第12話 桃色のカーネーション
美彩が弁護士に連絡を入れていた頃、直人はまだ美彩の記憶の中にいた。
優はもう小学2年生になっていて、ようやく少しだけ自分の時間が持てるようになってきた頃のこと。
風呂から上がった後、寝室で横になっている直人の反対側のベッドに腰掛けた。
共感接続をしなくなってから何年経っただろう。
これまで自分の嫌な部分を相手に見せないで済むことは確かに楽だった。
けれど、優に手がかからなくなった今、もう一度心を繋いで触れ合えたら、昔のように愛し合えるのではないかと思った。
こちらに背を向けて空間投影画像を眺めている直人の隣に横になる。
(直人も定時で帰って来てくれたし、誘うなら今日よね。久しぶりに抱きついたら驚くかな)
そんなことを考えながら、その腕にそっと触れると、直人は怪訝そうな顔をして振り向いた。
「何?」
直人の反応が想像していたものとはあまりにも違って、思わず触れていた手を自分の胸に戻す。
「今日も疲れてるの?」
直人はため息を吐いてホロスクリーンを閉じた。
「明日から別の部署の仕事も任されることになったんだ。今日の内に疲れを取っておかないと後々に響く」
その言葉を聞いて仕方がないと思う反面、それならいつになったら繋がれるのだろうかと、先の見えない不安に胸が締め付けられた。
「そっか、大変なんだね。優のことは私がちゃんと見ておくから、お仕事頑張ってね」
明るく言ったつもりの声が、自分でもひどく頼りなく感じる。
直人は「あぁ、頼む」とだけ短く答えると、それ以上言葉を交わすのを拒むように、再び背を向けて目を閉じてしまった。
この先もずっと自分達はこうして共感接続を繋ぐこともなく、触れ合うことすらないのだろうか。
美彩は涙が出そうになるのを堪えて布団を被った。
ダイブを終了し、直人はヘッドセットをサイドテーブルの上に置いてため息をつく。
そしてすぐに弁護士にメッセージを送った。
「妻ともう一度話す場を設けてください。日時は相手の都合に合わせます」
直人は目を閉じて、これまでに観てきた美彩の記憶を思い出す。
自分では普通に話していると思っていた言葉でも、美彩にはとても冷たく感じられたのだと初めて気付いた。
自分はなんて言葉足らずだったのだろうか。
直人はカーテンを開けて窓の外を眺めた。
優がまだ生まれる前、「私、月を見るのが好きなの」と言って微笑んでいた美彩の顔を思い出す。
直人は今度こそ美彩に自分の気持ちを正直に伝えようと決心した。
***
弁護士事務所の一室で、弁護士と共に直人が来るのを待っていた美彩は、テーブルの上の花瓶に目を向けた。
白く細長い一輪挿しに、桃色のカーネーションが一輪、静かに佇んでいる。
その優しい桃色は、かつて直人が美彩に贈ってくれた、あの日の記憶を鮮やかによみがえらせた。
優が生まれた年の母の日に、直人は桃色のカーネーションを美彩にプレゼントしてくれた。
「今年から美彩もお母さんだからね」
そう言って微笑んだ直人の顔を思いだして、思わず涙がこみ上げる。
直人の事情はこれまでのダイブで理解できた。
けれど、自分の記憶は直人にとってどう感じるものだったのだろうか。
答えの出ない不安を抱えたまま美彩がため息をついていると、部屋の扉がコンコンとノックされた。
美彩は慌てて居住まいを直す。
「どうぞ」
美彩の返事を聞いて、部屋の扉が開いた。
一拍おいて、直人と弁護士が部屋の中に入ってくる。
美彩の向かい側に座った直人の表情は、先日会った時とは違って穏やかなものだった。
「美彩、はじめに謝らせて欲しい。君の気持ちも考えず、身勝手な決断を押し付けてしまった。本当にすまない」
直人は深く頭を下げた。
美彩は驚いて一瞬言葉を失ったが、すぐに自分も頭を下げた。
「私こそ、あなたの辛さが分かってなかった。これまで、自分ばかりが負担を背負ってると思っていたの。でも、そうじゃなかった。私こそ、ごめんなさい」
美彩の目から涙が溢れた。
