06:元推しは、めちゃくちゃ嫌なやつ
同居というのは、幻想を殺すために、最も効率のいい装置らしい。柚希はこの一週間で、それを嫌というほど学んだ。
ルカは、家事を一切しない。していないというより、家事という概念自体が、彼の中に存在していないようだった。皿は使ったまま、洗面所は使うたびに水浸しになるうえ、毎回新しいタオルを使うため、床には生乾きのタオルが地層のように積み上がっていく。
柚希が黙って片付けても、彼は一言も礼を言わない。礼を言う、という行為そのものが、彼の辞書からごっそり抜け落ちているようだった。
人のものは、断りなく使う。柚希の充電器、イヤホン、お値段高めのフェイスタオルに、高校の頃から使っている、いい感じに柔らかくなったタオルケット。それらすべてが当然のように、彼の生活圏へ吸収されていく。所有権という概念は、王族には通用しないものらしい。
風呂とトイレは、異常に長い。おそらく、鍵のかかる程よい広さの密室というものに、生まれて初めて心から安心しているのだと思う。だが、待たされる側の身にもなってほしかった。
言葉遣いは終始傲慢。口が悪い。ちょっとしたことで殺気立つ。極めつけに、自分が一番偉いと、疑いもなく信じ切っている。
積もり積もった不満は、水曜の夜。お風呂上がりのルカが食器棚の扉を開け、綺麗なコップが一つもないことに、不機嫌そうな舌打ちを鳴らした瞬間、限界を越えた。
「おい。使えるグラスが一つもないのだが」
濡れた漆黒の髪から雫を床に滴らせながら、ルカはまるでこちらの管理不足を咎めるような視線を向けてくる。ウニクロで買ったパジャマ姿で、首には当然のように、午前中に洗って乾燥機をかけたばかりのお値段高めなフェイスタオルがぶら下がっていた。
「洗ってないからだよ。あんたが使った端から放り出して、一つも洗わないから」
「洗う? なぜ俺がそんな雑務をこなさねばならんのだ。使用した道具の洗浄など、小間使いの仕事だろう」
あまりにも当然のように吐き捨てられた言葉に、柚希の中で何かがぷつりと切れた。
「小間使いって誰のこと? ここはあんたの城でも暗殺組織の拠点でもないの。私の家! 私がお金を払って借りてる部屋なんだけど!」
「知っている。お前が日々、不可視の対価を画面に吸わせ、食料と引き換えに維持している狭小な檻だろう」
「電子決済をバカにしないで。その檻の家賃も光熱費も、あんたが毎日使ってる水道代も、全部私が働いて払ってるの。居候のくせに家事も手伝わない、礼の一言も言わない、タオルを地層みたいに積み上げて、人のものを勝手に使って……少しは申し訳ないとか思わないの?」
一息に捲し立てた柚希を、ルカはスミレ色の瞳で冷ややかに見下ろした。その表情からは、少なくとも反省しているようには見えない。むしろ、何をそんなに怒っているのか理解できない、とでも言いたげだった。
「なぜ申し訳なく思う必要がある」
「……は?」
「俺は頼んだ覚えなどない。お前が勝手に俺をこの世界へ引きずり込み、勝手に食料を差し出し、勝手に片付けているだけだろう。お前が勝手に行っている無償の奉仕に対し、なぜ俺が頭を下げる必要があるのか、全く理解できない」
堂々と叩きつけられたその暴論に、柚希の思考は一瞬で凍りついた。
ゲームの中では、その孤高さも、他者を拒絶する不器用な歪みも、フィルター越しに「哀しき王子の切ない魅力」として美しく昇華されていた。画面の向こうの彼は、すべてを背負って一人で散っていく儚いヒーローだった。
けれど、次元の壁を突き破り、質量と体温を持って肉体化してしまった元推しは、めちゃくちゃ嫌なやつだった。
二次元は裏切らない。多くの人が口にする、その言葉の意味を、柚希はいま、身をもって実感した。
裏切らないというのは、どこまでも永遠に美しく、優しく、自分を裏切らないという意味ではない。画面の向こうに閉じ込められている限り、彼らは決してこちらの生活を脅かさず、部屋を汚さず、傲慢な態度で冷蔵庫の中身を食いつぶすこともない。都合のいいフィクションとして、完璧な美しさを保ち続けてくれる。
