九本目の紐
ドーラとイルマは、包みを足元に置いたまま、しばらく黙っておりました。
朝の戸口には、川から上がってくる冷えが溜まっております。二人の吐く息が白く立ちのぼっては、軒の下でほどけていきました。わたくしの後ろでは、ハンナが竈の灰を掻く音がしておりました。その音も、いつのまにか止んでおりました。
先に口をひらいたのは、ドーラでした。
「組合の染め場を、昨日で終えてまいりました。こちらで、もう一度雇っていただけないでしょうか」
声は低く、よく通りました。前もって何度も口の中で言い慣らしてきた言葉なのだと、すぐに分かりました。
イルマが包みの紐をほどきました。かじかんだ指で、結び目に少し手間取っております。中には仕事着が二枚、きちんと畳まれておりました。袖口は藍に染まっておりましたが、工房の皆の袖より、ひとつ浅い色でございました。
「五度で上げろと、職人頭に言われておりました。九度まで浸けると、手が遅いと叱られました」
藍五度の色なら、この冬、何度も白布の上で見ております。呉服屋の検めから返された反物も、見本も、同じ浅さでございました。袖を見れば足りました。
「戸口では冷えます。どうぞ、中へ」
「雇っていただけるのですか」
「それは、わたくしが決めます。その前に、一度だけ手順を通していただきます」
情けで雇えば、情けの色しか上がりません。甕は、頼まれたから深く染めてくれるものではございませんので。
二人は顔を見合わせてから、うなずきました。
◇
竈に火が入り、藍の甕から温い匂いが立ちはじめるころ、ティモが衣装局からの書状を持ってまいりました。外套の肩に、細かな雪が残っております。
「王宮納入先の募集の結果です。組合の応募は、受け付けられませんでした」
ティモは封を切り、書状を読み上げました。この冬、呉服屋の検めで色を移して返された組合の反物は四度で合わせて二十四反、見本は三枚。けれど、それより前に、組合は色止め試しの判定で衣装局への出入りを五年止められております。募集も、有資格の家に限られておりました。
「応募に添えた試し布十反は、ひらかれずに返されたそうです。札のとおりに、ではなく、規則のとおりに」
御前染めの七日間、わたくしが審査官の前でしたのは、札のとおりに甕を回すことだけでございました。組合は暁染めの名を持ち出し、手順を持ち出さなかった。その差が、二十四反と三枚と、ひらかれない十反になっただけのことです。
ドーラが小さく申しました。
「それで昨日、染め場の日当が銀貨一枚に戻りました。引き抜かれた者は七人おりましたが、今朝まで残ったのは三人です」
銀貨三枚は、布が売れる見込みのある間だけのお値段だったようでございます。見込みの値段で雇った手は、見込みが消えれば、手ごと消えるものです。
わたくしは書状を畳んで、棚に戻しました。組合の応募がどうなろうと、今日の甕の数は変わりません。八つの甕と、予備がひとつ。覆いの下で、今朝も同じように息をしております。
◇
二人には、試しの布を一枚ずつ渡しました。藍九回の絵札を甕のそばに立て、ティモが検め役として隣に立ちます。ハンナとローザは自分の甕の前に戻り、ミアは絵札の筆を手元に置いたまま、こちらを見ておりました。
「刻みは九本。砂時計ひとつ分浸して、ひとつ分風に当てます。風当ては、布をひらいてから砂時計を返してください」
「覚えております」
イルマの手つきは確かでございました。浸す深さも、布をひらく幅も、工房にいたころと変わりません。甕から引き上げた布は、はじめ黄みがかった緑で、風に当たるうちに、ゆっくりと青へ移っていきます。冷たい空気の中で、布の端から湯気がうすく立っておりました。
変わっていたのは、数のほうでした。
五度目の風当てを終えたとき、イルマの手が自然に茜の甕のほうへ向かいました。迷いのない、慣れた動きでございました。
「イルマ、まだ」
ハンナの声で、イルマは手を止めました。布の端から、藍の雫がひとつ床に落ちました。
「……すみません。体が、五で覚えてしまって」
職人頭の言葉は、札を持ち出さなかった手にも残っておりました。紙より、ずっとしつこく。
ハンナは絵札の前にしゃがみ、刻み目を太い指でなぞりました。
「刻みは九本ありますけどね。指で数えるのを一度飛ばせば、五本で止まります。あたしでも、眠い朝はあぶない」
責める声ではございませんでした。ハンナは、自分の指のことを申しただけでございます。
「では、刻みのほうに、終えた数を残しましょう」
わたくしは水晒しの札に使っている紐を一束持ってまいりました。麻をよった、指に馴染む太さの紐です。日数の刻みに紐を掛けるのと同じことを、藍の刻みにもいたします。
「一度浸して風に当て終えたら、浸した本人が刻みに紐を一本掛けます。九本目の刻みに紐が掛かるまで、布を茜の甕へ運びません」
「運ぶ前に、誰が確かめますか」
ティモが尋ねました。検め役の顔でございました。
「浸した人とは別の一人が、紐を指で数えます。数えた人は、紐の端を一度引いて、九本そろったと声に出します」
ミアがその場で絵札を一枚描きました。刻み九本の上に、九本の紐。その横に、別の手が紐の端を引いている絵でございます。墨がまだ乾かないうちに、ハンナが小刀で、紐を掛ける溝を刻みのそばに一本ずつ入れました。木屑が、甕の縁に小さく散りました。
