26:元推しは、帰還する、しない?
ルカの端末に、一通のメールが届いたのは、スマートフォンを手にしてから、わずか数日後のことだった。
そろそろ寝たほうがいいのは重々わかっていた。明日の仕事のことを考えれば、とっくにベッドへ潜り込んでいるべき時間だ。
けれど、今日という愛おしい一日を終わらせてしまうのがどうしても惜しくて、柚希は「おやすみ」と別れを告げるきっかけを失ったまま、リビングのソファでルカと並んで座っていた。膝の上に載せたタブレットの画面では、子猫が無邪気にじゃれ合う癒し動画が再生されている。画面から漏れるぼんやりとした光が、薄暗い部屋の中で二人の横顔を静かに照らしていた。
その時だった。
テーブルの上に置かれていたルカのスマートフォンが、暗闇の中で一度だけ静かに発光した。
怪訝な表情でルカがスマホを手に取る。柚希はさり気なく横目で彼のスマホ画面をチェックして、眠気が一気に吹き飛んだ。
受信音すら鳴らなかった黒い画面に浮かび上がっていたのは、行政文書めいた件名だった。
件名:〈重要〉次元振幅異常に伴う帰還手続及び記憶処置のご案内
差出人:境界観測省・第四事象管理課
本文には、局所的な振幅異常――フェイズ・エラーにより意図しない次元転移が発生し、ルカが現行世界へと異送された事態について、不気味なほど丁寧な謝罪が綴られていた。
事象の正常化に伴い、元の世界への緊急帰還手続きが可能となったこと。専用リンクから承認を進めれば、速やかに移送が開始されること。
そして、末尾に添えられた、不快なほど簡潔な一文。
――事象の漏洩防止及び観測対象の保護の観点から、帰還完了と同時に、現行世界においてルカ・ブライト様を認知・記録している全ての人物の記憶データについては、当省の規定に基づき、完全に消去・是正処理を行います。
周囲の人間関係や残留データに一切の爪痕を残すことなく、安心・安全に元の世界へお戻りいただけますので、ご安心ください。
世界を弄ぶ機関からの自動送信メッセージは、血の通わない文字の列で、柚希とルカが紡いできた平和な日常の終わりを告げていた。
「私のせいじゃないじゃん……」
柚希の口から漏れたのは、あまりにもあっけない真実に対する、掠れた心の声だった。
この一年間、彼をこの世界に縛りつけているのではないかという罪悪感を抱いていた。けれど、蓋を開けてみれば、どこかの管轄が引き起こした、ただの行政的な事故処理に過ぎなかったらしい。
「みたいだな」
ルカの声もまた、拍子抜けしたように平坦だった。
「境界観測省って、知ってる?」
「知らん。だが、お前たちの言う『役所』みたいなものだろう。事故が起きたから片付ける。それだけのことだ」
ルカのどこか他人事のような声は、クーラーが効いてキンと冷えた空気に溶けていく。
境界観測省なる組織のデータベースにおいて、彼は最初から処理待ちの「エラー」として扱われていただけだった。柚希が抱いていた「自分が異世界人を匿い、運命を狂わせている」という密やかな自責や特別感など、彼らの手続き表の前では、一文字の価値もなかったのだ。
帰還への道筋は、唐突に、けれど完璧な形で提示された。
だが、その代償として、この世界で二人が積み重ねてきた記憶は、柚希の脳からも、ルカの脳からも、綺麗さっぱり無かったことにされる。
言葉にせずとも、提示された条件の残酷さを、二人は沈黙の中で分け合った。
「どうするの?」
柚希は静かに尋ねた。
喉の奥まで出かかっていたエゴを、必死で呑み込む。帰らないでほしい。私を置いていかないで。向こうに行ったら死ぬんだよ。そんな悲鳴が胸の内側で渦巻いていた。
けれど、「私のためにここにいて」なんて言葉は、最初から選択肢に入れないと心に決めていた。
「帰りたいなら、帰りなよ」
それが、柚希なりの歪んだ愛の証明だった。
彼を所有しないこと。2LDKの自宅に閉じ込めないこと。日陰の観葉植物のように、自分だけの鑑賞物として飼い殺さないこと。彼を正しく突き放し、綺麗に送り出す側の人間になることを、柚希は静かに選んだ。
ルカが帰りたいと願うのは当然だった。あちらの世界には、彼が積み上げてきた過去がある。母親の面影があり、彼の守るべき王国があり、彼自身が途中で投げ出さざるを得なかった人生がある。
