布をひらく手
淡い方の半分には、細い筋が幾本も残っておりました。
わたくしは布を作業台に広げました。濃い側と淡い側の境を、指で押さえます。まっすぐ切り分けたように見えた境目は、よく見ると、幾重にも折れた跡に沿っておりました。
「お名前を、伺ってもよろしいでしょうか」
「レーネです。姉のマルタと、二人で染めています」
「では、レーネさん。布を甕から上げたあと、どのように持っていらしたか、見せていただけますか」
レーネさんは、差し出しかけた茶碗の札を引っ込めました。
「一杯の量では、ないのでしょうか」
「まだ分かりません。順に確かめましょう」
茶碗の線を直したからといって、その先の手まで同じになるわけではございません。
札は、人の指を勝手に開いてはくれませんでした。
練習に使う白い端布を渡すと、レーネさんは片端を握りました。反対の端は、ミアが持ちます。
「姉がそちらを持って、わたしがこちらを。甕には二人で広げて入れました」
持ち上げるところを見せていただくと、ミアは両手を離して布幅を保ちました。レーネさんは、滴を受ける桶の上で、自分の側を細く寄せました。
そのまま、両手で軽くねじりました。
「水が床へ落ちるので。絞ってから、砂時計を返していました」
「その十五分の間は」
「こうして、持っていました。次に沈める前には、ひらきました」
寄せた布は、濡れれば何枚も重なります。外側に風が当たっても、内側まで同じようには届きません。
けれど、それだけで決めつけることはできませんでした。
「お姉様の側も、同じように絞りましたか」
「いいえ。姉には、ひらいてと言われました。でも、次に甕へ入れるときのことだと思って」
レーネさんの目が、作業台の布へ落ちました。
「同じ十五分なのに」
「はい。砂は、同じように落ちます」
布が重なっている間にも。
ずいぶん律儀で、融通の利かない道具でございます。
わたくしは、茶碗の札の隣へ、風に当てる絵札を置きました。布の絵と、砂時計が一つ。描かれた布はひらいておりますが、折り重ねてはいけないとは、どこにも示しておりませんでした。
「まず、小さな布で比べましょう。違いが出たら、持ち方を替えて、もう一度」
「わたしが、やってもいいですか」
「どうぞ」
レーネさんの指は、布を離しませんでした。
それでよいのでございます。
◇
同じ白布から、隣り合う二枚を切りました。精練も、水に含ませるところも一緒にいたします。
同じ甕へ、重ならないように沈め、砂時計一つ分で上げます。
一枚はレーネさんがひらいて持ち、もう一枚はわたくしが細く寄せて持ちました。どちらも桶の上でございます。床へ滴が落ちるからと、布をまとめなくても済むようにいたしました。
風に当てる砂時計を返します。
寄せた布を時間の終わりにひらくと、重なっていたところに、色の浅い筋が残っておりました。ひらいて持った布には、同じ筋がございません。
次は、新しい二枚で、持ち方を替えました。
今度も、筋が残ったのは寄せた方でした。
「わたしが持ったから、ではないのですね」
「はい。わたくしが持っても、寄せれば同じでした」
レーネさんは二組を並べ、端を揃えました。
人を替えても、同じ持ち方なら同じ跡が残ります。それを自分の手で確かめてから、ようやく肩が下がりました。
「姉は、わたしの手が冷たいせいかもしれないと」
「手は温めてくださいませ。けれど、布はひらきましょう」
冷たい手に、すべてを引き受けさせる必要はございません。
青い手にも、ございませんでした。
ハンナが、二枚の布の間へ太い指を置きました。
「札の布も、端を持つ手があれば分かりますね。ここと、ここに」
ミアが板の欠片に描いたのは、布の両端を離して持つ二つの手でした。その隣には、ひだが重なった布を描き、斜めの線を引きます。
さらに、布をひらいた絵から砂時計へ、短い矢印を足しました。
ひらいてから、砂時計を返す。
十五分の始まりを、そこへ置きました。
「これなら、妹にも説明できます」
レーネさんはそう言い、すぐに口を閉じました。
「妹は、わたしでした」
「では、お姉様に」
「はい。今度は、わたしから」
わたくしは新しい札を彼女の前へ寄せました。
正しい答えを聞くだけなら、短い時間で済みます。けれど、持ち帰って誰かに渡すには、自分でやってみた十五分が要るのでございました。
◇
持ち込まれた一枚を、その場で染め直すことはいたしませんでした。濃い側まで重ねて染めれば、今度はそちらが深くなります。
「この布は、姉と相談してからにします」
「はい」
レーネさんは自分で包み直しました。