直人は頭を上げて、美彩に微笑みかける。
「もう一度、やり直さないか?今度こそ、きちんと向き合うから」
美彩も頭を上げて直人に微笑み返した。
「私も、これからはちゃんと気持ちを伝えるようにする」
二人は見つめ合って微笑んだ。
一輪挿しのカーネーションはあの日と同じように、二人の間で美しく花開いていた。
***
翌日、土曜日の朝なのに祖父母は何となく落ち着かない様子でそわそわしていた。
優はお客さんでも来るのかなと思い「俺は外に行ってたほうが良い?」と気を利かせて尋ねた。
すると祖母は慌てた様子で首を振る。
「これからお父さんとお母さんが来るから、おうちにいてちょうだい」
優はとうとう自分がどちらに引き取られるのか決まったのだと思い、いても立ってもいられず祖父母が止めるのも聞かずに玄関を飛び出してしまった。
両親のどちらに引き取られることになっても引っ越すことになるだろう。
父は新しいマンションで暮らしているし、母は以前住んでいたマンションからパートの仕事に行っている。
***
優は、先日遥人と会った公園のベンチに座って、腕時計型端末を起動した。
遥人に「会いたい」とメッセージを送ると、5分ほどで遥人が息を切らせて現れた。
「どうしたの?」
心配そうな遥人の顔を見た瞬間、優の目からぽろぽろと涙が溢れ出した。
「どうしよう。俺、また引っ越すことになるかもしれない」
遥人は驚きながらも優の隣に座って優しく手を握る。
「どっちに引き取られるか決まったの?」
優は首を横に振って、「まだ分からない」と涙声で答えた。
遥人は少し考えたあと、優の手を引いて立ち上がる。
「お祖父さんとお祖母さんが心配するから、僕と一緒に帰ろう?」
遥人はいつものように微笑んだが、優の目には悲しげに映った。
***
遥人と手を繋いで家に戻ると、玄関の前で祖父母と両親が優を探しに行くかどうかを話し合っていた。
「ごめんなさいね。止めたんだけど、走って行っちゃったものだから…」
「わしも近くを探すから、お前たちも行きそうな場所を探してくれ」
「いえ、僕と美彩が探しに行きますので、お義父さんたちは家にいてください」
「デバイスも持たないで行くなんて、よほどショックだったのね……」
そこでふと気配を感じたのか、両親が優たちの方へと顔を向けた。
「優!」
「帰ってきたの!?」
両親が優の元に駆け寄ってくる。
遥人は優の手を離して寂しそうに微笑んだ。
「それじゃあ、僕はこれで帰るね」
立ち去ろうとする遥人の手を掴んで、優は両親を見上げる。
「俺は遥人と一緒にいたい!もう何処にも行かない!」
すると両親は顔を見合わせて、小さく息を吐きながら同時に眉尻を下げた。
そして優に向き直ると、優しく微笑んだ。
優を見つめるその瞳には、息子を振り回して深く傷つけてしまったことに対する、言葉にならない謝罪の思いが宿っていた。
父はしゃがんで優と目線を合わせると、遥人の方に顔を向けて話しかけた。
「いつも優と遊んでくれてありがとう。僕たち大人の都合で、この子には寂しい思いをさせてしまった。これからも仲良くしてくれると嬉しいな」
父はそう言って遥人に微笑む。
そして今度は優に顔を向けた。
「優、お祖父ちゃんとお祖母ちゃんに話を聞いたよ。とても仲の良い友達が出来たんだね。お父さんもこっちで仕事ができるように今会社に掛け合ってるから、もう少し待っていて欲しい」
父の予想外の言葉に驚いて母の顔を窺うと、母も頷いて微笑んだ。
「お母さんもこっちに引っ越してくることにしたの。今月末までお仕事があるから、もうしばらく向こうで暮らすことになるけど、その後はまた一緒に暮らせるわ。ずっと寂しい思いをさせて、ごめんね」
優は両親の顔を交互に見比べる。
「仲直り、したの?」
両親は互いの顔を見て微笑んだ。
「そうよ」
「ちゃんと仲直りしたぞ」
優はその言葉を聞いてようやく笑顔を取り戻し、両親に抱きついた。
遥人はそんな優を見て胸を撫で下ろした。




