幅いっぱいの朝
翌朝、八反の布をひらく場所には、七反ぶんの竿しか掛けられませんでした。
乾いた布で試したときには、足りているように見えたのでございます。けれど、隣の布に触れず、人が間を通れる幅を取りますと、最後の一反が収まりません。
「ここを詰めれば、もう一本」
ミアが竿の端を持ったまま申しました。
ハンナが、その隙間へ両腕を入れました。肘を少し動かしただけで、左右の白布が揺れます。
「濡れて重くなったら、くっつきますね」
「はい。八反目の場所を、先に作りましょう」
布は、注文の数を存じません。
八反とお約束したからといって、身を細くしてはくださいませんでした。
使っていなかった奥の干し場を片づけ、竿を掛け直しました。グレーテとベルタが一反をひらき、その間をハンナが通ります。今度はどちらの布にも触れませんでした。
それから、最初の砂時計を返しました。
藍へ浸す九度も、風に当てる九度も、八反それぞれにございます。急ぐために重ねれば、先日ここへ届いた、片側だけ淡い布と同じことになってしまいます。
わたくしは七つ目の甕まで進み、振り返りました。
奥の竿にも、布をひらく二人の手がございました。
誰か一人が八反を見るのではなく、受け持った一反をひらき、次の手へ渡しておりました。
それならば、八反をお引き受けできます。
◇
王都の呉服屋から返事が届いたのは、茜の仕上げ浸しを終えた日でした。
一反金貨十二枚で八反。受け取りの前に、店の者の立ち会いで水洗いを試すこと。そのために使う分は、注文の長さとは別に残しておくこと。
こちらからお送りした条件に、店主の承諾が添えられておりました。
ただ、一つだけ問いがございました。
『試しに使うのは、布のどの部分でしょうか』
わたくしは水晒しを待つ布を、作業台にひらきました。
端から小さく切り取れば、売り物を減らさずに済みます。けれど、片側を握り込んだ布では、その小片がどちら側から取られたかによって、確かめられるものが違います。
「幅いっぱいに、細くいただきましょう」
わたくしが指を渡しますと、ティモが反対側へ回りました。
「こちらの耳から、向こうの耳までですか」
「はい。染め終わりの一端から。左と真ん中と右を、別々に試します」
ハンナが長い長方形を描き、二本の線で三つに分けました。その下へ、白布を三枚描き添えます。
試しの小片と白布を置く場所にも、一つ、二つ、三つと刻みを入れました。
色が移ったとき、どの場所の布だったかを、字の読めない者にも戻って確かめられるようにするためでございます。
「白布は、混ぜないんですね」
「はい。一枚が青くなったのを、三枚の中へ紛れさせてはいけません」
数が増えれば薄まる、という都合のよい決まりはございませんでした。
水晒しの三日を数え終えてから、八反すべてに同じ試しをいたしました。水の量をそろえ、洗った小片をそれぞれの白布に重ねます。
二十四枚の白布を、乾かして並べました。
ハンナが左から数え、ミアが右から確かめました。青の移っていない白布の上で、二人の指が行き合いました。
店で試すための幅も残し、八反を包みました。
◇
「王都へ、私も同行してもいいか」
出発の二日前、ユリウス様が尋ねられました。
わたくしは、荷造りの済んだ包みから顔を上げました。
「お店とのお話は、わたくしがいたします」
「ああ。あなたが話す間、口を挟まずにいる。道中をご一緒してもいいか」
「はい。それでしたら」
お返事をしてから、少し考えました。
納品のためにまいるのですから、工房の話だけをすれば足ります。けれど、それだけで二日の道を埋めなくてもよいことを、炉のそばの二つの椅子が教えてくれておりました。
「帰りには、少し寄り道をしたいです。川沿いの道に、冬にも開いているパン屋がございましたね」
「ある。そこで昼を取れるよう、帰りの馬車の時刻を調整してもいいか」
「お願いいたします」
急いで戻らなければ失う一刻と、戻る途中に使ってよい一刻を、同じものにしなくてもよいのでした。
留守の甕は、ハンナたちに頼みました。
七日ごとの麩も、予備の甕も、柱と札を見れば確かめられます。わたくしが王都へ行くために、新しい指示を幾重にも積む必要はございませんでした。
◇
呉服屋の店先には、低い試し台が用意されておりました。
白い器が三つ。水差しが一つ。まだ使われていない白布が三枚。
