十まで数える朝
わたくしは、九つ目の甕から手を抜きました。
指先に残ったのは、藍の匂いではなく、冷えた水の重さでございました。
もう一度、手首まで沈めます。一つ、二つと数えて、やはり七つ目で温みが逃げました。泡は白く濁ったまま、甕の縁で静かに割れていきます。
今日、この甕に布を入れることはできません。
御前染めの七日間、侯爵家の工房を出たわたくしは、借りた甕を一から建て直しました。建たない甕を前にするのは、あのとき以来でございます。慌てる理由はございません。慌てても、甕は温まりませんので。
「お嬢様、おはようございます」
ハンナが戸口で雪を払いました。わたくしの顔を見て、何も聞かずに九つ目の甕の前へ来ます。
「数えても、よろしいですか」
「どうぞ。わたくしは七つでした」
ハンナの大きな手が、手首まで沈みました。唇だけが動いて、数を刻んでいきます。
「……七つです」
二人の手で、同じ数でございました。わたくしの手が冷えていたせいではございません。
◇
工程四の札には、甕の底は決してかき回さない、とございます。
底をかき回せば、灰汁と麩の澱が舞い上がって、甕はもっと機嫌を損ねます。ですから、まず見るのは甕の中ではなく、甕のまわりでございました。
八つの甕は竈の側から順に並んでおります。九つ目は列の端、裏の戸口にいちばん近いところでした。秋に仕込んだときには、そこがいちばん場所のあいた隅だったのです。
しゃがんで床に手を当てますと、九つ目の足元だけ、土間がうっすらと凍っておりました。裏戸の隙間から、細く風が入ってきます。甕を巻いた藁の覆いは、戸口の側だけ紐がゆるんで、下へずれておりました。
「昨夜が、この冬いちばん冷えましたね」
「はい。井戸の桶に、指一本ぶんの氷が張っておりました」
ハンナが、指の太さで厚みを示しました。
原因は、甕の中にはございませんでした。隅の寒さと、ずれた藁でございます。
甕を竈の側へ動かすことも考えました。けれど、液の満ちた甕を動かせば、底の澱が揺れます。工程四を、自分で破ることになります。
「甕は動かしません。風のほうを止めます」
そのとき、外から坂を下りてきたユリウス様が、戸口に立っていらっしゃいました。今朝もわたくしを工房の前まで送ってくださり、そのまま薪を運んでくださっていたのです。
「裏戸の前に、板を立ててもいいか」
「お願いいたします。ただ、戸の正面ではなく、甕と戸のあいだに。戸は、灰を運び出すのに使いますので」
「わかった。高さは」
「甕の肩より、手のひら一つ高く」
ユリウス様は、物置から古い干し場の戸板を二枚運んでこられました。立てる前に一度、わたくしを見ます。わたくしがうなずいてから、板は土間に据えられました。
藁の覆いは、わたくしとハンナで巻き直しました。紐は戸口の側で結ばず、甕の向こう側で結びます。風に引かれて、ほどけないためでございます。
それから、灰汁を茶碗に半分、麩をひと掴み、甕の縁から静かに足しました。かき回さず、上から落とすだけにいたします。
「今日は布を入れません。明日の朝、もう一度数えます」
◇
昼までに、染め手たちが揃いました。
ミアが、九つ目の甕の前で首をかしげます。
「予備の甕は、毎朝見ていても、一晩で冷えてしまうのですね」
「使わない日も、甕は生きておりますから」
予備の甕も、仕込んで以来、毎朝ほかの八つと同じに見立ててまいりました。昨日の朝は、十まで温みが残っておりました。一晩の冷えとずれた藁だけで、今朝は七つまでしか持たなかったのです。
札に足すことにいたしました。
予備の甕も、ほかの八つと同じに扱う。十まで数えられなかった朝は、布を入れない。灰汁と麩を縁から足し、覆いと風よけを確かめる。そして三朝続けて、十まで温みが残り、泡が紫であれば、布を入れてよい。
絵札はミアが描きました。甕に沈めた手と、刻み目十本。七本目のところで線が途切れた絵には、布を入れない印として、小さな×を添えます。その下に、朝日を三つ。
