第5話 紙
「ここ、どこ?」
咲は見慣れぬ部屋を見回した。
そこは、咲が寝ていた大きなベッドとソファー、ローテーブルがあるだけの簡素な部屋だった。
ほかにも扉が三つあることから、おそらくその中にトイレや浴室があるのだろうと想像がついた。
昨夜飲んだ酒のせいか、頭が痛い。
起き上がろうとして、咲は下腹部に違和感を覚えた。
(まさか……!?)
軽い羽毛布団を持ち上げて自分の身体を確認すると、下着すら身につけていなかった。
よく見ると、ソファーの前には咲の服が脱ぎ散らかされている。
咲はサァーッと血の気が引いていくのを感じた。
(あいつ、信じられない! 私、初めてだったのに……!)
こみ上げる怒りに、咲は拳を強く握りしめた。
***
大学に着くと、咲は腕時計型端末で孝治にメッセージを送った。
孝治が来るのを待つ間、中庭のベンチに腰を下ろしていると、なぜか周りの学生たちが咲を見てヒソヒソと話していることに気づいた。
「おまえが行けよ」「おまえが先に行けって」男子学生たちはヘラヘラと笑いながら、小突き合っている。
一方、少し離れた場所では、女子学生のグループが軽蔑のこもった視線をあからさまに咲へ向け、何やら小声で話しながら蔑むような笑みを浮かべていた。
まるで自分だけが知らない何かが噂されているような薄気味悪さを感じて咲が眉をひそめていると、孝治が息を切らせて走ってきた。
「悪い! あれは俺がやったんじゃなくて、睦が勝手にばら撒いたんだ」
孝治が何を言っているのか分からず、咲は眉をひそめた。
何だかひどく胸がざわついた。
何か、とても嫌な予感がする。
その予感を裏付けるように、教授からデバイスに電話がかかってきた。
「今すぐ学部長室に来てください」
事務的で冷たい声に、咲は指先が冷たくなっていくのを感じた。
***
「失礼します」
学部長室に入ると、そこには重厚なマホガニーのデスクに深く腰掛けた学部長と、直立不動で佇む教授の姿があった。
学部長は組んだ両手の上に顎を乗せ、品定めするような冷徹な視線を咲に向けている。
その傍らに立つ教授もまた、冷ややかな視線を咲に注いでいた。
二人の視線が同時に自分へ向けられ、咲は思わず足がすくみそうになった。
だが、それ以上に咲の目を引いたのは、大きなデスクの上に乱雑に積み上げられた大量の「紙」だった。
「……君が、小山咲さんだね」
静寂を破ったのは、デスクの奥から響く学部長の低い声だった。
感情の起伏がまるで感じられない、事務的な響きだった。
「呼び出した理由は分かっているはずだ。今朝から、キャンパス内でこれの目撃情報が相次いでいる」
学部長は積み上げられた紙の束から一枚を無造作に取り、咲の前に滑らせた。
そこに印刷されていたのは、今朝、咲が目覚めたホテルのベッドで、下着すら身につけずに眠りこけている自分自身の姿だった。
「これは……っ!」
咲は息を呑み、両手で口を覆った。
血の気が一気に引き、頭の芯がジーンと痺れていく。
中庭で学生たちがヒソヒソと話していたのは、この紙を見たからに違いない。
咲の青ざめた顔を見て、学部長は教授と視線を交わした。
言葉は交わさなかったが、何か納得した様子で学部長が小さく頷いた。
「これは、君がばら撒いたものではないんだね?」
耳を疑うような言葉に、咲は即座に否定した。
「私じゃありません! こんなもの……ばら撒くはずがない!」
次第に声が小さくなっていく。
学部長は感情のこもらない静かな声で話し始めた。
「今の時代、ネットワーク上の不正な画像転送は、システムによって即座に遮断される」
学部長はデスクの紙を指先でトントンと叩いた。
「だが、犯人はそれを逆手に取った。画像を紙に印刷し、学内にばら撒いたのだ。デジタルの規制をすり抜けた、極めて悪質な犯行だ」
あまりの理不尽さと、そこまでして自分を陥れようとした犯人の悪意に、咲は口元に当てた指先が小刻みに震えるのを感じた。
先ほど中庭で孝治が口にした「睦が勝手にばら撒いた」という言葉が、最悪の形でつながっていく。
「大学の品位を著しく損なう行為だ。今も教職員総出で学内に残った紙を拾い集めさせている」
それまで学部長の隣で黙って咲を見下ろしていた教授が口を開いた。
「小山さん。これだけ実物がばら撒かれては、言い逃れはできません。すでに一部は、学外の人間の目にも触れている可能性があります。……大学側としては、君の処分も視野に入れて検討せざるを得ません」
教授の冷徹な言葉が、咲の鼓膜を鋭く刺した。
あまりの理不尽さに、咲の頭の中で何かが激しく弾けた。
拳を握りしめ、二人の大人を真っ直ぐに見据える。
「どうして……どうして私が処分されなきゃいけないんですか!? 私は被害者です! 犯人が勝手に写真を撮って、勝手に紙でばら撒いたのに、なんで私だけが責められるんですか!?」
静かな学部長室に、咲の悲痛な叫びが響き渡った。
怒りと悔しさで視界がにじむ。
「小山さん、声を落としなさい」
学部長の横に立つ教授が、遮るように冷たく窘めた。
そのスーツのポケットには、先ほどまで外で必死に拾い集めていたのだろう、クシャクシャに丸められた同じ紙が覗いていた。
「我々だって、これ以上醜聞が広がることは本意ではありません。だからこそ、こうして教職員総出で必死に紙を回収し、警察沙汰にせず、事を内々に収めようと配慮しているんです」
「配慮? これが、配慮なんですか!?」
「そうだ」
今度は学部長が、低く重苦しい声で割って入った。
組んだ指の隙間から、冷え切った視線が咲を射抜く。
「そもそもだ、小山さん。犯人にどのような悪意があったにせよ、学業に専念すべき学生が、このような破廉恥な事態を招いたこと自体が問題なのだよ。君にその自覚はあるのかね?」
「事態って……! 違います! 私は酔わされて、眠っている間に勝手に撮られたんです!」
咲は怒りに震える拳を抑えながら、必死に訴えた。
けれど、学部長と教授から向けられる視線は、相変わらず冷ややかなものだった。
「結果として、君の下着一枚身につけていない姿が、実物として学内に溢れ返った。それが事実だ」
学部長は咲の言葉を冷酷に切り捨てた。
「我が大学のブランドと名誉に、君が泥を塗った。デジタル監視の手が届かない『紙』という手段を使われた以上、これ以上の流出を防ぐには、君自身が速やかに身を引くか、反省の態度を示すしかない。被害者面をして組織に牙を向く前に、己の身持ちの悪さを恥じなさい」
「身持ちの悪さ」という言葉に、咲はこれまで堪えてきた怒りが限界を超え、溢れ出すのを感じた。
咲は怒りを込めながらも、静かな声でゆっくりと言葉を紡ぎ出した。
「身持ちが悪い、ですか。被害者の私生活を、勝手な妄想で決めつけないでください。それに、これは明確な名誉毀損であり、刑事事件です。私が警察に通報し、被害届が受理されれば、巨大サーバー内に保存された加害者の記憶が証拠として提出されます。そのとき、被害者を脅迫して口封じをしようとした大学側の対応がどう報道されるか、ご自身の名誉のためにも、よくお考えになった方がよろしいかと思います」
言葉を失う学部長と教授を尻目に、咲は学部長室を後にした。
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