店主は、衣装局の公開の色止め試しを見に行った方でした。今回は店で雇った染め物の検め人も立ち会うとのことで、その方が器の内側まで確かめておりました。
「お忙しいところ、ご足労を。まず一反、こちらで開かせていただきます」
「どうぞ」
包みを解くのは店の者、試す一反を選ぶのは検め人と決まっておりました。
わたくしは、選ばれた包みに手を伸ばさずに待ちました。
奥の台から、若い店員が別の布包みを運び出しておりました。口の開いた包みには、青い染みのついた白布が挟まっております。
「そちらは、返す品です」
店主が店員に申しました。
「組合の引き取り人が来たら、四反とも渡してください」
返却する四反は、組合が一反金貨三枚で別の店へ納め、ここへ回してきたものだそうでございます。二つの店が共同で受け取りを検めたところ、白布に青が移りました。
代金の金貨十二枚は、今朝、組合から返されておりました。
「元顧問の方は、店頭で洗うから傷むのだとおっしゃいましたが」
店主は、空の器を一つずつ試し台へ置き直しました。
「お客様のお宅でも、洗いますので」
洗わない布だけをお売りになるのでしたら、ずいぶん狭い商いでございます。
わたくしは何も申しませんでした。
四反は裏口へ運ばれ、こちらの一反がひらかれました。
店の奥から差す冬の光の中に、夜明け色が広がります。
検め人は、布幅いっぱいに残しておいた試しの部分を切り取りました。それを三つに分け、こちらの絵札と同じ順に置きます。
洗う手も、白布へ押し当てる手も、わたくしの手ではございません。
御前染めで、わたくしが手を出さずに待った時間を、ほんの少し思い出しました。あのときも、確かめる方々の前に布がございました。
一枚目の白布が離されました。
続いて二枚目、三枚目。
検め人は窓辺へ移し、店主だけでなく、二人の店員にも見せました。
「三か所とも、青の移りは認めません」
店主が息を吐きました。
「残る七反も、同じようにお願いいたします」
最初の一反だけで済ませることもできました。けれど、八反を売る店の方が、八反を確かめたいとお決めになったのでございます。
「かしこまりました」
昼を過ぎるころ、二十四枚の白布が店の台に並びました。
八反すべての受け取りが決まり、金貨九十六枚が支払われました。
名前だけで通った一反は、一つもございませんでした。
◇
「お代の受領は、伯爵様へお渡しすればよろしいでしょうか」
店主が尋ねたとき、ユリウス様はお答えになりませんでした。
わたくしが、自分の手を差し出しました。
「わたくしへ。夜明け工房の品でございます」
「失礼いたしました」
受領の紙を受け取り、折ってしまいました。
店主の目が、わたくしとユリウス様の間を一度だけ行き来しました。付き添いの伯爵様を、どうお呼びすればよいか迷われたようでした。
ユリウス様が、静かに尋ねられました。
「あなたの婚約者として、ご挨拶してもいいか」
工房の代わりに答えるためのお名前ではございませんでした。
わたくしの隣にいる理由を、ご自身の口でお伝えになるための問いでした。
「はい。お願いいたします」
「リーゼロッテの婚約者の、ユリウス・ハーゼルです」
届けには、もう二人の署名がそろっております。
それでも、仕事を終えた売り場で聞くその言葉は、紙の上とは違う重みを持っておりました。
わたくしは受領の紙をしまった鞄を、自分で持ちました。
その隣に立っていただくことは、重荷ではございませんでした。
帰り支度をしておりますと、店主が店員を呼びました。
「残る八反の相談は、まだお待ちします。その前に、一つお願いがございます」
先ほどまで器を運んでいた若い女性が、試し台の前へ出てまいりました。指先には、裁ち屑の白い糸がついております。
「この者にも、工房を見せていただけませんか。本人が、染める仕事を覚えたいと申しております」
女性は店主の言葉を待ち終えてから、わたくしへ頭を下げました。
「店を辞めるかどうかも、見てから自分で決めたいのです」
(第16話へ続く)
今回、試しの布を幅いっぱいに取ったのは、左右で色の具合が違うと端の小片だけでは見逃すからです。洗った布に白布を重ねて色の移りを見るやり方は、現実でもよく使われる確かめ方です。作中では白布の置き場にも刻みを入れています。お読みいただきありがとうございます。
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