それこそが、「裏切らない」の真意だったのだ。
「……そう。勝手にやってるだけ、ね」
柚希は深く、冷たい息を吐き出した。推し活で培ってきたルカへの愛着と熱量が、音を立てて冷え切っていく。
同居という装置は、見事に幻想を殺してくれた。目の前にいるのは、愛すべき推しなどではない。柚希の生活空間を侵食し、リソースを無制限に貪り食う、タダ飯食らいの有害な同居人だ。
「分かった。じゃあ今日から、完全に従量課金制にするから」
「じゅうりょう……何だと?」
ルカが怪訝そうに眉をひそめる。柚希はノートPCを開き、画面に新たなテキストファイルを立ち上げた。
「労働の対価として、この部屋での生存権を切り売りしてもらうってこと」
キーボードを叩く乾いた音が、静かなリビングに不協和音のように響く。モニターの青白い光が、柚希の冷え切った眼差しを薄く照らし出していた。
「この世界において、無償の優しさなんて存在しないの。あんたが散々見下してきた『小間使いの仕事』の一つひとつに、今日からきっちり値段をつけるから」
「お前は何を言っている」
「皿洗い一回につき、いくら。洗濯機を回して畳むまでで、いくら。それが払えないなら、水も、食事も、その高級タオルも提供しない。因みにそのタオル、顔拭く用だから」
ルカは不快そうに目を細めた。紫色の瞳に、かすかな殺気と侮蔑が揺れる。
「……愚かな。俺に取引を迫るつもりか。命乞いならともかく、そのような下賤な計算でこの俺を縛れると思うなよ」
「縛る気なんてないよ。ただの契約」
柚希はトラックパッドをスライドさせ、完成したテキストファイルを画面いっぱいに表示させた。そこには、容赦のない「生活労働料金表」が列挙されている。
食器洗浄:一皿につき1マニ
浴室・洗面所の水滴拭き上げ:一回につき5マニ
洗濯物を畳む作業:一回につき10マニ
※タオル地層化のペナルティ:一日につき-20マニ
【特別徴収】
傲慢な態度・暴言:一発言につき-5マニ
(※当部屋独自通貨。一マニ=ツナマヨおにぎり半分)
ちなみに『マニ』とは、彼のいた世界の通貨単位だ。怒りに震えながらも、彼に伝わりやすい単位へ瞬時に脳内変換してしまう己の無駄な親切心が、余計に癪に障った。
「暗殺の手際がいくら鮮やかでも、ツナマヨのフィルムすらうまく剥がせない男に、タダで与える飯はないから」
画面をルカの正面へと向け直す。
暗殺者として、王族として、命を奪うことと奪われることの対価しか知らなかった男。そんな彼が、初めて言葉を失い画面を見つめている。少なくとも、先ほどまでの余裕な雰囲気が薄れている気がする。
「……俺に、泥を捏ねるような真似をしろと言うのか」
「大袈裟すぎる。誰だってやってることじゃん」
「俺は、王族だ」
ルカは悪びれもせず即答した。その落ち着き払った態度が、余計に神経を逆撫でする。
「今は住所不定無職!」
一瞬の沈黙が落ちた。
その静寂の中で、柚希は自分の言葉の切れ味に、少しだけ引いた。だが、撤回はしなかった。事実は事実だ。
ルカが、珍しく何かを考えるように黙り込んだ。やがて、静かに問いかける。
「……お前は、俺を嫌っているのか」
この男の口から出た問いとしては、驚くほど直球だった。
「嫌い」
考える間もなく、言葉が口から滑り落ちた。言った直後、なぜか自分のほうが少しだけダメージを受けた。
ルカがまた黙り込む。今度の沈黙は、どこか違っていた。王族としてのプライドで、目の前の理不尽を噛み砕こうとしているようにも見える。もっとも、その整った頭の中で何を考えているのかなど、知る由もなかったけれど。
「……そうか」
やがて、ルカは呟いた。
その声音が妙に静かで、柚希は少しだけ引っかかった。怒るでもなく、反論するでもない。言い訳すらない。ただ、少なくとも彼が傷ついたわけではなく、何か別の演算を始めたことだけは分かった。
そして、その結果が判明したのは、翌朝だった。