字の読めない者にも、字の読める眠い者にも、同じように数えられる札でございました。札が二十一枚から増えるたびに、わたくしの頭の中から、ひとつずつ荷が下りていきます。
イルマは六度目から、布を浸すたびに紐を掛けました。ドーラも同じようにいたしました。紐を溝に掛けるとき、二人とも一度、指で刻みを確かめてから掛けておりました。九本目の紐を掛けたあと、ドーラの布はローザが、イルマの布はハンナが数えました。
「九本」
「九本」
紐の端を引く、乾いた音がふたつ続きました。
二枚の布を、ハンナが染めた見本の九回の布と並べました。ティモが一枚ずつ灯りにかざします。
「色の深さは、見本と同じです。そちらの袖とは違います」
ドーラが自分の仕事着の袖を、試しの布の隣に置きました。浅い藍と深い藍が、竿の上で並びました。
四度の差は、誰の目にも分かりました。ドーラは長いあいだ、自分の袖を見ておりました。何も申しませんでした。
◇
日が傾くころ、わたくしは二人を呼びました。甕の覆いを半分ほど戻し終えた工房には、藍と灰汁の匂いだけが残っております。
「明日から、お二人を雇います。日当は銀貨一枚。ほかの十人と同じでございます」
「三枚では、ないのですね」
「はい。工房の日当は、ずっと一枚です」
ドーラは少し考えてから、頭を下げました。
「それで働かせてください。一枚のほうが、色が落ちません」
イルマも続きました。決めたのは、お二人でございます。わたくしは、手順を通した手を雇っただけでございます。
工房届の綴りを出すと、二人の目がそこで止まりました。十人の署名が並ぶ紙です。ハンナたち四人の名も、本人の手で書かれております。曲がった線も、太すぎる線もございますが、どれも本人の線でございました。
「わたしたち、字が」
「あたしが教えようか。自分の名なら、十日で書けたよ」
ハンナの申し出に、ドーラは首を振りかけて、やめました。
「自分で書けるようになってから、載せてください。それまでは、紐を掛ける手で働きます」
「かしこまりました」
綴りの余白は、空けたままにいたしました。
明日の染め手は十二人でございます。届の名は、まだ十人です。
◇
工房を閉めると、外はもう暗くなっておりました。迎えにいらしたユリウス様は、戸口で二人の仕事着の包みに目を留められました。外套の襟に、夜の霜がうすく光っております。
「二人が戻ったことを、館の者に伝えてもいいか」
「わたくしが届に書き添えてからにしてください。明日の朝、自分で書きます」
「分かった」
ユリウス様は、それ以上お尋ねになりませんでした。誰が戻り、なぜ戻ったのか。お聞きになりたいことはおありだったでしょうに、わたくしが書くと申した以上、わたくしが書くまでお待ちになる方でございます。
館への坂道は、昼の雪が溶けて、夜の冷えで固まっておりました。月の光を受けて、道の真ん中だけが鈍く光っております。わたくしの靴の先が、一度すべりました。
「足元が凍っている。腕を貸してもいいか」
お断りすることもできました。工房から館まで、一人で歩けない道ではございません。この冬、何度も一人で上った坂です。
けれど、今夜の坂は、借りたほうが安全な坂でございました。意地で転んでも、明日の甕は誰も回してくれません。
「はい。館の門まで、お願いいたします」
わたくしは青い手を、ユリウス様の外套の腕に掛けました。一日藍に浸かった指先は、まだ少し染みております。布越しでも、手袋越しでも、そこに腕がございました。思っていたより、しっかりと動かない腕でございました。
「歩く速さは、あなたに合わせてもいいか」
「わたくしが合わせます。ユリウス様は、いつもどおりに」
「では、いつもどおりに」
いつもどおりの歩幅は、わたくしの思っていたより、ずっと短うございました。
わたくしに合わせないとおっしゃって、最初から合わせていらしたのだと思います。それを指摘するのは、門に着いてからにいたしました。指摘したところで、きっと、いつもどおりだとお答えになるのでしょうけれど。
二人分の足音が、凍った道に小さく響きました。言葉はそれきりで、それで足りておりました。
門の前で腕を離すと、指先が少し冷えました。
「明日の朝も、この坂は凍っておりますでしょうか」
「おそらく」
「それでしたら、朝もお願いいたします」
「迎えに行ってもいいか」
「はい。日の出の前に」
門の灯りの下で、ユリウス様は短くうなずかれました。
◇
翌朝、ユリウス様の腕を借りて坂を下り、わたくしは工房の戸をあけました。空はまだ藍の三度目くらいの色で、戸の内側の空気は、外よりも少しだけ温うございました。
竈の火を起こし、甕の覆いを順に外していきます。覆いを上げるたびに、甕の匂いがふわりと顔にかかりました。八つの甕の泡は、どれも紫でございました。昨日と同じ、機嫌のよい色です。
最後に、九つ目の予備の甕の覆いを外しました。
手首まで沈めて数えはじめると、七つ目で、温みが指の間から逃げていきました。
浮いてきた泡は、紫ではなく、濁った白でございました。
(第18話へ続く)
藍で染めた布は、甕から引き上げた直後は黄みがかった緑色で、空気に触れるうちに青へ変わっていきます。作中の風当ては、この色の移りを待つための時間です。浸しと風当てを重ねるほど色は深くなるので、九回と五回の差が袖にそのまま残りました。お読みいただきありがとうございます。




