棒が掛かります。長さの順ではございません。布の紐と、絵札の刻みと、使う方を違えないための順でございました。
十一本を測り終えるまで、ユリウス様の指は一度も滑りませんでした。
「離してもいいか」
「はい。ありがとうございました」
巻き尺が、しゅっと音を立てて巻き戻りました。
昼前には、新しい七本目も木釘に掛かりました。ローザが結び目七つの反物を運び、その棒を外します。布の裾を揃え、膝の刻みに仮の糸を渡すところまで、わたくしは口を挟まずに見ておりました。
無くなった棒を待たずに、七人目の仕事が進みました。
◇
六日後の昼、ハイネ伯爵家の家令の方から、使いの方がお一人いらっしゃいました。
組合は、セドリック様の署名を今後一切、注文書に使わないと決めたそうでございます。家の保証のない署名を載せた注文書は、王都のどの家も受け取らなくなりましたので。封蝋はこの冬のうちに侯爵家へ引き上げられ、セドリック様は紋のない外套のまま、組合の帳場に立っておいでだと。
その署名の入った注文は、三家で三十二反。ハイネ家の十二反と、二家の二十反でございます。前金金貨七十枚は、すべて組合から返されて出ていきました。手元に残った茜は、一束もございません。
「三家とも、返金を受け取られたのでございますね」
「はい。お引き取りになる布は、一反もないとのことでございます」
「承知いたしました」
わたくしから、三家へお願いしたことはございません。受け取るはずだったものを受け取れなかったお家が、それぞれにお決めになったことでした。
立派な署名でも、三十二反の代わりにはならなかったようでございます。
使いの方はそれだけを伝えると、油紙の包みを一つ、卓に置かれました。
「組合が、別のお家へ見本として届けた端切れでございます。そのお家も十二人ぶんの裾染めを考えておいでで、こちらにも見ていただきたいと」
包みは、解かずにお預かりしました。いま広げている布を片づけ、卓を乾かしてから拝見すれば済みます。
◇
その晩、館の小さな食堂の炉辺で、ユリウス様がお尋ねになりました。
「あなたの隣に座ってもいいか」
「はい。そちらへどうぞ」
ユリウス様は隣の椅子に座られました。卓には返書のための紙と、昼に届いた油紙の包みがございました。
「返書を書くか」
「お家へは、わたくしが書きます」
「私から書き添えることは」
「ございません」
「そうか」
ユリウス様は炉の火を見ておられました。しばらくしてから、もう一つ、お尋ねになりました。
「明日の朝から、工房に入る前に、毎朝尋ねてもいいか」
わたくしは、膝の上で青い手を重ねました。
今朝、戸口でお断りしたときも、理由をお求めにはなりませんでした。巻き尺を押さえていただいたことを、その先の許可になさることもございませんでした。
「毎朝、お答えいたします」
明日の分まで、今夜お渡しする必要はございません。それで翌朝も来てくださるのなら、わたくしは、その朝の答えを選べます。
「では、明日の朝に」
ユリウス様は静かにおっしゃいました。
炉の灯りで、わたくしは油紙の包みを解きました。端切れは十二枚。どれも藍の上に茜を入れた裾の布で、組合の印が角に押してございました。
卓の上に一枚ずつ並べ、裾の端を揃えました。茜の際が、十二枚とも、同じ一本の線の上にございました。
十二人いれば、膝の高さは十二通りございます。短い方と長い方とで、手のひら一枚ぶん違います。
工房から持ち帰っていた新しい七人目の棒を、端切れの脇に寝かせました。裾の端を揃えると、膝の刻みは、十二枚の茜の際と、ぴたりと一本の線になりました。
わたくしは何も申しませんでした。ユリウス様も、何もおっしゃいませんでした。
七人目の膝の高さで、十二人ぶんが染められておりました。
(第22話へ続く)
今回、ハンナが木の表を端切れで拭いたのは、汚れを落とすためだけではございません。木のささくれは布の糸を引っかけるため、作中では端切れが滑るかどうかも、道具の仕上がりを確かめる目安にしております。染める布を傷めないための、小さなひと手間でございます。




