見てから決める手
「かしこまりました。今のお勤めを辞めるお約束は、必要ございません」
わたくしがそう申し上げると、若い女性は、揃えていた指を少しほどきました。
王都の呉服屋の試し台には、八反を確かめた二十四枚の白布が、まだ並んでおりました。彼女の指先についていた裁ち屑が、その一枚の端へ落ちました。
「名は、ネレと申します。布を裁つ前の印つけと、包みをしております」
「工房では、何をご覧になりたいですか」
「染めたあと、どこまで確かめてから、売ってよいと決めるのかを」
染め方を覚えたいという方から、売る前のことを尋ねられました。
わたくしは、台の白布へ目を落としました。
「では、仕上げの試しまでご覧ください。甕へ入れるところだけでは、終わりませんので」
店主は、ネレさんに六日の休みを出すと申しました。ハーゼルへの往復で四日。工房で過ごせるのは二日でございます。
「二日で、一反を初めから終わりまで染めることはできません」
「はい。全部できるようになって戻るとは、申しません」
お返事は、小さいながらも明瞭でした。
できないことを先に言える方は、砂時計が落ちきるのを待てそうでございます。
何でもできるとおっしゃる方ほど、待つ時間をお嫌いでした。
◇
出立する朝、呉服屋では、裏口に六反の布が積まれておりました。
夜明け工房の八反とは別の包みでした。組合の荷印がございます。
店主の隣には、仕入れ先との返品に立ち会う審査官が一人おりました。台には水の入った器と、青く汚れた白布が六枚。
「冬物の裏地にと、先月仕入れた六反です。一反につき金貨三枚。昨日と同じように確かめましたら、このとおりでした」
店主は、わたくしに判定を求めませんでした。すでに審査官の前で洗い直したそうでございます。
「組合側は、表から見えない裏地なら差し支えないと申しましたが」
審査官が六枚目の白布を持ち上げました。
「肌着に色が移る布を、色止め済みとして渡すことはできません。六反すべて返品。代金十八枚は、今朝、返されました」
店主が受け取った金貨を、店の者が奥へ運んでおりました。
見えないところなら構わない。
見えないところほど、着る方には近いのですけれど。
わたくしは口には出さず、道中用の手袋をはめました。
ネレさんは、返す布の包みを閉じるまで見届けてから、店主に頭を下げました。
「行ってまいります」
彼女が持ったのは、小さな着替えの包み一つでした。裁ち鋏は、店の引き出しに残したそうでございます。
◇
ハーゼルへ戻った翌朝、ネレさんを工房へお連れしました。
川辺の道には薄く雪が残っておりましたが、水路の出口からは水が落ちております。
戸を開けると、ハンナが柱の絵札を指で確かめておりました。ミアは砂時計のそばで、布を受ける桶を用意しております。
「こちらで働くと決まった方ですか」
「いいえ。二日間、ご覧になる方です」
わたくしが答えると、ハンナは頷いて、通り道の桶を寄せました。
「では、最初はこちら側に。濡れた布が通りますから」
ネレさんのために甕を空けたり、誰かの仕事を止めたりはいたしませんでした。
工房の朝は、見学の日にも同じように進みます。
藍の刻みは九本。浸す時間も、風に当てる時間も、砂時計ひとつ分。布をひらく場所には、隣の布と重ならない幅が取ってございます。
ネレさんは札と手元を交互に見ておりました。
「九度とも、同じことをするのですね」
「はい。同じ幅にひらくところまで」
ミアが答えました。
その声には、自分の布を精練からやり直した者の慎重さがございました。
昼前、仕上がった一反から試し布を取るところで、ネレさんが首を傾げました。
「店では、右と真ん中と左を、別々に置きました。ここでは、洗ったあとも、どこの布か分かりますか」
台には、幅の両端と中央から取った小片が並んでおりました。乾いているうちは、置いた順で分かります。
けれど、洗う者と確かめる者が替われば、順を聞き直さねばなりません。
「今は、置き場所で分けております」
「桶を動かしたら、わたしは取り違えそうです」
わたくしは小片を一枚持ち上げました。
取り違えない人を待つより、取り違えても分かるようにするほうが、早そうでした。
「端に、切り込みを入れましょうか」
