04:元推しは、住所不定無職
ようやく到着したコンビニの自動ドアには、もう慣れたのか、ルカは驚かなかった。だが、店内に一歩入った瞬間、今度こそ完全に固まった。
天井に隙間なく埋め込まれた白い蛍光灯の光が、商品を均一に照らし出している。陰影の存在しないその空間は、暗殺者として生きてきた彼にとって、あまりにも晒されすぎている場所だったようだ。
身を隠す影がないとでも言いたげに眉根を寄せ、ルカは背中を壁に打ち付ける勢いでバックステップを踏んだ。もちろん、背後にはただの雑誌ラックがあるだけだ。明るく健全に微笑むビキニ姿の少女が表紙を飾る漫画雑誌とルカの頭部が危うく衝突しそうになり、柚希はすかさず彼の袖の端を、決して肌には触れないよう布地だけを厳重につまんで引き戻した。
「静かにして。ここに影がないのは、泥棒を警戒してるからだよ」
「……光で逃げ道を奪う思想か。不快だな」
吐き捨てる声すら低くて、無駄にイケボだった。
店内の隅では、二十代らしき男子バイトがだるそうに品出しをしている。
ルカの著しく社会性の欠如した不審者な雰囲気には、幸いにも気づいていない。もしかしたら、深夜のコンビニ店員特有の「余計なものには関わらない」という自己防衛本能が働いているだけかもしれない。
ルカはおにぎりが並ぶケースの前に立つと、規則正しく整列する無機質な三角の山を、まるで未起動の小型爆弾でも目撃したかのように睨みつけた。
「……何だ、この奇妙な形状の塊は」
「おにぎりだよ。お米の中に具が入ってるの」
「なぜ米を三角形に成形する必要がある。宗教的な儀式か?」
「ただ持ち運びやすくて食べやすいからだよ。ツナマヨと鮭ならどっちがいい?」
「……ツナマヨとは何の隠語だ」
「マグロの油漬けにマヨネーズを和えたやつ。お得で美味しいの代名詞」
ルカは怪訝そうに眉をひそめ、陳列棚の一番手前を注視した。そこに並ぶ、七十円引きの黄色いシールが貼られたツナマヨおにぎりを睨みつけている。
「ここは、晩餐会のバックヤードか何かなのか」
「ただのコンビニ」
「コン……しかし、この量の食料を、誰でも手に取れる状態にしておけるというのは、いささか危機管理能力に欠けるような。いや、意外にこの世界は秩序が保たれているのか。それとも、単に毒を盛る手間すら省くほど住人が愚鈍なのか」
「誰も毒なんて入れないし、盗んだら監視カメラで一発でバレて警察が来るからね。私たちの世界は、システムで守られてるの」
柚希は天井からぶら下がるカメラを指さした。ルカがその先を追おうとした時、背後から滑り込んできた男子学生が、七十円引きのツナマヨおにぎりを迷いのない手つきでさっと掠め取っていった。
一瞬の静寂のあと、スミレ色の瞳に殺気を込めて、ルカはすっと目を細めた。まるで、限られた資源を巡って争う貧民街の住人でも見るような、徹底的に冷えた蔑視と殺意の混ざり合う視線だった。
「……あの男は、食料の奪い合いを制したつもりなのか」
吐き捨てる声。
柚希にとっては見慣れた値引き商品の争奪戦が、彼には、明日をも知れぬ飢餓の渦中で行われる命がけの奪い合いにでも映っているのだろう。そのあまりのすれ違いに、少しだけ憐れみが湧いた。ほんの少しだけ、だが。
「ただの夜食の買い出しでしょ。お願いだから、ここで戦闘態勢に入らないで」
柚希はルカの視線を遮るように立ち塞がった。
「コンビニは戦う場所じゃないし」
さらりと言って、柚希はおにぎりを棚から取った。
「さ、次のコーナー行くよ」
柚希を先頭に一通り店内を巡回したルカは、肉まんが並ぶスチーマーの前で立ち止まり、鋭い目つきで観察していた。
「あの籠の中で何を飼育しているのだ」
「小麦粉を水で捏ねたものの中に豚肉を包んだ、肉まんっていう食べ物を温めてるだけ。美味しいよ」
「……閉じ込められた肉が、なぜ腐敗せずに湯気を上げている」
「文明の力だよ。質問攻めにしてないで、何食べるかそろそろ決めて」
柚希の投げやりな催促に、ルカは即座には答えなかった。
ただ、蒸し器の隙間から漂う甘辛く蒸された肉と油脂の暴力的な匂いに、彼の鼻腔がわずかに開く。それからルカの喉仏が、悔しそうに一度、小さく上下した。
プライドと生存本能、そして純粋な空腹。その三つが脳内で激しい領土争いを繰り広げているような表情だった。
やがて彼は、掠れた溜息とともに一本の細くしなやかな指をすっと伸ばした。彼が指したのは、蒸し器の向こうで湯気を上げる、ごく普通の肉まんだった。
言葉による敗北宣言すら拒むような、無言の意思表示。
「肉まんにするの? ピザまんもあるし、キーマカレーまんとか角煮まんもあるよ」
「……うまいとお前が言っただろう。ブレるな」
「はいはい、普通の肉まんでいいんだね」
