14:元推しは、契約違反
その日、玄関のインターホンが鳴った。
ドアスコープから確認すると、見覚えのない、いかにも「業務でお伺いしました」という顔つきの中年男性が立っていた。
明らかに、受領印一つで立ち去ってくれる宅配業者などではない。
身を潜め、このまま気配を殺して無視を決め込もうとした。けれど、魚眼レンズの歪んだ視界の向こうで、男の瞳が一直線にこちらを射抜いた気がした。
逃げ場を失った気分で息を呑み、ゆっくりとチェーンを外してドアを開ける。
「こちらのマンションの賃貸を管理しております、にっこり不動産の者です。今、すべてのお部屋にお伺いしているのですが」
男は、手元の書類に視線を落としながら、続けた。
「どなたかと、ご一緒にお住まいではありませんか?」
「えっ」
「実は、住民の方から、そういったお話がこちらに届いておりまして」
背筋を、冷たいものが這った。
脳裏に真っ先に浮かんだのは、隣人高橋さんの顔だった。ルカを探しに出た夜、運悪く捕まり、探るような視線で同棲の有無を問いただされた悪夢のような記憶が蘇る。高橋さんの鋭い観察眼と、ご丁寧に管理会社へ通報する「善意の住人」としての行動力に、柚希はめまいを覚えた。
契約更新は来年だ。できればこのまま、何事もなく居座りたい。
柚希は、努めて平静な声を作った。
「いえ、特には……」
その時だった。
男の視線が、玄関のスニーカーに吸い寄せられた。柚希のサンダルと並んで置かれた、明らかに男性用のスニーカー。どう取り繕っても、言い訳の余地がない構図だった。
いや、でも、まだ押し通せる。諦めるには早すぎる。
柚希は不屈の精神で脳内の回路を高速回転させ、必死に平静を装った。
「……あ、それ、弟のなんです」
男の視線がゆっくりとスニーカーから上がり、柚希の顔に固定される。
「弟さん、ですか」
「ええ。東京に就職面接で出てきていて、数日だけ泊めてるんです。ほら、ホテル代も馬鹿にならないですし……」
苦し紛れの言い訳が、自分の喉を通り、滑り出す。男は表情一つ変えず、手元のクリップボードに挟まれた書類へ視線を落とした。
「どうした。何か問題か?」
最悪のタイミングで、薄暗い廊下の影から姿を現したのは、整いすぎた容姿に刃物のような冷気を纏わせた、ルカ・ブライトだった。
「そちらの方は?」
男の視線が、柚希からルカへと移る。その顔には「どうみても弟さんではないですよね?」と書いてあった。当たり前だ。二次元から飛び出した完璧なルックスを持つルカは、平凡な日本人顔の柚希とは似ても似つかない。
「えっと……」
「ご一緒に、お暮らしになっている?」
柚希は諦めた。ここまで来て、噓を重ねる意味はない。
「……はい」
認めた瞬間、不動産会社を名乗る男は、勝ちを確信したような笑みを口元に浮かべた。事務的な仮面の裏側に潜む、他人の失態を暴いた快感が透けて見える。
「契約書にも明記してありますが、当物件は単身者専用です。同居は明確な規約違反となり——」
「俺は居候だ。同居ではない」
男の言葉を遮ったのは、ルカの低く冷ややかな声だった。
ウニクロのグレーのスウェットという、あまりにも庶民的な装いであるにもかかわらず、その身から放たれる威圧感は、さすが乙女ゲームのヒーローだと妙なところで感心してしまう。
いや、感心している場合ではない。
どうやらルカは、この世界の法律や賃貸契約というものを、まだ十分には理解していないらしい。そうでなければ、この状況で、ここまで堂々と不動産屋に食ってかかれるはずがない。
冷や汗を浮かべながらルカを見上げる。すると彼は、柚希を庇うように一歩前へ出た。そのまま自分と不動産屋の男との間に立ちはだかり、無機質な瞳で相手を静かに見下ろした。
「い、居候でも同じことです! 許可なく第三者を長期滞在させることは……」
