03:元推しは、夜の街に出る
結論から言えば、王族の教養というのは、現代日本において何の役にも立たなかった。正しくは、ゲーム設定上の王族だけれど。
柚希がそれを思い知ったのは、食料を求めて外へ出る途中、マンションのエレベーター前でルカが完全に停止した瞬間だった。彼はエレベーターの前に立つと、開いた狭い鉄の箱を不気味そうに睨みつけ、断固として乗車を拒否した。
「人を閉じ込めて圧死させる仕掛けか」
「下に降りるだけの箱だよ。嫌なら階段ね」
夜風が吹き抜ける非常階段の踊り場で、ルカは身を乗り出すようにして、隣接するマンションの無機質な壁を見下ろした。
「……収容所か」
隣の建物との隙間は、大人が手を伸ばせば届きそうなほど狭い。ベランダに干された生活感の残骸、排気口から吐き出される油臭い蒸気、そして何重にも重なり合う鉄骨の影。東京という、極限まで人間を圧縮して押し込めた大都市の歪みが、そこには剥き出しになっていた。
「違うよ」
柚希は手すりに寄りかかり、溜息混じりに否定した。
「ここはよくある単身者用のマンション。景観なんてものはね、この街じゃお金で買う高級品なの。貧乏人が住む場所なんて、どこもこんな風に隙間なく箱を敷き詰められてるだけ」
ルカの冷ややかな視線が、柚希へ向けられる。その瞳には、自分の理解が及ばない異世界の規律に対する不快感が、露骨に浮かんでいた。
「光も風も遮り、人間を箱に収める行為を、この世界では『住む』と呼ぶのか」
「そうだよ。だから誰も隣人の顔なんて覚えてないし、隣で人が死んでても一か月は気づかれない。ある意味、お望みの隠密行為には最適でしょ」
自嘲気味に呟いた言葉は、湿った夜気に吸い込まれて消えた。
非常階段を下り、夜の街へ踏み出す。雨上がりの湿気を重く孕んだアスファルトの大通りに出ると、深夜の東京は、濡れた路面に反射する無機質な人工の光で不自然に白んでいた。
光の渦の中心で、二十四時間営業の牛丼屋が煌々と黄色い看板を掲げている。
一日かけて丁寧に摩耗した人たちが、ただ消費するための器官となって、忙しなく開閉する自動ドアの隙間から店内へ滑り込む。店内を覗けば、カウンターに孤立した人間たちが、黙々と茶色い米と肉を口へ運んでいた。
食料を調達するには、無関心で埋まるあの場所が一番手っ取り早い。
「あそこに入るよ」
柚希が先に敷地へ足を踏み入れた、その瞬間だった。
ウィーン、と軽快な機械音を立てて、透明なガラスの扉が左右に滑り出す。ルカの手が反射的に腰へ動いた。剣の柄があった場所を探る仕草だ。もちろん、そこには何もない。丸腰で未知の金属の仕掛けと対峙する彼の緊張が、柚希の目には少しだけ痛々しく映った。
「……何の魔術だ。ガラスが割れたぞ」
「自動ドアだよ」
無人のはずのガラスが滑らかに左右へ開いただけで、彼はこの世の終わりでも見たかのように身構えていた。
「……開いた」
「うん、開くよ」
「誰も触れていないのに、閉まった」
「そういう仕組みだから」
「やはり魔術か」
「センサーだよ」
センサーという単語が通じないことは、説明する前から分かっていた。
案の定、ルカは自動ドアに向かって数歩後退し、また前進した。そのたびにドアが開閉する様子を、まるで初めて出会った小動物でも観察するような目で見つめている。
柚希はその横で、なるべく無表情を保つ努力をした。笑ったら、たぶん殺される。物理的にではなく、彼の心に永遠に消えない殺意を刻みつけるという意味で。
結局その日は牛丼を諦め、徒歩でコンビニへ向かうことにした。
アスファルトの路面。規則正しく明滅する赤と青の信号。頭上を轟音とともに通り過ぎる高架上の電車。そのすべてに対して、ルカは獲物を狙う獣のような鋭い警戒心を振り撒いている。
道行く若者が「なんだあのイケメン、コスプレ?」と囁きながらスマホのレンズを向けると、ルカは一瞬で間合いを詰め、その小さな精密機械を奪い取ろうとした。
「よせ。その怪しい光る板で命を吸い取る気か!」
