11:元推しは、裏切る
リビングの座卓の上に、少し歪んだアクリルスタンドが置かれていた。
まるでダイイングメッセージのようだ、と柚希は思った。誰も死んでいないのに、その静物的な配置だけが、何かの終わりを暗示している。
柚希はそれを手に取り、まじまじと確認した。特に変わったところはない。以前、鍋で燃やそうとしてコンロの脇に放置して、端が歪んでしまった。あの見慣れた歪みも残っている。
ふと、馬鹿げた仮説が頭をよぎる。
「まさか、この中に閉じ込められたとか」
口にして、自分でその発想の稚拙さに呆れた。だが、次に浮かんだ仮説のほうが、もっと厄介だった。
全部、夢だったのでは。
推し活をやめてから、少し心が荒れていた自覚はある。荒れた心が、都合よく作り出した長い夢。ここ一ヶ月の記憶すべてが、脳内で丁寧に組み立てられた妄想だったとしても、驚くほど筋は通ってしまう。
柚希は確かめるために、洗面所へ向かった。電動歯ブラシが二本並んでいる。柚希のものと、もう一本。次に洗濯機の蓋を開けた。中には、ルカが今日まで着ていたウニクロの黒いTシャツが入っている。寝室のウォークインクローゼットも開けた。そこには、彼がこちらの世界に召喚された瞬間に纏っていた一式――実用性を完全に無視した、銀の刺繍が美しい黒い騎士服が、大切に吊るされている。
夢オチではない。だとしたら、アクスタの中に閉じ込められた説が濃厚になってくる。
馬鹿げている。そんな童話めいた推測を笑い飛ばすだけの正気も、辛うじて残っていた。けれど、乙女ゲームの画面から飛び出したキャラが存在していた痕跡が、家中に刻み込まれている。
「ルカが現れた時点で、私の常識なんて最初から崩壊してるじゃん」
誰に言い聞かせるでもなく呟き、手にしたアクリルスタンドを見つめる。滑らかな表面を指先で撫でた瞬間、ふと、彼と出会った日のことを思い出した。
あの時、彼は確かにこのアクスタを不快そうに見下ろしていた。つまり、アクリル板に印刷された彼と、実体を持って目の前に立っていた彼。その両者は、かつて同時にこの世界に存在していたのだ。
「……アクスタに閉じ込められたわけじゃない」
言葉として吐き出すと、張りつめていた緊張が、拍子抜けするほどあっけなく霧散した。
「私、どうかしてる」
陽菜に惨めな現状を吐露したのも、彼がこの部屋に居座り、今こうして消え去ったことも、すべては地続きの現実だ。
だとすれば、あの無駄に顔が良くて世話の焼ける、住所不定無職の元推しは、いったいどこに消えたのか。
――あ。
思いついた。
手伝いで貯めた金を元手に、食料でも買いに出たのかもしれない。
しばらく待とうとした。だが、五分もしないうちに、じっとしていられなくなった。あの男を一人で外に出せば、必ず何かが起きる。柚希はそれを痛いほど学習していた。
「警察のお世話になってたら、まずいし」
言い訳をするように、自分が探しに行く理由をわざわざ口にして、柚希は家を出た。
運の悪いことに、マンションの廊下で隣人の高橋さんと鉢合わせた。彼女は、このマンションにおける非公式な情報統制機関のボスキャラだ。
「あら、ユズちゃん。あなたもお出かけ?」
「あなたも」という言葉に引っかかり、柚希は思わず足を止めた。
「……『も』って、誰か出ていきました?」
「誰かって、あなたの彼氏に決まってるじゃない」
高橋さんは「知ってるのよ」と言わんばかりのお節介な笑みを浮かべ、柚希の肩をばしばしと力強く叩いた。
「あの……」
彼氏じゃないと訂正しようとして、言葉が喉の手前で止まる。
彼氏ではない。兄妹でもない。もちろん家族でもない。友人と呼ぶには、あまりに関係が歪だ。同居人ではある。だが、その関係値を正確に言語化しようとすると、途端に説明が破綻する。世の中の人間関係の分類は、案外、こういう例外を想定していないらしい。
柚希が口ごもっていると、高橋さんのほうから助け舟を出してきた。
