05:元推しは、どのルートでも必ず死ぬ
画面の向こうでしか見たことのない顔。数ミリのプラスチック越しにしか触れたことのない輪郭。かつての推し、ルカ・ブライト。彼が確かな質量と体温を持って、柚希の1LDKのリビングに住み着くようになって一週間が経った。
ゲームの中では、第一王子の異母弟でありながら『影踏みの落胤』と呼ばれ、無数のオタクを美麗なスチル一枚で殺しまくった存在だった。
ちなみにオタク側の通称は『即死ブラック』だ。作中でも確実に死ぬし、その死に方の尊さゆえに、沼に落ちて出られなくなるオタクが後を絶たなかったから、というのが由来らしい。誰が呼び始めたのかは知らないが、絶妙にセンスがいい呼称だと、当時の柚希は思っていた。
そんな男が、今は住所不定無職として、柚希の家に我が物顔で住み着いている。
人間の運命というのは、時々、あまりにも雑に転がるようだ。
柚希は某IT企業でアプリケーション開発系のプログラマーをしている。フルリモートで勤続二年目、年収は四百万とちょっと。恋人は、大学時代に半年だけ付き合った人が一人いるだけで、それ以降は特に何も更新されていない。
大学二年でルカに出会ってからというもの、可処分時間のほとんどを彼に献上してきたと言っても、誇張ではなかった。
年に数回のコラボカフェや単独イベントが開催されれば、全国から集まる同担の熱気に気圧されながらも現地へと足を運んだ。SNSで同じ痛みを抱えるオタクと夜通し感想を語り合い、見知らぬ誰かと熱量を共有する。
そんな推し活という名の遅効性の自傷行為をやめ、浮いた時間と金を持て余すようになってから、世界はひたすら無色無臭へと変貌した。
リモートワークという都合のいい免罪符のせいで、人と会うことも、太陽の光を浴びて歩くことすら忘れていた。
暗い部屋の隅で、スマホ画面の光で照らされた顔が一瞬ブラックアウトした時、画面に不意に映り込んだ自分の死相のような顔にぞっとした。
ネットニュースのタイムラインを滑り落ちていく「二十代の突然死」という無機質な文字列。自分と同じくらいの年齢の誰かが、同じ空の下で命の灯を消していく事実が、冷たい水のようにじわじわと足元から迫ってくる。
両親が無理心中という身勝手な結末を選び、この世界にぽつりと一人取り残されて、面倒を見てくれた祖母が亡くなって以来、柚希は完璧な天涯孤独だった。
「死後数日が経過した状態で発見」
画面に浮かぶその不穏な見出しは、決して遠い世界の悲劇ではなかった。部屋の中で倒れても、異臭が廊下に漏れ出すまで誰一人として気づかないかも知れない。
すっかり痩せ細り、生きるための筋力をだいぶ失ったこの身体をどうにかこの世界に繋ぎ止めるため、そろそろジムにでも通って現実の肉体を取り戻さないといけない。
SNSのアカウントに流れてくる宣伝が、やたら筋トレグッズやらプロテインをオススメしてくるようになり、促されるように重い腰をあげようとしていた矢先のことだった。
元推しが、柚希の部屋に住み着いた。
あろう事か、二十四歳の誕生日に。
その事実に、不条理な運命めいた意味を見出す脳味噌は、持ち合わせていないつもりだ。
けれど、もしあの日が1/365日ではなかったなら。
残りの364日のどれかであったなら、ルカという劇薬のような異物がこの世界に存在している異常事態を、これほど冷静に受け入れられていたかどうか、自信がない。
二人で暮らすには明らかに手狭な1LDK。幸い金銭面については、両親の死亡保険金もあるし、今のところ貯金を大きく切り崩すことなくルカを養えている。ここは唯一安堵していい部分だ。
*
狭い1LDKの一角を占拠する、柚希だけの無機質な職場。
デスクはUKEAで買ったデザイン重視型。オフィスチェアは勤続二年の記念に、貯金を吐き出して買った、人間工学に基づくと謳われた椅子だ。
太陽も届かず誰の体温にも触れない日々で、柚希の肉体を物理的に支えてくれるのは、この数十万円の人工レザーと金属骨格だけだった。
家の中で唯一快適に整えられたその一角で、柚希はキーボードを叩く。仕様のすり合わせから命名規則まで、AIへのプロンプトを淡々と打ち込み、最後に冷たい指でエンターキーを押した。
画面の中で、カーソルが点滅を始める。少し遅れて、AIが要求を咀嚼し、静かにソースコードを吐き出し始めた。ログがスクロールし、関数が生成され、コメントアウトされた説明文が律儀に一行ずつ追加されていく。
柚希にとっては見慣れた光景のはずだったが、今日はどうにも、その律儀さが皮肉に思えて仕方なかった。
命令すれば動く。仕様を与えれば、その通りに正しく、破綻なく仕上がる。
背後で、人が駄目になるソファに体を沈め、貸したタブレットを不器用な指つきで操作しているルカとは、正反対だった。
彼は命令に従わない。仕様を与えてもその通りには動かない。でも、ルカ・ブライトという存在そのものに、いずれ強制的に上書きされる運命が最初から仕込まれている。
――あなた、ゲームでは必ず死ぬんだよ。
