10:元推しは、……
居酒屋を出て陽菜と別れた帰り道、柚希は吸い寄せられるようにコンビニへ寄った。部屋で不機嫌に腹を空かせているかもしれないルカの顔が、嫌でも頭をよぎったからだ。
すぐに食べられるおにぎりや惣菜をいくつか選び、レジへ向かう。
「あれ、今日は彼氏、いないんだ」
「え?」
不意を突かれ、柚希は顔を上げた。レジの向こうにいたのは、いつの間にか顔なじみになってしまった店員のチョウさんだった。屈託のない笑顔で、いつも通りに声をかけてくる。
夜遅くにこのコンビニへ立ち寄る時は、いつもルカが隣にいた。そのせいで、勝手に恋人だと勘違いされている。訂正するのも面倒で、ずっと放置していた言葉が、今夜は妙に苦く胸に刺さった。
彼氏、でもなければ、ただの同居人でもない。
「……今日は、一人の気分なんで」
曖昧な愛想笑いを貼り付けながら、レジに置いたカゴへ目を落とす。
チョウさんは手際よくバーコードを読み取りながら、屈託のない声で重ねてきた。
「肉まんは? 蒸し立てがあるよ。いつも二つ買っていくからさ」
「あ……じゃあ、二つください」
断る理由を咄嗟に見つけられず、流されるまま頷いてしまう。
レジカウンターの上で、次々とスキャンされていく商品の山にホカホカの紙包みが二つ並べられる。すぐ隣には、最近ルカが妙にハマっている茎わかめまである。無意識のうちに棚から手に取り、カゴへ滑り込ませていたことに、柚希は会計の土壇場で初めて気づいた。
肉まんも、茎わかめも。彼の空腹を満たすための配慮と、彼の嗜好を勝手に記憶して買い与える行為だ。
――まるで、母親みたい。
あるいは、ペットの餌を買い整える飼い主か。
管理され、過保護に庇護され、外の世界を知らぬまま芽を枯らしていく観葉植物。
陽菜の冷ややかな言葉が、頭の中で鋭い毒針のように蘇る。
もしかしたら自分は、ある日突然、目の前から消え去った「家族」という温もりに、ずっと惨めに飢えていただけなのかもしれない。だからこそ、自分の都合で歪に飼い慣らせる存在を、無意識に手元へ繋ぎ止めようとしているのではないか。
「ありがとうございましたー」
チョウさんの呑気な声を背に受けながら、柚希は夜の冷気の中へと足を踏み出した。ルカの好物が詰まったレジ袋のずしりとした重みが、自分自身の底知れないエゴの形をして、容赦なく両手にのしかかってくる。
この世界の仕組みを教え、甲斐甲斐しく世話をし、生活費を工面して養う。今の柚希は、客観的に見ればまるで母親のようだった。
むしろ、本当の母親だったら、どれほど楽だっただろうと柚希は思う。
母親には「親である」という絶対的で正当な理由と義務が存在する。だから無条件に庇護し、責任を背負うことに、誰からも疑いを挟まれないで済む。
でも、柚希はルカの母親ではない。
今のところ誰かと付き合いたいという願望はないけれど、人生なんて何が起こるか分からない。ふとした拍子に好きな人ができるかもしれないし、いつか誰かと結婚する未来だって、ゼロとは言い切れない。その時、自分はルカをどうするつもりなのだろう。
二次元という虚構から、質量を持ってこの現実に降り立った男は、今、自分たちと同じように呼吸をし、腹を空かせ、疲弊する。食事を与えなければ確実に餓死するし、身を寄せる安全な寝床だって絶対に不可欠だ。生きている以上、彼は生存のためのリソースを消費し続ける。
一体自分は、ルカの人生と生活に、どこまで責任を持てるというのか。
柚希はふと思う。ルカは元の世界へ帰りたがっているのだろうか。それを直接彼に尋ねて、万が一「戻りたい」と返された場合。
――あなたはあっちへ帰ったところで、どうせ死ぬ。
その事実を、面と向かって告げられる自信が、柚希にはなかった。いや、そもそも、そんな事実をわざわざ彼に告げる必要なんてあるのだろうか。
「帰れば死ぬ」という絶望をわざわざ提示しようとしている自分は、親切心を装って彼を傷つけ、この安全な温室に永遠に引き留めるための正当な口実を探しているだけなのではないか。彼の自由を奪い、自分の手元に縛り付けるための免罪符として、その死を利用しようとしているのではないか。
冷たい夜風が首筋を撫でる。救済の顔をした身勝手なエゴが、思考の裏側からどろりと這い出し、柚希の胸を深く抉った。
考えがまとまらないまま、重いレジ袋を提げて帰路につく。鍵穴に鍵を差し込もうとして、ドアがわずかに手前に浮いていることに気づいた。
鍵は、かかっていなかった。
「不用心すぎる」
呆れにも似た感情が浮かぶのと同時に、胸の奥で嫌な予感が静かに鎌首をもたげた。柚希は息を潜め、湿った夜の気配を引きずるようにして、ゆっくりと玄関のドアを引いた。
部屋の中は、静かすぎた。
真っ先に聞こえてくるはずの、傲慢な足音も、殺気じみた気配も、何一つない。
部屋の真ん中に置かれた木製の座卓。その無機質な天板の上に、ぽつんとアクリルスタンドのルカが立っていた。以前鍋で加熱しようとして失敗した、少しだけ形の歪んだ透明なプラスチックの中で、決して傷つくことのない完璧な二次元の姿で、ルカがいた。
静まり返った部屋。
いつもなら漂っているはずの、刺々しい気配が消えている。
ただただ冷たい空気が淀む空間で、プラスチックの板越しに微笑む小さなルカだけが、柚希を静かに見つめ返していた。