「ただのカメラだよ! 人のスマホ奪おうとしないで!」
柚希が止めようと手を伸ばした瞬間、視界が不自然に傾いた。
次の瞬間には、冷たく湿ったアスファルトの感触が背中に跳ね返ってきた。
まただ。
仰向けのまま見上げた夜空の隅に、街灯の光を背負ったルカの影が覆いかぶさっている。柚希の手首をねじ上げる彼の指先は、氷のように冷たく、容赦がなかった。
「……言ったはずだ。触れるなと」
鼓膜を刺す低音。そこにあるのは凶暴な殺気だった。
スート・アンド・シャドウの訓練所で刷り込まれた防衛反応。他者からの接触は、即座の排除。その鉄則に忠実に従って、彼は柚希を地面に叩きつけたのだ。
ああ、またやっちゃった。
脳内で、かつて寝る間を惜しんでやり込んだゲームのシステムメッセージが、真っ赤なエラー表示を伴って点滅しているような気がした。
【選択肢:手首を掴んで止める】
→ ルカの好感度が【絶望】まで低下しました。
→ バッドエンドフラグが進行します。
画面の向こうの公式シナリオであれば、リセットボタンを押して直前のアニメーションからやり直せば済む話だ。だが、濡れたコンクリートの不快な湿り気と、みぞおちにめり込む彼の膝の重量感だけは、リセットできない現実としてそこに存在していた。
「……分かった、分かったから退いて」
腕を押さえ付けられながら、必死に声を張り上げる。
「あなたを止めるためだったの。この世界で他人の持ち物を奪ったら、すぐに警察に捕まって暗い部屋に閉じ込められる。そうしたら、ルカの大層な復讐計画も、全部ここで終わりなんだよ」
ルカの眉根がぴくりと動いた。
復讐という言葉が効いたのか、それとも自分の失態を悟ったのか。彼は嫌悪感を露わにしながら、弾かれたように柚希から身を引いた。
「チッ……」
舌打ち一つを残し、ルカは立ち上がる。
湿り気を帯びたコンクリートの上に寝転んだまま、柚希は痛む手首をさすり、虚しく夜空を仰いだ。
公式が用意した、あまりにも理不尽な高難易度キャラ。プレイヤーを拒絶するために作られたようなトラウマ設定に、まさか三次元の自分が物理的に痛い目に遭うなんて。
「誕生日なのにな」
ぼそりと呟き、柚希は起き上がった。
二十四歳の開幕としては、あまりにも酷い。
グッズに湯水のごとく課金し、画面越しに愛でていたはずの推しに二度も床ドンをかまされ、手首には歪な赤紫色の手形が残っている。
画面の向こうのヒロイン――ミレイなら、ここで儚げに目を伏せて「大丈夫……?」なんて健気に微笑み、フラグの芽を育てるのだろう。だが、実際に地面へ転がされた二十歳半ばのプログラマーにできるのは、痛む関節を回しながら、自分の哀れさに乾いた溜息を吐き出すことくらいだった。
ルカは柚希を気遣う素振りすら見せず、ただ無機質なビル群と、時折通り過ぎる車のライトを目で追っていた。その孤高で冷たい横顔は、公式画集の表紙そのままだ。だからこそ、タチが悪い。
「……腹が減ったと言ったはずだ」
ルカはごく自然な態度で要求を口にした。
神と崇め、無償の愛を捧げることを選んだ男の正体が、ただの暴力的な不審者だった。
それでもまだ、恋という病の渦中にいたら、床に叩きつけられた衝撃すら、推しからのファンサービスとして脳内で美しく変換していたかもしれない。怪我をした手首を愛おしく撫でまわしていた可能性すらある。けれど、柚希はもうルカ・ブライトを推していない。
信仰を失った人間にとって、いま現実に自分の身に起きていることは、擦りむいた手の甲が痛むという、それだけの事実だった。
救いようのない現実や痛々しい本質に蓋をして、虚妄を愛でていられた頃のほうが、どれほど幸福だっただろう。正気なんてものは、この街の路上に落ちている吸い殻と同等に、価値のない無駄遣いでしかないのだから。
「おい。いつまで呆けているんだ」
「はいはい。分かってるって」
擦りむいた手の甲がじくじく痛むのを我慢して、柚希はトボトボと歩きコンビニを目指す。




