09:元推しは、飼われている
居酒屋の座敷に腰を下ろし、生ビールで乾杯した。
アルコールは強い方ではない。でも、嫌いというほどでもない。
柚希は酔うためではなく、現実の輪郭を少しだけぼかすために飲む。シラフのままでは受け止めきれない理不尽や、頭を抱えたくなるような日常も、アルコールという都合のいいフィルターを一枚挟めば、どこか他人事のように笑い飛ばせる気がしている。
冷えたグラスをあおり、喉を落ちていく苦味を味わいながら、柚希は深く息を吐き出した。
正直、通話アプリで簡単に繋がれる現代で、男女が出会いを求める目的でもないのに、なぜわざわざ足を運んで顔を合わせて飲むのだろうと、疑問に思う自分もいる。けれど、画面越しでは伝わらないものが確かにあった。
相手のグラスが結露して滴る雫だとか、注文の合間にふと落ちる微妙な間だとか、同じ空間の空気を吸いながら同じタイミングで深いため息をつく心地よさだとか。
そういう、通信データの帯域には乗り切らない無駄で愛おしいノイズこそが、削り取られた精神を補修してくれる気がする。何より目の前で美味しそうにビールをあおる友人の姿は、画面上のアイコンよりもずっと強く、自分は一人ではないという実感をくれる。
「あー、染みる……」
目の前で幸せそうに目を細める陽菜を見て、柚希はやっぱり来てよかったな、と冷えたグラスを持ち直す。
「ねえ、ユズ。オススメの乙女ゲーない? 最近またやりたくなってきてさ」
「今、全然やってない。その暇がないんだよね」
「そっか。三次元化した元推しを飼ってるんだもんね」
飼っている、という表現の的確さに、柚希は苦笑いを返すしかなかった。否定できないのが、一番つらい。
「陽菜こそ、彼氏とはどうなの?」
話題を変えるつもりで聞いた質問に、陽菜の表情が微かに曇った。
「まだ付き合ってるよ。でも……」
やたら大人びた表情をする陽菜に、内心、ざらりとした予感が走る。店内から軽快なノイズが消え、しんと静まり返った個室の空気が、急に重みを増した気がした。
「愚痴なら聞くけど」
枝豆をつまみながら、さりげなさを装って尋ねる。
「なんか、三次元の恋って、体力も精神力も持ってかれるんだよね」
陽菜はグラスについた結露を細い指先で撫で回し、小さな水滴を潰しながら息を吐く。
「相手が今、何を考えてるのか全然分からないの。ちょっとした一言とか行動で機嫌を損ねたらどうしようって、いつも選択肢を間違えないように神経を張り詰めさせててさ。ゲームみたいにパラメータが見えるわけじゃないから、好感度を下げないように必死で取り繕うの、本当に疲れる」
枝豆の皮を剥く柚希の手が、一瞬止まる。
「価値観のズレとか、思い通りにいかない不完全さって、どれだけ好きでも消えないじゃん。彼の見た目も性格も、全部を無条件で愛せるかって聞かれたら……正直、かなり微妙なところなんだよね」
二次元の理想郷を知っているからこそ、三次元の不完全さが鋭い刃のように胸に刺さる。
陽菜の自嘲混じりの呟きに、柚希は何も言えず、ただ静かに枝豆の皮を小皿へ置いた。
「その点、二次元って本当に平和なんだよね」
陽菜は乾いた笑いを漏らし、結露した生ビールのグラスを弄んだ。
「見た目も性格も、自分の好みドンピシャじゃない? どのシーンを切り取ったって綺麗だしさ。それに、絶対に自分の気持ちを裏切ったり、ガッカリさせたりするような行動を取らないでしょ。……まあ、たまに鬱展開で傷つくことはあっても、そこにはプレイヤーが納得できるちゃんとした理由や背景が用意されてる」
だから、と陽菜は呟く。
「無駄に疑心暗鬼にならずに済む。自分の心が、いちいち無防備に傷つかずに済むんだよ」
柚希は黙って聞いていた。
分析としては、完璧すぎるほど正確だった。
「だから、ヒナは、急に乙女ゲーやりたくなったんだ」
「まあね」
陽菜は生ビールのグラスを傾け、残っていた黄金色の液体を一気に飲み干した。喉を鳴らしてグラスをテーブルへ置くと、底に残った泡が静かに弾ける。
二次元という防護ガラスの向こう側は、作り手によって緻密に設計された無菌室だ。傷つくリスクすらも計算し尽くされた、美しき箱庭。
対して、現実の人間関係はいつだって泥臭く、不確定要素に満ちている。
