15:元推しは、詰み状態
管理会社から「強制退去」という四文字をちらつかされた日を境に、二人の優先順位はあっさりと狂わされた。
次元の壁を越える理論をこねくり回す時間の大半は、「二人入居可・保証人不要・即入居可能」という、到底叶うはずもない条件を検索フォームに打ち込む不毛な作業へと切り替えられた。
通りから響く飲み屋の賑やかな呼び込みの声。薄暗いリビングでは、不動産サイトの青い光が、液晶画面と向き合う柚希の顔を無機質に照らしていた。
『お風呂が沸きました』
機械的な電子音が室内を通り抜け、柚希の思考を強制的に中断させる。
続いてかすかな水音が聞こえ、ルカが湯船に身を沈めたことが分かった。彼が人間の生活様式を静かに受け入れていく音を聞きながら、柚希はカーソルを動かし、条件検索の「絞り込み」ボタンを押す。
《条件に該当する物件は見つかりませんでした》
見慣れたシステムメッセージが、冷ややかに画面へ浮かび上がる。
「二人入居可」「保証人不要」「即入居」――そこに「本人確認書類なし」などという、社会の裏側にしか存在しないチェックボックスがあるはずもない。
検索条件を一つ妥協するたびに表示されるのは、予算を大幅にオーバーしたタワーマンションか、築年数が半世紀を超えた木造アパートばかりだった。前者は審査以前の段階で柚希の現実感から弾かれ、後者は隣人の高橋さんの顔が嫌でも思い浮かんでしまうため気乗りしない。
狭小な木造アパート特有の密々とした相互監視社会では、高橋さんのような過剰に鋭い観察眼を持った住民が、必ず一人は存在する。戸籍も住民票もない、存在しない男をそこに隠し通すなど、自ら「通報してください」と首を差し出すようなものだ。
詰み。画面上の「0件」という数字が、あざ笑うかのように点滅している。
ルカを元の世界に戻すための魔法陣の考察も、次元干渉の計算式も、すべてはこの薄型ノートパソコンの画面の前で一時停止していた。異世界の存在という人智を超えた神秘も、日本の賃貸不動産市場という堅牢なシステムの前では何の効力も持たない。魔法の力で空間を歪めることより、日本の不動産会社を騙して鍵を手に入れることのほうが、遥かに不可能な領域に思えた。
浴室のドアの向こうで、また小さく水が跳ねる音がした。
「……はぁ」
柚希は膝を抱え込み、パソコンの天板に額を預けた。冷たい金属の感触が、頭の奥に溜まった鬱熱を少しだけ奪っていく。
「ま、三十年ローンで私がマンション買うって手もあるし」
突き当たる現実に、あえて現実味の欠けた冗談を口にした時、ふと、柚希は思い出した。
『背徳のトガに咲くレガリア』にも、似たようなイベントがあった。
ヒロインのミレイとルカの好感度がハート三つに到達した際に発生する、「引っ越しイベント」だ。
この物語には、代々「レガリア」と呼ばれる絶大な魔力が王家に受け継がれているという設定があった。王族の中でも突出した素質を持つ者は、国家の繁栄と防衛を司る巨大な魔法機構「王冠のレガリア」と同調する権利を与えられるというものだ。
だが、その神聖なる力には、美しく飾られた王冠の内側に隠された、消えない傷のような秘密が存在していた。
国家の栄華を支え続ける「王冠のレガリア」の真実。それは――たった一人の人間に、国家規模の罪と呪いのすべてを押しつけ、犠牲にすることで成立している、歪んだ人体実験にも等しい禁忌のシステムだった。
世界の平穏という大義名分のもと、「罪を背負わされる贄」が、代々王家の中から選定される。それが、物語の舞台となる大国――アルセリオン王国だった。
そして今代、その壮絶な呪いの受け皿を押しつけられたのが、ルカ・ブライトだった。
残酷な運命を背負わされたルカがミレイと深く関わることで、「王冠のレガリア」にかけられた呪いが揺らぐことを国王は恐れた。そのせいで、ミレイは容赦のない嫌がらせを受けることになる。
ミレイは身の安全を守るために転居を余儀なくされる。その過程で、王家の放つ刺客から迫害されるミレイをルカが身を挺して庇う。その事件をきっかけに、ルカと王家の間には小さな亀裂が入り、命がけで自分を守ってくれた彼を、ミレイもまた一人の男として本格的に意識し始める。
ゲーム内では、美しく劇的な恋愛フラグ回収の名イベントだった。
「ほんと、あのイベントのルカ様のスチルは、格好良かったなぁ」
雨に濡れた路地裏で、傷つきながらもミレイを背中に庇い、冷ややかな瞳で刺客を射抜くルカの姿は、プレイヤーたちの悲鳴と絶賛を浴びた、屈指の名シーンだ。
「でも……」
どれほど壮絶な悲劇であろうと、フィクションの世界である限り、それは消費されるための美しい物語としてパッケージ化されているに過ぎない。破滅の危機すらも、主人公たちの愛を深めるための「ドラマチックな障害」という都合のいいイベントの一つだった。