試しに使う面から離れた端へ、浅い切り込みを入れました。片端から取ったものに一つ、中央に二つ、もう片端に三つ。
布の絵にも、同じ場所へ同じ数を刻みます。
ハンナが三枚を指でなぞりました。
「これなら、濡れても残りますね」
「はい。どの小片か分からなくなったときは、推し量らず、取り直してください」
ネレさんに三枚の置き場所を替えていただきました。
戻ってきたミアは、切り込みを数え、絵札の上へ一枚ずつ置きました。三枚とも、採った場所へ戻ります。
覚えておく頭が一つ減りましても、確かめる手は減りませんでした。
その日の水洗いでは、三枚に添えた白布のどれにも、青は移りませんでした。ネレさん自身にも、窓辺の明るい場所で確かめていただきました。
「店の者でも、同じようにできますか」
「はい。採った場所の印を、布の絵と揃えておけば」
ネレさんは、借りた鋏を台へ戻しました。
朝から一度も触れていなかった甕より、三枚の小片の前に長く立っておいででした。
◇
夕刻、ユリウス様が工房の戸口で尋ねられました。
「少し、あなたと帰り道の相談をしてもいいか」
「どうぞ」
「館へ戻る前に、川沿いを歩いてもいいか。あなたが疲れていなければ」
わたくしは窓の外を見ました。水路の覆い板には、昼の見回りで積もった雪を払った跡がございます。
「川沿いですと、また引き口を見たくなります」
「では、今日はやめておこう」
ユリウス様は、すぐにそうお答えになりました。
わたくしは前掛けを外し、釘へ掛けました。
「市場のほうを歩きたいです。閉まる前に、焼き栗を買えますので」
「そちらへ、ご一緒してもいいか」
「はい」
市場へ曲がる道は、工房から館への近道ではございませんでした。
急いで帰る用事も、ございませんでした。
屋台で紙包みを二つ買い、一つをユリウス様へお渡ししました。代金は、わたくしが自分の財布から出しました。
「今日は、わたくしがご一緒したかったので」
「ありがとう」
歩きながら栗を剥くのは、染めより不得手でした。手袋を外しても、薄皮がなかなか離れません。
「包みを持っていてもいいか」
「お願いいたします。栗は、自分で剥きます」
ユリウス様は包みだけを受け取られました。
わたくしは、少し崩れた一粒をようやく取り出しました。
代わっていただくところを、自分で決められます。全部を任せるか、全部を抱えるか、その二つだけではございませんでした。
「次も、市場がよろしいです」
「また誘ってもいいか」
「はい。仕事の帰りでない日にも」
剥き終えた栗は、まだ温かくございました。
◇
二日目の終わりに、ネレさんはご自分から申し出ました。
「店へ戻ります。染め手になるかどうかは、まだ決められませんでした」
「かしこまりました」
「でも、戻ってしたい仕事は決まりました。仕入れた布を、包む前に確かめたいです。昨日の切り込みを、店でも使いたいのです」
「どうぞ。店主様と、試し布を取る場所もお決めになってください」
わたくしは、布の幅を描いた絵札を一枚、差し上げました。ネレさんが切り込みの数を書き添え、ハンナが実物の小片と並べて確かめます。
「見せていただいたのに、こちらへ残らなくてもよいのでしょうか」
「ご覧になるために、いらしたのでしょう」
「はい」
「それでしたら、お約束どおりでございます」
ネレさんは札を両手で受け取りました。
人を一人迎えたからといって、工房の人数が必ず一人増えるわけではございません。
明日も、染め手は十人です。
けれど、王都で布を包む前に確かめる手が、一つ増えます。
わたくしには、それで十分でございました。
翌朝、ネレさんを乗せた乗合馬車を見送ってから、工房へ戻りました。
戸口の雪に、二人ぶんの新しい足跡がついておりました。
軒下に女の方が二人、立っております。それぞれの足元には、使い込んだ仕事着を括った包みがございました。
わたくしが近づくと、二人は道を空けました。
日当銀貨三枚で組合へ移った、ドーラとイルマでございました。
(第17話へ続く)
試し布の端に入れた切り込みは、洋裁で型紙を縫い合わせるときに付ける合印に近い考え方です。墨の書き込みは洗えば薄れることがありますが、切り込みなら濡れても形が残ります。作中の工房では、片端が一つ、中央が二つ、もう片端が三つと決めております。お読みいただきありがとうございます。