ルカという危険な二次元の現実化を押し付けられている柚希と、生身の彼氏との摩擦に疲弊する陽菜。立場は真逆のように見えて、その実、二人が直面している摩耗の質は、恐ろしいほど似通っていた。
「……でもさ」
柚希は手元のグラスを持ち上げ、陽菜の空になったグラスへ、ぽんと軽く当てた。
「そうやって傷つきたくないって盾を構えてる陽菜も、現実の彼氏と向き合って擦り減ってる陽菜も、どっちも嘘じゃないと思うよ。生きてるって感じがすごくする」
陽菜は少し意外そうに目を丸くしてから、ふっと肩の力を抜いて自嘲気味に笑った。
「なによ、急に深イイ話風にして」
「深イイ話じゃないよ。ただの泥酔予備軍の戯言」
グラスに残った冷えたビールを喉に流し込む。苦味が広がり、胃のあたりがじわじわと熱を帯びていく。アルコールがもたらす心地よい緩和のおかげで、現実の歪んだ輪郭が少しだけ優しく見えた。
「ま、ルカ様みたいに見た目最強とは言えないけどさ。優しくて、真面目で一途なところもあるし、好きではあるんだよね」
陽菜がぽつりと吐き出す。
優しくて、思いやりがある。
その形容詞が、柚希の中で、目下同居中の男とは正反対の位置に呆気なく着地した。
金銭という分かりやすい報酬でしか動かず、コーヒーを飲んでいるだけで殺気を飛ばしてくる危険物。ルカ・ブライトに、優しさや思いやりなんて温かい概念は、微粒子レベルでさえ存在しない。
柚希は冷えたグラスの底を見つめる。
この世界の常識が通じず、一歩間違えれば床に叩き伏せられるような歪な共同生活。そんな理不尽の極みのような日常に、自分はどこか奇妙な充足感すら覚えてしまっている。
「……いいじゃん。優しくて一途なんて」
たった今、気付いた気持ちを無理やり流すように、柚希は残っていた冷えたビールを一気に喉へ流し込んだ。
「三次元の男としては満点だよ。陽菜、いい人見つけたね」
柚希は口元を緩め、追加のドリンクを注文するためにタブレットに手を伸ばす。
「で、柚希はこれからどうするつもりなの?」
「これから?」
「今のルカ様を飼ってる状況はさ、柚希がそれでいいなら、とりあえずはいいと思う。でも」
陽菜は、少しだけ声のトーンを落とした。
「大前提として、ルカ様がこの世界にずっと留まる保証なんてどこにもないでしょ? もし奇跡的に戻れなくて、このままこの世界で生きていくことになったとしても……」
陽菜はテーブルの端を細い指先で叩き、酷く冷淡な現実の数字を突きつけてきた。
「私たちは今この瞬間も、着実に歳をとってる」
死ぬまで停止することのない不可逆の時間。その残酷さを静かに語る陽菜の瞳は、どこまでも冷ややかに澄んでいた。
「自分だけが惨めに老いていって、ルカ様だけが今のままだったら……最悪だよ。中年女性と、設定年齢二十六歳の異世界のイケメン。一枚のスチルとして客観視したら、地獄みたいなグロテスクさじゃない?」
息が詰まる。
陽菜の淡々とした指摘は、二次元の「不変」と三次元の「劣化」という、埋めようのない溝を恐ろしいほど鮮明に浮き彫りにした。
「そもそも、ルカ様自身はどう思ってるわけ?」
「どうって……」
「恋愛的なフラグとかは立ってたりするの?」
「全然。むしろ好感度はマイナススタート」
「あー……そりゃそうだよね。床ドン五回だもんね」
「手も擦りむいた」
「ご愁傷さま」
陽菜は小さく息を吐くと、枝豆を口に入れた。
「ルカ様本人は、元の世界に帰りたいって言ってるの?」
胸の奥で、冷たい何かが激しく弾けて、柚希は初めて気づいた。その当たり前すぎる問いを、自分は一度もルカに投げかけたことがなかったのだと。
「ユズはさ」
陽菜が、少し困ったように、けれど射抜くような真剣な眼差しでこちらを見た。
「日光も温度も水も全部人間に管理されて、過保護に愛でられるだけの観葉植物みたいな人生を、彼に送らせたいの?」
陽菜の言葉に、息が詰まる。
陽菜に悪気がないことくらい、痛いほど分かっていた。ただ純粋に、歪な現状の危うさを心配してくれているだけなのだ。
けれど、一切の装飾を剥ぎ取ったその正論は、ナイフよりも鋭く、柚希の胸を突いた。
――観葉植物。
安全な温室に危険物を閉じ込め、牙を抜いた標本として愛でるだけの生活。
それは救済などではなく、ただの美しい飼育であり、歪んだエゴでしかないのではないか。
喉が焼きつくように乾き、柚希は何も答えることができなかった。