柚希は呆れ交じりに店員へ肉まんを二つ注文し、自分用に選んでおいたツナマヨおにぎりと緑茶のペットボトルをレジの脇に置いた。
「レジ袋はいりますか?」
「大丈夫です」
店員の胸元の名札に、可愛らしい響きの「チョウ」という二文字を見つけた柚希は顔をあげる。そこには、軽やかな蝶とは似ても似つかない、厳つい骨格をした外国人男性がいた。
「この人、コスプレイヤー?」
店員のチョウは、ルカに視線を向けながら、妙に流暢な日本語を唇から滑らせた。
「まぁ、そんなとこです」
「イケメンだね。日本は初めてなのかな?」
チョウは、バーコードリーダーを流れるような手つきで操作しながら、気さくに語りかけてくる。
「……ええ、まあ。ちょっとカルチャーショックが大きいみたいで」
「なるほど。お会計、八百四十円になります」
「あ、PoyPoyで払います」
柚希はポケットからスマホを取り出した。
「お前、まさか……」
ここへ来る途中、通りすがりの人間からスマホを向けられたことを思い出したのだろう。柚希に向けて全身から警戒心を発したルカが、音もなく腰を落とす。
「大人しくしてないと、肉まんあげないよ」
「くっ。卑怯な」
ルカは警戒するように後ずさった。
「せめて、それが魔導具なのかどうかだけ教えろ」
「工業製品だよ」
レジについた液晶画面にスマホをかざし、画面のバーコードを読み取らせる。
『ピリーン』という、緊迫感の欠片もない電子音が店内に響き渡った。
柚希の数歩後ろから、まるで未知の兵器を取り扱う実験場でも見るような目で、その手元を監視していたルカの瞳が、目に見えて大きく見開かれる。
「……何をした」
「買い物をしただけ」
「金属の貨幣も、紙の証書も渡していない。お前は今、あの店員に何らかの不可視の対価を差し出したのか」
「電子決済だよ。私の口座から数字が引かれて、店の数字が増えてるの。あ、呪いじゃないから」
「なるほど、電子決済か」
ルカは、理解を放棄したような顔で呟いた。
目に見えない場所で価値が移動するという概念そのものが、彼の世界観には存在しない。だからまあ、そうなってしまうのも仕方がない。
商品をエコバッグに詰め、自動ドアをくぐり抜けて店を出る。外の湿った夜風が、火照った肌にまとわりつくように触れた。
ルカは近くの公園に向かう道すがら、信号機の前では赤信号で立ち止まる群衆を見て、「この国では、光の色に従って人間が統率されているのか」と、妙に的を射た感想を漏らした。
自動販売機の前では、無言で十秒ほど眺めたあと、「これは、生き物か」とだけ聞いてきた。柚希は「違う」とだけ答えた。それ以上の説明をする気力が、もう残っていなかったからだ。
混乱の果てにようやく辿り着いた公園のベンチに、二人並んで座る。
「はい、どうぞ」
肉まんを差し出すと、ルカはそれを受け取ろうとせず、薄い唇を不機嫌そうに噛み締めた。
「……施しか」
「そうだよ」
柚希は迷わず頷いた。ここで気を遣って言葉を濁す方が、むしろ失礼だと思ったからだ。
「俺を誰だと思っている」
「無職」
「……」
ルカが黙る。
沈黙の質感が、先ほどまでとは違う種類のものに変わったのを、柚希は肌で感じ取る。彼のプライドが静かに、しかし確実に軋んでいるようだった。だが、柚希は容赦しなかった。ここで手加減する優しさは、彼のためにならないと本能的に判断したからだ。
「身分証なし。戸籍なし。住所なし。所持金ゼロ」
「……」
「現代社会では、かなり弱いよ」
その一言が、とどめだった。
王族の血を引き、汚れ仕事の一切を担ってきた男が、公園のちらつく街灯の下で、自分の社会的地位を初めて正確に理解した瞬間だった。
彼のこれまでの人生において、彼を脅かしてきたものは常に暗殺、裏切り、呪いといった、物騒で重厚なものばかりだったはずだ。それが今、彼を最も深く打ちのめしているのは、住民票の不在という、あまりにも事務的な現実だった。
ルカは、しばらく何かに耐えるような顔で、膝に置いた手をきつく握りしめていた。
やがて、絞り出すように言った。
「……お前を、頼るしかないということか」
「そうなるね」
「不本意だ」
「知ってる」
それでも彼は、柚希の差し出した肉まんを両手で受け取った。
施しだと分かった上で、それでも受け取るという選択を、彼はした。
柚希はそれを見て、少しだけ彼の中の何かが変わったのかもしれないと思った。
その夜、ルカは正式に柚希の家に居候することになった。
1LDKに、異世界から元推しが転がり込んでくるという状況は、控えめに言っても正気の沙汰ではない。だが柚希は、その正気の沙汰でなさこそが、今の自分に一番よく似合っていると思った。
元推しに家賃は請求できない。
その事実だけが、この夜、唯一の慰めだった。