「滞在期間の上限は何日だ」
「は?」
「この部屋の規約における、一時滞在の定義を尋ねている。何日以上の滞在から『同居』とみなされるのか、明確な数値で示せ」
氷のように澄んだルカの問い詰めに、男は一瞬言葉を詰まらせた。手元のクリップボードを慌ただしくめくるが、該当の箇所を発見できないようだ。
「答えられないということは、明確な規定が存在しないか、あるいは貴様の主観だな。俺がここに来てから、まだ一ヶ月しか経っていない。証明できる客観的なデータがない以上、不当な言いがかりとみなす」
「っ……ですが、男性用の靴が常置されていることや、近隣からの通報も——」
「それは俺が履いてきたものだ。一足置いただけで同居と断定するなら、貴様の思考回路は随分と飛躍が過ぎる。……それに」
ルカはわずかに目を細め、刃物のように鋭い視線を男に突き刺した。
「ドア一枚挟んだ向こう側の事情に過剰に干渉し、無根拠な脅迫まがいの催促を行う。それが、この世界の『不動産屋』という職種の正当な業務なのか?」
言葉の重圧に押され、不動産屋の男がじりじりと一歩後退した。異様な威圧感と、逃げ道のない論理展開。現代の日本の法制度など知る由もないはずのルカが、相手を完全に圧倒していた。
「……本日は、確認だけで失礼します。ただし、後日改めて書面にてご連絡いたしますので!」
捨て台詞を残し、男は逃げるようにエレベーターへ向かって早足で去っていった。
静まり返った玄関で、柚希は壁に背をもたれかけ、深く長い息を吐き出した。心臓が痛いほど脈打っている。
「……とりあえず、今日のところは助かった。でも、あんな言い合いどこで覚えたの?」
「ネットだ。法的なトラブルの対処法がいくらでも転がっていた。それに、屁理屈の組み立て方は、どの世界でも変わらない」
淡々と告げるルカの横顔を、柚希は見つめた。
「屁理屈言った自覚はあるんだ」
「まあな」
現代日本の賃貸契約が持つ法的な拘束力や、追及された時の本当の恐ろしさを知らないからこそ、迷いなくそのハッタリを押し通せたのだと、柚希は背筋を冷や汗が伝うのを感じた。
ウニクロのスウェットのポケットに手を突っ込み、ルカは呆れたように息を吐く。
「だが、時間を稼いだに過ぎない。奴はまた来るぞ」
「……分かってる」
契約違反の通知、違約金、そして強制退去。
現実の生々しい問題が、爪を立てて押し寄せてくるのは時間の問題だ。
二次元の元推しと、現代日本の狭い1LDKで繰り広げる違法同居。ロマンスの欠片もない歪な日常の破綻は、すぐそこまで迫っていた。
*
翌日、一階にある集合ポストに一通の手紙が入っていた。
不動産会社の封筒に入った手紙は、警告書というよりは淡々とした事務的な通達だった。
契約書には居住者一名と明記されており、当物件は単身者専用として貸し出されているため、第三者の常駐は契約違反にあたる——そうした説明が、感情の欠片もない定型文で並べられている。
今すぐ路上に放り出されるほどの差し迫った猶予のなさを要求しているわけではない。近隣から激しい騒音苦情が届いているわけでもなく、実害が生じているわけでもないからだ。
ただ、管理会社としての結論は明快だった。もしこのまま二人で暮らすことを望むのであれば、双方の同意のもと、条件に見合う適切な物件への転居を求める——要するに、穏当な立ち退きを迫る「最後通告」だった。
違反だと明言された以上、抗弁の余地はない。実際に違反しているのだから、これは正当な指摘だ。昨日あんな失礼な立ち回りを演じたのに、違約金を取られなかっただけ、まだ良心的な対応だったと思うことにする。
「……追い出されるわけじゃないけど、詰みには変わりないね」
自室に戻り、リビングのテーブルの上に書面を置く。ルカは冷めたお茶の入ったマグカップを手に取ったまま、視線だけをそこに落とした。