ハンナが朝日の下に刻みを入れ、紐を通しました。
「一朝、紫だったら、紐を一本掛けるのですね。水晒しの日数と同じに」
「ええ。三本揃うまでは、どれほど急いでも布は入れません」
字の読めない染め手が、ハンナの札を指でなぞりました。七本目で止まる線を、自分の手首で確かめるように。
◇
夕方、最後に九つ目の甕を見ました。まだ布を入れる日ではございませんが、覆いの上から手を当てて、藁の温みを確かめます。
朝から何度も冷えた甕に手を沈めたせいで、指がうまく曲がりませんでした。手袋をはめようとして、二度、取り落としました。
拾ってくださったのは、ユリウス様でございました。拾ったまま、すぐには差し出されません。
「あなたの手を、温めてもいいか」
お断りすれば、手袋だけが返ってくるのだと思います。この方は、そういう方でございます。
わたくしは、自分の手を見ました。爪の際まで藍が染みて、今は寒さで白っぽく見えます。
「はい。少しのあいだ、お願いいたします」
ユリウス様は手袋を外し、わたくしの両手を、ご自分の両手のあいだに挟まれました。握るのではなく、包むだけでございました。
腕を借りたことも、川辺で手に触れていただいたこともございます。けれど、冷えた両手を包んで温めていただくのは、初めてでございました。
「冷たいでしょう」
「甕よりは温かい」
「比べるものが、甕でございますか」
「あなたが一日、触れていたものだから」
指先に、少しずつ血が戻ってまいりました。痛いような、くすぐったいような感じがいたします。
「もう、曲がります」
「では、離してもいいか」
「……あと十、数えてからで」
ユリウス様は何もおっしゃらず、わたくしが十まで数え終えるのを待ってくださいました。今朝の甕は七つで温みを逃がしましたが、この手は十まで持ちました。
◇
翌朝、九つ目の甕は九つまで持ちました。泡は、白に紫が少し混じった色でございました。紐は掛けません。
その次の朝、十まで数えて、泡は紫でございました。一本目の紐を掛けました。
さらに次の朝も、その次の朝も、紫でございました。
三本の紐が揃ったのは、白い泡を見てから五日目のことです。急げば二日早く布を入れられたかもしれません。けれど二日早く入れた布がまだらになれば、精練からやり直すことになります。ミアの一反で、それはもう覚えました。
◇
その晩、館に姉からの手紙が届いておりました。
王都も、この冬はひどく冷えているそうです。組合の染め場では、年明けから藍の甕が三つ続けて機嫌を損ねたのに、注文の期日に合わせて染め続けたとのことでした。
空いた王宮の納入先を募る試しに、組合の布を自家の名で出した子爵家がございました。グラーフェン家には十年、資格がございませんので、資格のある家の名を借りたのでございましょう。
衣装局の公開の色止め試しで、その家の試し布は五枚のうち四枚が白布へ色を移しました。規則により、その家は一年のあいだ、王宮の納入先を募る試しに出ることができません。納めた試し料の金貨十枚も戻らないそうです。
子爵家は同じ日のうちに、組合に頼んでいた侍女の冬着三十反の注文を取り下げました。一反金貨四枚、計百二十枚でございます。
白い泡の甕で染めたのかどうか、わたくしには分かりません。分かる必要もございません。試しの台の上で、布がそう答えただけでございます。
手紙の終わりは、いつもより字が詰まっておりました。
『追伸。セドリック様が、ハーゼル行きの馬車を二台手配なさったそうです。荷台には、空の茜籠を積んでいると聞きました』
(第19話へ続く)
藍の甕は、現実でも冷えにとても弱いものです。昔の紺屋では甕を土間に埋めて保温し、寒い時期には甕のあいだで火を焚いて温めることもあったそうです。作中の工房では、藁の覆いと風よけの板、そして毎朝十まで数える手で冬を越していきます。お読みいただきありがとうございます。