だが、現実のこの部屋で繰り広げられているのは、演出も音楽もない、ただの「詰み」の状況だ。
敵対する王家も、暗躍する刺客も、命を懸けた逃避行すら存在しない。あるのはただ、保証人と本人確認書類という行政の強固なシステムと、管理会社からの現実的な通達だけだ。
画面の中ではあんなにも神聖で美しく描かれていた男が、今や日本の賃貸不動産市場という現実的な制度の前で、単なる「身元不明の不法占有者」へと成り下がっている。
「……刺客に狙われる方が、まだ魔法で撃退できる分マシだったかも」
天板から顔を上げ、ぽつりと漏らした声は、自分でも驚くほど乾いていた。
その時、風呂場からルカの鼻歌が聞こえてきた。
湯気と水音の隙間から漏れ出る、聞いたこともない異世界のメロディ。自分の置かれた不条理な状況などどこ吹く風で、彼なりにこの世界の湯浴みを満喫している無邪気な音色だった。
ふと、喉の奥が引きつるような感覚が柚希を襲う。
「……もしかして、同じなのかな」
ゲーム内で強制的に引っ越しを余儀なくされたミレイの姿が、脳裏に蘇る。敵対組織に目をつけられ、住み慣れた場所を追われた彼女は、そのままルカとともに新しい生活へ踏み出していく。ゲームでは、それが恋と陰謀の幕開けを告げる、いかにも重要そうなイベントだった。
だったら、今の自分たちはどうだろう。
管理会社から引っ越しを求められ、住み慣れた部屋を出なければならない。ルカは身分証もなく、戸籍もなく、この国では「存在していない人間」に近い。
そう考えてしまうと、たかが部屋探しなのに、途端にただ事ではない気がしてくる。
もしかして、これも死亡フラグなのではないか。
心臓をナイフで刺される代わりに、不動産会社の審査で落とされる。刺客に追われる代わりに、本人確認書類の提出を求められる。
いや、待って。どう考えても、スケールが違いすぎる。
「……さすがに一緒にしちゃダメでしょ」
自分で考えて、自分でツッコむ。
ゲームでは、引っ越しの先にも刺客が待っていた。現実では、その先に待っているのは、せいぜい築年数と家賃と駅からの距離だ。
それでも、柚希の脳裏には、ゲームの中で見た美しい死亡フラグの数々が次々と浮かんでくる。
「異世界から転移してきたって、結局、死亡フラグからは逃げられない……」
ぽつりと漏らした言葉に、自分でも少しだけ馬鹿馬鹿しくなった。
王家の刺客に命を狙われるヒロインと、不動産サイトの「0件」という数字に絶望する自分。並べてしまえばあまりにも間抜けな差なのに、当事者にとっては、どちらも「この先どうなるんだろう」という不安には変わりなく感じてしまう。
柚希は小さく息を吐き、もう一度パソコンの画面へ視線を戻した。
死亡フラグなのか、ただの引っ越しなのか。
今のところ、その答えすら分からなかった。
*
その夜、毛羽立ったラグの上に二人で並んで座り、ノートパソコンの画面を覗き込んだ。
引っ越しの条件をお互い擦り合わせるために始まった緊急ミーティングだった。しかし、柚希と同じボディソープの香りを漂わせたルカが口にする部屋の条件は、どこまでも異質だった。
「防犯性が高いこと」
「見晴らしがいいこと。緑があれば、なおいい」
「いざという時に逃げられる道があること」
「隣の家と距離があること」
「玄関が一つしかないのは危険だ」
「寝室には、必ず窓を」
「風呂とトイレが一緒なのは絶対に嫌だ」
どこを切っても、異世界で生きてきた人間の理屈しか出てこない。命を狙われる前提で生きるルカの基準に、柚希は苦笑いを噛み殺すしかなかった。
対する柚希の条件は、あまりに現実的で生々しかった。
「駅から歩いて十分以内」
「家賃は八万円まで」
「近くにスーパーがあること」
「仕事の机が置けること」
「壁や床が厚いと嬉しい」
二人の求める条件は、どう足掻いても混ざり合わなかった。
「ここならいいんじゃない?」
「家賃が高すぎる」
「でも、ここは平和そうな街だよ」
「危険だ。挟み撃ちにされたら逃げ場がない。それより、これが良さそうだ」
「スーパーが近くにないじゃん」
画面に並ぶ部屋の写真と数字を挟んで、二人の言葉は一度も重なることなく、滑稽なほど平行線をたどり続ける。
けれど、この噛み合わないやり取りのすべてが、ゲームの画面には絶対に存在しない時間だった。
誰かが用意した美しく切ないイベントシナリオではない。シナリオライターの思い通りにもならず、誰の脚本にも回収されない、二人だけの生活の摩擦。
どれだけ探しても理想の部屋なんて見つからないのに、この不毛な時間こそが、自分たちが確かに同じ部屋で生きている証拠なのだと、柚希は静かに気づき始めていた。