「転居か。お前に別の物件を借りるだけの資金はあるのか」
「それは大丈夫」
答えながら脳裏に浮かぶのは、両親の死と引き換えに転がり込んできた死亡保険。
通帳に刻まれた無機質な数字の列は、どんなトラブルも解決してみせるという横柄な顔で、いつだってそこに鎮座している。しかし、その資本主義的な万能感が通用するのは、ルールの中に存在する人間同士の取引だけだ。どれだけ口座にゼロを並べようと、「存在しない人間」の身元を社会的に買い取ることはできない。
「戸籍も住民票もない人を連れて引っ越すなんて、どうすればいいんだろ」
柚希は自嘲気味に息を吐き出すと、テーブルの上の封筒の角を爪の先で静かに撫でた。白い紙の端は正確な直線を描いていて、まるで二人の生活を切断するためにあらかじめ用意されていた刃物のようだった。
この社会において、「存在しない人間」を住まわせるスペースなど最初から用意されていない。
二人入居可の賃貸契約書を開けば、そこには当然のように整然とした入力フォームが並んでいる。氏名、生年月日、現住所、続柄、本人確認書類の提出。公的な機関が発行した顔写真付きのカード一枚で、人間の輪郭はあまりにも容易に定義される。
だが、目の前にいるルカにはそれがない。
彼を証明するデータはどのサーバーにも存在せず、どの行政窓口にも蓄積されていない。彼を担保するシステムが社会の側に一切存在しない以上、彼は審査に落ちる人物ですらなく、存在の入力を拒絶されるエラー値でしかなかった。
「……不動産屋に、なんて説明すればいいとおもう?」
柚希はマグカップの温もりすら消えた表面を指で叩きながら、空中に向かって問いかけた。答えなど返ってこないことは解りきっている。
『連れは戸籍も住民票もありませんが、家賃は払えます。身元保証人は立てられませんが、私の横で確かに息をしています』
そんな無邪気な狂気を提示すれば、待っているのは保証会社の審査落ちではなく、行政か警察への通報だ。正当なルールで運用されている社会システムに対して、ルカという存在そのものが致命的な違法性を含んでいた。
「別の部屋を二つ借りて、隣同士で住むか?」
「それだって、あなたが契約できないなら意味がないよ。私が二人分の家賃を払って二部屋借りたって、片方は契約者以外の不法占有になるだけ。結局、今と同じことの繰り返し」
詰み。
その二文字は、どれほど複雑に思えたパズルも、ただの「解なし」という不親切な一行で片付けられてしまうことを意味していた。逃げ道を探せば探すほど、自分が張り巡らされた法律と書類の網の中に美しく捕獲されている現実を思い知らされる。
正論というものは、凶器よりもずっと鮮やかに人を殺す。不動産会社からの封筒は、ただ淡々と、この世界が定める「正しい人間の生き方」から逸脱した二人を排除しようとしていた。
柚希は冷めきったお茶を口に含んだ。渋みだけが舌に残る液体を飲み込みながら、ルカの顔を見ることすらできずに、ただテーブルの上に転がるボールペンのノック部分をカチカチと無意味に押す。
しばらくして、ルカがぽつりと言った。
「俺のせいか」
「違うよ」
柚希は、努めて軽い口調で答えた。
「ちょうど、引っ越そうと思ってたところだし」
もちろん噓だ。だが、その噓が、この状況において最も適切な優しさだと判断した。責任の所在を巡る不毛な議論より、次の行動に移った方が生産的だ。
「ま、なんとかするし」
そう言って笑ってみせたが、その言葉がどれほど口先だけの気休めか、一番よく知っているのは柚希自身だった。
カチ、と音を立ててボールペンの芯が引っ込む。
冷めきったお茶を飲み干しても、喉の奥にへばりついた「詰み」の味だけは、どうしても消えてくれなかった。




