13:元推しは、帰りたい
「帰る方法を探す」
柚希が仕事用のモニターに向かっている最中、ルカが唐突にそう言った。宣戦布告に近い声色だった。指がキーボードの上で、一瞬だけ止まる。
動揺していないと言えば嘘になる。だが、動揺そのものを表に出すことは、この状況において何の得にもならないと、柚希の一部が冷静に判断していた。
「……分かった」
結局、そう答えるしかなかった。彼の意思を止める権利は、最初から柚希の側にはない。
「こちらの世界に詳しいお前の助けが、たぶん必要だ」
「そうだね。協力する」
言葉にした瞬間、胸の内側で、何かが静かに軋む。それが未練なのか、罪悪感なのか、あるいはその両方が絡み合った、名前のつけようのない感情なのか。柚希自身にも判別がつかなかった。
その日から、二人でルカの帰還に向けての調査が始まった。
ルカは、召喚術や異界渡りの伝承について調べ始めた。ネット上の眉唾なオカルト情報から、古今東西の民間伝承、果ては都市伝説に至るまで、驚くほど根気強く読み漁っていた。王族としての教養が、こういう場面で無駄に発揮されるのは、少し滑稽だな、と思った。
一方の柚希は、押し入れの奥から引っ張り出した資料集や、当時のプレイ日記代わりに残していた手帳に記した記録を頼りに、ゲーム側の設定を洗い直していった。
そして、気づいてしまった。
『背徳のトガに咲くレガリア』のシナリオには、「ルカ・ブライトが現実世界へ召喚される」という設定は、どこにも存在しない。
あるはずがなかった。あのゲームは、あくまでアルセリオンという王国の中で完結する物語だ。異世界だの現代日本だのという概念自体、公式が想定していない。柚希が知る限りの知識をどれだけ掘り返しても、これは既存のイベントでも、隠しルートの延長線でもない。
つまり、これは、誰かが用意した筋書きの外側で起きている現象だ。
そんなもの、柚希の知識では答えが出るわけがない。
その事実は、思っていた以上に柚希を打ちのめした。今まで、自分だけがルカについて誰よりも詳しいという自負があった。攻略サイトの隅々、設定資料の余白まで暗記していると、心のどこかで驕っていた。だが、この現象の前では、その自負は何の意味も持たない。
それでも、帰りたいと明白な希望を口にしたルカ・ブライトのために、柚希は動くしかなかった。
気づけば、異世界転生・転移ものの記事や本を片っ端から読み漁っていた。ルカが目の前に現れる前だったら、異世界転生・転移ものは、現実逃避を煮詰めただけの娯楽だと切り捨てていただろう。タイムラインで大真面目に超常現象やオカルトを語る人々を、どこか冷めた目で見下し、自分とは違う世界の住人だと線を引いていたはずだ。
大学で身につけた情報工学の思考は、客観的な事実と再現性のあるデータだけが正解だと教えてくれた。実験と観察で証明できない現象など、最初から存在しないに等しい。それなのに、実生活において、柚希はその理念とは真逆の沼にハマっている。少なくとも自分は論理の側に立っている人間でありたいと、常々思っているのに、だ。
根拠のない歪んだ妄想を盲信するオカルト思想とは、絶対に交わらない。真逆の場所に常に自分を置きたい気持ちはあるのに、今の柚希は、科学の理から外れた現実と必死に向き合っている。
もし今日調べた検索履歴やノートの殴り書きをSNSに流せば、ネット上で、辛うじてつながっている大学時代の知り合いは間違いなく言うだろう。
波方柚希は、ついに狂ってしまったのだと。
論理という命綱を自分から手放し、怪しげなおとぎ話の暗闇へと、自ら進んで堕ちていく様子を笑いながら。
*
ベッドの硬いマットレスの上で、柚希はそっと身を固くした。フローリングに「安かったから」という理由だけで買い与えた薄い布団を敷き、目を閉じているルカの影が、街灯の薄明かりの中にぼんやりと浮かんでいる。
ゲームの中では、傅かれる側の王族だった彼。それが今では、フローリングの上で小さな布団に包まり、慎ましく寝返りを打っている。身分が逆転……とまではいかないが、やはり歪な同居生活だなと、改めて思う。
居酒屋でこの配置を笑い話として打ち明けたとき、陽菜が見せた引きつった顔が脳裏をよぎる。
『ねえ、それ本気で言ってる? 相手が二次元出身だろうと、中身は男。しかも元は乙女ゲームのキャラなんだから、誰かを好きになる機能も標準装備してるわけじゃん? その対象がいつユズに向くか分からなくない? 襲われたらどうするの?』