その日は工房に残り、小さな試し布で九度の浸しと九度の風当てを終えました。帰る時刻が遅くなるため、宿を取るか、途中で切り上げるかを尋ねると、彼女は宿を選びました。
翌日からの茜の工程も、ご自身で確かめていただきます。灰汁の見立てには卵を使い、殻が銅貨一枚ぶん出るところを見ました。茶碗は、マルタさんが決めた一杯の線を使いました。
新しい札が一枚増えても、前の札を省いてよいことにはなりません。
水晒しの三日には、引き口と籠のそばと出口を見ました。
最後の刻みに紐が掛かった朝、乾かした二枚の試し布を、明るい戸口に並べました。どちらもひらいて染めた布でございます。
一枚はレーネさん。もう一枚はミア。
並べた端に、持ち込まれた布のような濃淡の境はございませんでした。端を洗い、白布に重ねて押さえ、青が移らないことも二人で確かめました。
「姉となら、もっと大きな布をひらけます」
レーネさんはそう言ってから、札に描いた二つの手を指しました。
「でも、大きすぎたら、二人で持てる幅までにします」
「そのようになさってくださいませ」
できる量を決めるところまで、彼女の仕事でございました。
◇
レーネさんが帰った午後、王都から届いた衣装局の回状を、ティモが作業台で読み上げました。
王都の呉服屋への冬の納入に先立つ、店先での見本布の公開審査についてでございます。組合の出した見本三枚は、三枚とも水洗いで添え布に青を移しました。
それでもクレーマーは、反物にして納めれば目立たないと主張したそうです。
審査官は、見本にも納品にも同じ条件を用いると答えました。
組合が受注を望んでいた侍女用の帯地二十本は、候補から外されました。一本銀貨六枚、合わせて銀貨百二十枚の仕事でございました。
今度は、前金さえ支払われませんでした。
「呉服屋へ染め直した見本を出せば、いつでも店先で同じ試しを受けられる、とあります」
ティモは末尾まで読みました。
条件は、閉ざされておりませんでした。
省いた手順の方へ戻る道を、あちらが歩かないだけでございます。
わたくしは回状を畳み、工房の皆が読める場所へ置きました。字を読めない四人には、ティモがもう一度、数字を区切って読みました。
そのあとで、ハンナは風当ての札を持ち上げました。
「こっちは、明日の八反にも使いますね」
「はい。布をひらく場所も、八反ぶん確かめましょう」
わたくしたちの相談は、そちらでございました。
◇
夕刻、ユリウス様が工房の戸口にいらっしゃいました。
「隣で、札を見てもいいか」
「どうぞ」
新しい絵札をご覧になったユリウス様は、二つの手の絵に目を留められました。
「私にも、持ってみさせてもいいか」
「こちらの乾いた布でしたら」
わたくしは練習用の白布の片端を差し出しました。ユリウス様が受け取られ、二人の間に白い幅がひらきます。
「このくらいだろうか」
「もう少し、左を高く。はい、そのままで」
布越しに指示をしても、何も損なわれませんでした。伯爵様のお立場も、婚約者という間柄も。
以前のわたくしは、誰かに持っていただくより、自分の手を増やす方法ばかり考えていたように思います。
無理な注文でございました。指は十本から増えません。
「明日も、あなたが必要なら、端を持つ時間をいただいてもいいか」
「明日は、染め手で足ります」
「分かった」
布の端は、そのまま静かに保たれておりました。
断ったあとにも、今の一枚は落ちませんでした。
「けれど、今夜は」
わたくしは布を受け取り、二つに畳みました。
「夕食のあとも、少しご一緒したいです。仕事のお話がなくても」
「小さな食堂の炉のそばに、椅子を二つ用意してもいいか」
「はい。隣に、お願いいたします」
用事がなければお隣に座れない、という決まりは、どこにもございませんでした。
ようやく一つ、わたくし自身の余計な手順を省けました。
工房を閉める前に、わたくしは呉服屋へ送る八反の相談書を取り出しました。
納める日と値を確かめ、その下の余白へ、一行を加えます。
『初めの一反は、お店の皆様の前で、白布を添えた水洗いの試しにお掛けください』
売り場にも、確かめる場所を作りたいと思いました。
わたくしはその一行を残して、封をいたしました。
(第15話へ続く)
藍で染めた布は、甕から上げた直後は緑がかっていて、空気に触れるうちに青へ変わっていきます。風に当てる十五分は、乾かすためというより、色を育てるための時間です。布を寄せて重ねた内側に浅い筋が残ったのは、そこまで風が届かなかったからでした。お読みいただきありがとうございます。




