12:元推しは、確かに実在する
クタクタになって家に帰ると、ルカがいた。
「いるじゃん……」
雨の雫を滴らせ唖然とする柚希の視線の先。テーブルの上には、空になったサラダの容器と、端に海苔が少し取り残されたツナマヨおにぎりの包装が置かれている。
当の本人は、何事もなかったような顔で、茎わかめを咀嚼していた。
「遅かったな。こんな時間に女が一人で出歩くのは、褒められたことではないぞ」
「……は?」
全身を雨で濡らし、交番にまで駆け込んで探し回った身としては、言いたいことが山のようにあった。だが、柚希はそのすべてを飲み込んだ。心配して勝手に走り回ったのは、あくまで自分の意思だ。それをルカのせいにするのは、筋が違う。
「あなたこそ、どこ行ってたの」
「お前が遅いから、迎えに行った」
その一言で、柚希はようやく状況を理解した。そういえば、陽菜と行く店の名前を、出かける前にルカへ伝えていた。おそらく入れ違いになったのだろう。柚希が心配して雨の中を捜索している間、ルカもまた、律儀に迎えに向かっていた。
すれ違いというのは、時にこれほど滑稽な形で成立するらしい。
「……まあ、無事で良かった」
ルカは淡々と告げると、静かに立ち上がった。これ以上の会話を拒むように柚希から視線を外し、背を向けたまま、暗い廊下の奥へと足早に去っていく。
遠ざかる規則正しい足音を聞きながら、柚希はふと思い出す。
そうだ。ルカ・ブライトというのは、こういう男だった。
傲慢で、自信過剰で、人の話をまともに聞かない。それでいて、ヒロインが本当に困った時には、さりげなく手を差し伸べる。しかも、それを恩着せがましく振りかざすこともなく、当然の顔で立ち去る。
陽菜が語っていた「優しくて、真面目で、一途」という条件は、意外にも、この男に当てはまってしまうではないか。
頭の上に、ばさりと少し乱暴にタオルがかけられた。
「風邪をひくぞ」
「……ありがとう」
不覚にも、胸の奥が小さく跳ねた。それはかつて、画面の中の彼にときめいていた頃の感覚と酷く似ていて、けれど目の前にいるこの男に対して、今さらそんな胸騒ぎを覚えてしまう自分に、柚希はほんの少しだけうんざりした。
だが、甘い余韻は数秒も持たなかった。
「この茎わかめだが、俺はこっちのメーカーのほうが好みだ。次から覚えておけ」
わざわざタブレットを操作し、お気に入りの茎わかめの製造元を画面に表示してくるルカを見て、柚希は一気に現実へ引き戻された。
「は? 買ってあげただけでも上等でしょ」
「留守番してやったのだから、その程度は当然の対価だ。そもそも、未婚の女がこの時間まで一人で外をうろついていること自体、平和ボケにも程がある」
説教まで始まった。
柚希は、二次元のルカを目の前の男に重ねすぎてはいけないと自分に言い聞かせながらも、結局、本質はまるで変わっていないのだと気づいて、余計に混乱した。
目の前にいるのは、確かに『背徳のトガに咲くレガリア』のルカ・ブライトだ。だが同時に、時が容赦なく過ぎていくこの世界で、律儀に生きているルカでもある。二つの事実は、矛盾しているようで、矛盾していない。
柚希は、思い切って聞いた。
「ルカは、元の世界に帰りたい?」
「帰りたい」
迷いのない即答だった。
「ただし、俺がこの世界に呼ばれた理由を知りたい。物事には、必ず理由があるはずだ」
その言葉に、柚希の思考が静かに内側へと沈んでいく。
理由なら、たぶん、思い当たる。
柚希が死にかけていたからだ。
両親を早くに亡くしてから、柚希の中には、ずっと薄い膜のような希死念慮が張り付いていた。誰かを追いかけるように、この世界からふっと抜け落ちたいと思う瞬間が、何度もあった。
推し活をしている間だけは、それを忘れられた。画面の向こうに没頭している間は、自分の輪郭が世界と噛み合っている感覚があった。だが、それをやめた途端、まるで潮が引くように、自分だけが取り残されたような感覚に襲われた。
律儀にルカを飼い殺しているこの日々は、皮肉にも、柚希がこの世界に留まる理由そのものになっていた。世話をする相手がいる。予定がある。買い物リストがある。それだけで、希死念慮とは程遠い生活が成立していた。
だが、それはあまりにも自分本位な話だ。
目の前にいる三次元のルカ・ブライトには、彼自身の意思がある。それを叶える権利が、当然、彼にはある。柚希の孤独を埋めるための道具として、彼をこの部屋に留めておく理由には、どこにもない。
「ルカは、自分のこと、どこまで知ってるの?」
柚希は、重苦しい空気を振り払うように話題を変えた。
「調べた」
ルカは、感情の読めない声で答えた。
「この世界では俺が、物語の中の存在として、都合よく消費されているらしいということも、知っている」
「それを知って、どう思った?」
「おかしいのは、お前たちの方だ」
迷いのない口調だった。
「俺には、ちゃんと歩いてきた人生の記憶がある。飢えた冬も、母の死も、組織で受けた理不尽な仕打ちと教育も、全部、この身体に刻まれている。それを、創作物の中の出来事だと言い切るお前たちの方が、俺からすれば、よほど正気を疑う」
黒髪の隙間から覗く首筋には、王宮の裏仕事を担わされてきた証である暗殺者の刻印と、古い刃傷が隠しきれずに覗いている。その過酷な痕跡こそが、二次元の絵には描かれない、彼が生きてきた証だった。
「俺は、アルセリオン王国のルカ・ブライトだ」
言い切る横顔には、微塵の揺らぎもなかった。
その断言を前にして、柚希はもう、何も言い返せなかった。
目の前にいるこの男は、確かにここに存在している。設定資料の一文でも、攻略サイトの推測でもない。茎わかめのメーカーにまで固執する、生きた人間として。
柚希は、それを認めざるを得なかった。