その一文を、柚希は結局、口の中で溶かして飲み込んだままだ。
もう何度目か分からない。まるで、消化されずに体の中を巡り続ける毒物みたいに、溶かして飲み込んで、また同じ場所でその言葉が分泌され続けている。
画面の向こうでコードが生成される速度と、目の前でルカが少しずつ現代日本に馴染んでいく速度は、たぶん同じくらい緩やかで、同じくらい取り返しがつかない。前者は柚希が終了ボタン一つで止められる。後者は、たぶん、もう止められない。
頭の中で、ゲームの記憶を整理する。
『背徳のトガに咲くレガリア』
本来ルカが君臨すべき血塗られた舞台であり、かつて柚希が正気を投げ出し貪り尽くした、極彩色のダークファンタジー恋愛ゲーム。
王国に巣食う呪いの謎解きに比重を置いたシナリオ重視作で、真相に近づくほど画面が重苦しくなる仕様で有名だった。攻略対象の好感度を上げるのに音ゲーが必須という、音ゲー初心者を大量に殺した鬼畜設計だったことも、今となっては懐かしい。
物語の骨格は、単純だった。
王家には「レガリア」という力が代々受け継がれている。しかしその実態は、国の繁栄を支えるために、誰か一人へ罪と呪いを集中させるという禁忌のシステムだった。今代、その役目を押しつけられたのが、王の私生児として生まれたルカ・ブライト。
彼は、王族でありながらスート・アンド・シャドウの一員として教育され、暗殺と粛清を一手に引き受ける存在でもあった。しかも真相ルートでは、彼が物語の開始以前に一度死んでおり、禁呪によって蘇生された身体であることが明かされる。
どのルートでも、彼は必ず死ぬ。
ヒロインの優しさに触れて改心しても、最後には自らを犠牲にする。それが「通常エンド」と呼ばれていたのだから、この業界の倫理観というのは、今考えても少しおかしい。
柚希が夢中になっていた頃は、ルカのことを「一人で全てを背負う、真のヒーロー」だと信じて疑わなかった。重苦しい過去も、破滅の運命も、画面の向こうで完璧に演出された悲劇として、美しく消費していた。悲しみに解像度の高いスチルとBGMがつけば、それは容易く感動へと加工される。
だが、実際に現実へ転がり出てきたルカは、真のヒーローどころではなかった。
自動ドアを警戒し、コンビニの肉まんを戦利品のように両手で持ち、手首を摑まれれば反射で相手を地面に叩きつける。ゲーム内では「美しく演出されたトラウマ」として消費していたものが、現実では、深刻な対人不適応として、柚希の狭い1LDKの中で常時稼働していた。
悲劇は、画面の外に出た瞬間、感動から生活へと変換される。
現に、スチルもBGMもないこの狭いリビングで、彼は今、ツナマヨおにぎりのフィルムと不毛な格闘を繰り広げている。
「……柚希。この透明な膜は、中身を削ぎ落とさずに剥がす手順が存在するのか。あるいは、これは試練なのか?」
「中央の帯を1から順番に引っ張るの。あ、そこ、無理やり引き裂こうとしないで」
美しく冷酷な殺し屋の、指先の繊細さはどこへ行ったのか。
「……よし、剥がせた。だが、海苔が左右に分離したぞ。これは不完全な状態ではないのか」
「引っ張り出して食べて。お腹にはいったら一緒でしょ」
溜息をつきながら緑茶のキャップを開ける。
画面の向こうで彼が辿った幾千の死と、今ここでツナマヨの海苔に一喜一憂しているあまりにもくだらない現実は、どこでどう繋がっているのだろう。
メインPCでAIにコードを書かせている横で、柚希はノートパソコンの液晶画面を睨みつけながらテキストを開いた。そこには、この一週間、ルカから言葉を一つずつ引き剥がすようにして回収した情報が、まとめられている。
どうやら彼がいた世界は、ヒロインのミレイが看板ヒーローであるアレックスを選んだ、いわゆるメインルートの世界線だったようだ。ルカの記憶は、アレックスを殺そうとしたところで途切れている。その先、なぜ自分がここにいるのかについては、彼自身にも分からないという。
本人いわく、『気付いたら、無性に腹が減った状態で、お前の部屋の前に立っていた』そうだ。
柚希もそれ以上は追及しないことにした。深く考え始めれば、いずれオカルト雑誌の定期購読者になる未来しか見えない。理由が分からなくても、事実として、彼はこの部屋に存在している。それだけで、もう十分だった。
改めて考えると、この男には、生きている未来が一つもなかった。
柚希は振り返ってかつての推しの姿を確認する。
彼はいま、ウニクロで適当に買い揃えた量産型の部屋着を着て、少し毛羽立った安物のポリエステルラグの上で、タブレットの画面を見つめながら、剥ぐのに失敗したツナマヨおにぎりを頬張っている。
完全に柚希のヒモニート化しているルカを見て、ふと思った。
どのルートを選んでも、彼には死しか用意されていなかった。誰に愛されても、何を悔いても、最後には必ず、国のために摩耗して終わるシナリオだった。
――だったら、一回くらい、生きてる世界線を見てもいいんじゃない?
声には出さなかった。だが、その思いだけは、柚希の中ではっきりとした輪郭を持って残った。