『でも、ルカ様に触れたら高感度下がるけど』
『……そっか。ゲームだと音ゲーで高感度あげられたけど、リアルだとないもんね』
『そういうこと』
陽菜が納得したところで、次の話題になったので、柚希もあまり気にしていなかった。
そもそも1LDKという部屋の構造上、リビングには柚希の仕事用PCやモニターが幅をきかせており、納期前になれば徹夜で明かりが点きっぱなしになる。だから、睡眠環境としてルカをリビングに追いやる選択肢は、単純に頭になかった。
けれど、「男と女」という生々しい枠組みを突きつけられると、途端に部屋を満たす暗闇の密度が変わる。今日の柚希には、ベッドの上下に綺麗に引かれている境界線の輪郭が、うっすらとぼやけて見えた。
衣擦れの音すら立てないよう、もぞもぞと掛け布団を引き上げ、ルカから背を向けるように身を丸めた。自分の心拍数がわずかに上がっているのが、ひどく腹立たしい。
その時、暗闇の中から、低く静かな声が降ってきた。
「……眠れないのか」
息を潜めていた柚希は、心臓が跳ね上がるのを感じながら、布団の中で体を固くした。
「……起こした?」
声がかすれないよう慎重に言葉を吐き出す。ルカは布団の上でわずかに身じろぎしただけで、起き上がる気配はない。暗闇に慣れた目をルカに向けると、彼の視線は天井の一点に向けられているようだった。
「いや。お前が落ち着きなく動くから、気配で目が覚めただけだ」
淡々とした声。揺らぎも、陽菜が示唆したような生々しい熱気も、そこにはない。ただ、冷たく静かな夜の空気に溶け込むような声だった。
柚希は胸の奥で小さな息を吐き出し、掛け布団を顎の下まで引き上げた。
「……ごめん。ちょっと考えごと」
「帰還の方法か」
「まあ、それもあるけど」
本当は、あなたという存在の輪郭が急に生々しく感じられて、自爆しているだけだなんて、口が裂けても言えない。柚希は曖昧にごまかすように、天井を見つめた。
「お前は、俺が帰ることを望んでいるのか」
突然投げかけられた問いに、柚希の思考が真っ白に染まる。
「え……?」
「俺が元の世界へ戻ることを、お前自身はどう思っている」
暗闇の底から届く声は、尋問のように淡々としていて、けれど逃げ道を塞ぐような絶対的な響きを持っていた。ルカは相変わらず天井を見つめたまま、微動だにしない。
柚希は喉の奥がカラカラに乾いていくのを感じた。
望んでいるか、望んでいないか。そんなシンプルな二者択一を突きつけられるなんて、思いもしなかった。
客観的に考えれば、答えは決まっている。彼は本来この世界に漂着してはならない異物であり、この世界の理から逸脱した例外だ。何より、彼自身が「帰りたい」という切実な望みを口にしている。ならば、彼をあるべき場所へ送り返すことこそが唯一の正解であり、協力者としての正しいスタンスのはずだった。
それなのに、思考の裏側からどろりとした真逆の欲望が首をもたげる。
――帰ったら、あなたは死ぬ。
その一言さえ告げれば、彼は帰るという選択を自ら諦めるかもしれない。少なくとも、そういう可能性はゼロではなかった。けれど、それは彼から選ぶという権利そのものを掠め取る行為だ。彼の人生の続きを、柚希の都合のいい形に固定してしまう行為だ。
二次元の頃なら、それでも構わなかった。選択肢はいつだって、プレイヤーである柚希の手の中にあった。だが今、隣で薄い布団の上で横になっているのは、選択を自分自身で下す権利を持った、一人の人間だ。
柚希は、長い沈黙のあと、ようやく口を開いた。
「……分からない」
嘘ではなかった。ただ、真実の全てでもない。
ルカは、しばらく柚希の顔を見つめていた。値踏みするような目ではなく、何かを確認するような目だった。
「そうか」
やがて、彼は短くそう言って、また天井を見つめた。
「ならば、お前も考えろ」
その一言は、これまでの関係性を、静かに書き換えた。
柚希がルカを救うのでもない。ルカが柚希を救うのでもない。どちらか一方が、一方の人生を勝手に背負う構造ではなく、二人でそれぞれの人生の続きを、それぞれの頭で考える。
それは、ゲームの中には決して存在しなかった関係の形だ。セーブもロードもきかない、取り返しのつかない時間の中で、二人分の答えを、二人でそれぞれ出していく。
柚希は、その事実の重さを、静かに受け止めるしかなかった。