「彼氏さん、二十分くらい前に出ていくの見たわよ」
「どこに向かったか、分かりますか?」
「さあ。いつもと同じように、怖い顔してたけど。あの人、男前だけど、ちょっと愛想が悪いわよね」
「すみません」
咄嗟に頭を下げて謝っている自分に気づき、柚希は内心で苦いものを噛み潰した。
ルカの愛想のなさも、世間とのズレも、まるで自分が保護者として管理責任を負わされているような錯覚に陥る。やっぱりそうだ。自分は無意識のうちに、あの男を自分の所有物のように扱っている。
「ねえ、男前な人って、自分中心に世界が回ってると思ってるんでしょ? ユズちゃん、まさかDVされたりしてないわよね?」
「されてないです」
即答した。
事実として、床ドンはされたが、暴力の類ではないと信じたい。少なくとも、あれは設定集にも記載されている彼の生い立ちに起因する防衛反応であって、理不尽なDVなどではない。
「二人は、同棲してるの?」
「え?」
「あ、別に深い意味はないのよ? お裾分けを持っていく時の、量の参考にしたいなぁと思って」
これまでに高橋さんからお裾分けをもらったことなど、片手で数えるほどしかない。どうやら完全に詮索モードのスイッチが入ってしまったらしい。これ以上付き合っていれば、根掘り葉掘り掘り返されるのは目に見えていた。
「あ、もうこんな時間! 特売に遅れちゃうので、失礼しますっ」
「えっ、こんな時間に特売……?」
首を傾げる高橋さんを置き去りにし、柚希は適当な嘘を吐き捨てて、逃げるようにその場を離れた。
思わぬところで足止めを食らった柚希は、駅前まで早足でルカを探す。だが、スーパーにも、牛丼屋にも、コンビニにも、公園にも。一通り回ってみたものの、彼の姿は影も形もなかった。
最後の望みで交番に飛び込んだが、警官の答えは素っ気なかった。
「黒髪で、紫のカラコンをした、目つきの悪い、背の高い外国人風の男性の方は、保護しておりませんね」
申し訳なさそうに告げられ、頭を下げて交番を後にする。
少なくとも、警察の世話にはなっていない。その事実に安堵すると同時に、それ以上の焦燥が胸を占めた。
「どこに消えたのよ」
交番を出たところで、パーカーのポケットに突っ込んでいた手を弄ぶ。指先に固い感触が触れ、そのまま引き抜いた。
手のひらの上で、アクリルスタンドのルカと目が合った。
柚希は立ち止まり、考える。もしルカがこんな状況にいたら、どんな行動を取るか。あれほど愛した推しのことだ。設定資料集の隅々まで読み込んだ自分になら、分かるはずだと思った。
だが、奇跡は起きない。柚希は、彼を見つけられなかった。
まるで柚希の内側と連動したように、空から雨が落ちてきた。
二次元の推しは、裏切らない。それは、正しい。
攻略サイトの一文一句まで暗記した推しのことなら、柚希はいつだって手に取るように理解できた。好感度上げのミニゲームで判定をミスっても、セーブポイントまで戻れば、なかったことにできた。物語の選択すら、何度でもやり直しがきく。取り返しのつかなさというものが、そもそも存在しない仕様だった。
だが、三次元になった元推しは、今、こうして跡形もなく消えている。
二次元の推しには、ゲームを起動さえすれば、こちらの都合でいつでも会えた。だが、三次元になった元推しは、こちらの都合には、微塵も付き合ってくれない。
「もう、二度と会えないのかな」
手の中のアクリルスタンドに向かって、思わず語りかけていた自分に気づき、柚希は薄く笑った。
プラスチックに閉じ込められた元推しは、当然、何も答えない。
元推しが目の前に現れるという超常現象のインパクトが強すぎて、これまで直視せずに済んでいた現実が、今さら輪郭を持って迫ってくる。この世界に生きる者に、セーブもロードも用意されていない。あるのはただ、前にしか進めない時間だけだ。平等に、そして容赦なく、雨に打たれながらでも流れ続ける。
だから――ルカも、いなくなったのだ。