「帰りたい気持ちは、ある」
ルカは迷いのない声で、はっきりとそう言った。
「ただ、以前ほどではない」
その言葉に含まれた重量を、柚希はすぐには測りかねた。期待してはいけないと、心が警鐘を鳴らす。
それ以上、その日は二人の間で何ひとつ話が進まなかった。沈黙だけが、二人の間にどこまでも重く横たわっていた。
*
翌日以降、柚希はルカが「いついなくなるのか」と「まだいてくれた」という恐怖と期待に、絶えず胃を苛まれるようになった。
「案件の納期がまだ終わっていない」
「プログラミングで、まだ理解できていない構文がある」
「俺が選んだベッド、あれはまだ手放すには惜しい」
ルカは顔色ひとつ変えず、もっともらしい理由をいくつも積み上げては、帰還の実行ボタンを押す日を静かに先延ばしにしていく。
自分の意志で残っているのではなく、ただ都合によって滞在が延びているだけ。そう自分に言い聞かせるような彼の言い訳は、あまりにもつたなく、愛おしかった。
そうして二人の曖昧な猶予期間は、何ひとつ答えが出ないまま、あっという間に一ヶ月という月日を飲み込んでいった。
その一ヶ月の間、柚希はいつか必ず訪れる終わりの日に向けて、静かに自傷めいた覚悟を整え続けていた。ルカの前ではいつも通りの穏やかな居場所であり続けるため、努めて軽やかに、明るく振る舞う。
けれど夜、自室のベッドで一人、暗闇に取り残されると、胸の奥に溜まった澱が押し寄せて息苦しくなる。柚希は静まり返った天井に向かい、弱々しく呟いた。
「大丈夫。私には、アクスタがあるし」
それは誰の耳にも届くことのない、あまりにも惨めな自分だけの免罪符だった。
推し活グッズの代表格ともいえるアクリルスタンドという透明な樹脂の塊。どれだけルカの面影を象った偽物を抱きしめたところで、本物の手の温もりも、彼が淹れてくれるぬるい紅茶の味も、代用できるはずがない。
寂しさも絶望も、何ひとつ誤魔化しきれていないことなんて、自分が一番よく分かっていた。
それでも、惨めな嘘を吐いて自分の心を騙さなければ、今すぐにでも彼の足元にすがりついて、「行かないで」と泣き叫んでしまいそうだった。
ある日の夕食。食卓には、ルカがリクエストした、少し久しぶりのきんぴらごぼうが並んでいた。
「お前の作ったきんぴらごぼう、向こうに持って行けたらいいのに」
箸をぴたりと止めて、ルカがふと呟く。軽い冗談のような口調だった。けれど、その声の奥には、隠しきれない本音がふわりと滲んでいた。
――帰りたい。でも、ここにも捨てがたい日常がある。
彼の心を占めるこちらへの未練は、一体何パーセントくらいなのだろう。
乙女ゲームのように、視界の端に好感度メーターでも表示されればいいのに。
そんなことを真剣に考えていた柚希に、短い沈黙のあと、ルカがまっすぐ視線を重ねてきた。
「お前のことを、もっと知りたい」
その言葉が、柚希の胸の奥へ静かに、けれど温かく染み込んでいく。
知らないから、知りたい。
それはかつて柚希が悩み抜いて、ようやく辿り着いた答えと、まったく同じ言葉だった。すれ違っていたはずの二人が、実はちゃんと同じ場所を目指していたのだと、柚希は遅れて気づいた。
柚希はぎゅっと拳を握り、意を決して言葉を返した。
「私も、ルカのことをもっと知りたい。画面の中のゲームのキャラじゃなくて、いま私の目の前にいるルカのこと」
「……それは、告白なのか?」
真顔でストレートに聞き返されて、柚希は思わず絶句する。
「……たぶん」
自分でも思わず笑ってしまうくらい情けない返答だった。
ルカは一瞬だけぽかんと柚希を見つめたあと、ふっと目元を緩めて、驚くほど落ち着いた声で言った。
「なら、時間が必要だな」
「え」
「俺も、お前のことをまだ半分も知らない」
その言葉には、戸惑いも拒絶も微塵もなかった。
「だから、これから知っていく」
ドラマチックな抱擁も、大げさな愛の言葉もなかった。けれど、二人の暮らしの中に転がっていた小さなピースが、その一言でカチリと音を立てて噛み合っていく。
今日から私たちは、ゆっくりと、お互いを知っていく関係になる。
夏のぬるい風が吹く部屋で、柚希は少し照れくさそうに、けれど晴れやかに笑った。




