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08:元推しは、オタクに敗北する

 懲りずに働きたいと言い張るルカに、柚希は妥協案として「お手伝い制」を導入した。


 食器を洗ったら、いくら。洗濯物を干したら、いくら。部屋を掃除したら、いくら。小学生の躾に使うような仕組みを、王族の暗殺者に適用しているという事実に、柚希は時々、自分の人生の舵取りを本気で疑いたくなる。


 しかし、金銭という分かりやすい報酬体系は、思いのほかルカに効いた。むしろ、効きすぎた。


 柚希が仕事の合間に飲んでいるコーヒーカップの中身を、彼が明らかに標的として見ていることに気づいたのは、いつからだったか。振り返らなくても分かる。背後から注がれる殺気じみた視線の質感が、狩人のそれだった。


 仕事は著しくやりにくい。リモートワークを返上しようと上司に相談しかけた。だが、慣れというのは恐ろしいもので、柚希は一週間もするとその視線を、「今日も元気だな」程度の環境音として処理できるようになっていた。


 人間の適応能力の高さを、こんな形で実感する日が来るとは思わなかった。


 さらに一か月が過ぎた頃、試しに親友である陽菜に、ルカを紹介してみることにした。


 彼の破綻した社会性をほんの少しでも人並みに繋ぎ止めたい――という親心ではなく、柚希が正気を失っていないことを確認するために、誰かに証明してほしかっただけだ。


 陽菜とは高校時代、同じ乙女ゲームに狂ったようにのめり込んだ縁で親しくなった。そこから意気投合して、勢いのまま同じ大学に進学するという、いかにも女子特有のノリを通してきた仲だ。

 学部こそ違えど、大学生活の碌でもない部分を互いに晒し合い、分かち合ってきた、いわば不健康な戦友でもあった。


 もし自分が孤独死した場合、その不在に一番最初に気づくのは会社ではなく陽菜だと柚希は思っている。次点が仕事を丸投げしてくる上司。最後は、廊下の異臭に耐えかねて管理会社へ電話をかける隣の高橋さんだ。


 満員電車を回避する生活を選んだ弊害で、柚希の社会性はとっくに枯渇していた。けれど、外の世界を、他人の断末魔とストレスの充満する地獄と認識している自分には、この世離れした引きこもり生活こそが適量だった。


 そんな柚希の静かな孤島へ、金曜の退勤後、陽菜がやってきた。


 かつて柚希と共に『背徳のトガに咲くレガリア』に狂い、ルカ・ブライトというヒーローを推し愛でる喜びを分かち合った仲間だ。そんな彼女に「実は、本物が部屋にいる」と明かした時、返ってきたのは叫び声ではなく、驚くほど即座の納得だった。


「へー、ほんとにあるんだ。異世界転移って」


 陽菜は感嘆とも呆れともつかない息を吐きながら、リビングの真ん中に鎮座するルカの周りを、まるで博物館の展示物でも検分するようにぐるりと一周した。


「すごいね……造形が完全に公式イラストのそれじゃん。絵師の癖(くせ)まで立体化してるの怖……」


 感心したように呟きながら、陽菜が無防備にその細い指先をルカの頬へ伸ばそうとした。


「ヒナ、駄目!!」


 柚希は悲鳴に近い声を上げ、飛びつくように陽菜の手首を掴んで引き戻す。


「な、なに? 急に大声出して」


「ルカの高感度上げに苦戦したの、覚えてるでしょ?」


「なるほど、理解した」


 陽菜は引きつった顔で伸ばしかけた手を胸元に抱え込み、あからさまに後ずさった。


「でもさ、あれってゲーム内の話でしょ?」


「バイト先でね、親しみ込めて肩を叩いてくれたベテランの作業員さんを、この人、背負い投げして床に叩き伏せたの。因みに私も五回ほど床ドンされた。だから、生身の人間が死角から迂闊に触っていいオブジェクトじゃないの」


「……えっ、ガチの殺意高めなやつ?」


「そうなの。二次元という防護ガラスが割れた結果、私はいま、殺傷能力の高い危険物と同居してるってわけ」


 柚希が顔をあげると、二人の会話を見下ろしながら静かに聞き耳を立てていたルカが、心底不快そうに紫の瞳を細めた。


「ジロジロ見るな」


 ルカはチッ、と小さく舌を鳴らすと腕を組み、壁際に背を預けた。


「……なるほどね。画面越しなら『不器用で冷酷な暗殺者最高』で済んだのに、現実にいるとただの『危険物取扱者手帳が必要な不審者』なんだ」


「理解が早くて助かるよ。推しは二次元にいるから尊いのであって、三次元に来るとただの不法滞在者なんだよ」


 柚希は深い溜め息をつく。


 画面越しには決して見えない、推しの圧倒的な「生」の圧力。それに潰されそうになっている同類が、この世界のどこかにあと三人くらいはいるはずだ。今すぐ同士と居酒屋の個室にこもり、朝まで生々しい被害報告会を開催したい。


 柚希が一人耽っていると、陽菜がルカを眺め頬を高揚させていた。


「顔がいい。造形が神。しかも、ウニクロコラボのルカ様とか、めちゃくちゃレアなスチルじゃん。ルカ様。写真撮っていい?」


「断る!」


「いいじゃん、減るもんじゃないし。SNSにアップしないしさー」


 ルカの放つ殺気などどこ吹く風で、陽菜はスマートフォンを差し向け、慣れた手つきで画面をタップしていく。画面という一枚のガラスを挟んだ途端、柚希の命を脅かす危険人物は、単なるコンテンツへと見事、格下げされていた。


 柚希はそんな光景を眺めながら、無駄な説明も要求せず、この異常な状況を即座に「そういうもの」として飲み込んでくれる悪友の存在を、心の底からありがたく思った。


 陽菜が気が済むまでルカを観察し尽くした頃、そこにはすっかり生気を失い、疲弊しきった元、冷酷な暗殺者の姿があった。

 どれほど鋭い殺意を飛ばそうと、どこまでも「画面越しのコンテンツ」として無邪気に消費され続ける理不尽さに、さすがのルカも辟易したらしい。最後にはただただ不快そうに顔を背け、気配を消すように壁際で小さくなっていた。


「……よし、目の保養完了! 柚希、飲みにいこ」


「行く。今すぐ行く」


 即答して、柚希はスマホを手にした。


 ルカを部屋に置いていくことに、胸の奥をかすかな罪悪感が掠める。だが、やたらイケメンな異世界人と暮らす日々で削れきった柚希の精神には、それ以上の救済が必要だった。


「じゃ、留守番よろしく!」


 げっそりと魂の抜けたような表情で佇むルカを一人部屋に残し、柚希は久しぶりに陽菜と外の空気を吸いに出かけることにした。

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